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運命なんてクソ食らえ
高坂と電話で話してから、俺は仕事に明け暮れた。何かしていないとつい、あいつのことを考えてしまうからだ。それに万が一高坂が自宅に押しかけてきたら俺には逃げ場がない。あの方向音痴が道を覚えているかはわからないが、ネットを使えば一発だろう。だから終電まで働いたり、率先して夜勤を引き受けたりしていた。
しかし高坂自身との遭遇は回避できても、あいつとの思い出はいたるところに亡霊のごとく現れる。肉を見ればうまそうに頬張るあの丸い顔を思い出す。病院でも患者用のトイレに行けば、入院中の高坂との小競り合いを思い出して笑ってしまう。家に帰ればここであんなことをしたなと細部まで思い出して、自慰行為にふけった後の喪失感たるや。
これでよかったんだ。高坂はきっと、自由になれたはず。何度そう自分に言い聞かせたことか。
俺はどんどん不自由になっていく。がんじがらめに縛られて、息もろくにできない。
そうして朝から晩まで働き詰めだったある時、忘れていた高坂の経過観察の予定をカレンダーに見つけた。これは確か、いつぞやの自分が高坂をここに引き留めるためにブッキングした全くもって不必要な検診だ。日にちも迫っているし、今更取り消せない。あいつに会いたいという自分勝手な願望をぐっと飲み込んで、担当を変わってもらった。
だから院内に見覚えのある刈り込んだ頭を見つけたときには、懐かしくてつい声をかけてしまった。この頭は確かタクとかいう、高坂の友人だ。何故知っているかって、こいつは一番最初に高坂の見舞いに来たし、ほぼ毎日、俺が止めるまで病室でバカ騒ぎをしていた主犯の一人だからだ。
「よう、病気とは無縁そうなお前が何故ここにいる。さては怪我か」
「なっ! タン塩、どっから湧いて出てきやがった!」
「湧いて出たのはお前の方だ。ここは俺の庭だが」
「びっ、病院? 俺はさっき薬局を出たはず。いつの間に病院なんか建てやがった」
「薬局は病院の隣だ。いい年こいて迷子とは。高坂と類友というやつか。なぜ令和を生きる若者がスマホのナビを使わない」
「るせェよガラ携なんだよ!」
「てめェも高坂もジジイかよ。だがそれがかわいいのは高坂だけだ。お前のジジイっぷりはただの老害予備軍だな。それよりお前、なぜ薬局に」
「お前、見かけによらずちょっとズレてんな。俺は晴に頼まれたんだよ。あいつヒート起こして、俺が代わりに鎮静剤を取りに来たんだが。あれ、これ言っちゃいけねェ話か?」
背筋が凍った。心臓が急速に冷えていく。
待て、どういうことだ? トリガーは俺じゃなかったということか? あいつは無事なのか? 今まで抑制剤も持ち歩いていなかったのか? なら当然鎮静剤も持ってなどいないだろう。
「おい、聞きてェことは山ほどあるが、まず高坂のヒートはいつからだ」
「たぶん今日からだろ」
「お前が代わりにここへ来たってことは、あいつに会ってきたんだろ? 様態はどうなんだ」
「やべェよ。あいつが肉食わねェとかタダごとじゃねェ。話ついでに頼みがある。タン塩、これ晴のところに持ってってやってくんねェか。俺アルファだからあんま近づきたくねェんだよ。お前医者だし、そっちの方が便利だろ」
こいつもアルファか……。
思わず苦い顔をする。この際自分のことは棚に上げておくが、こいつにヒート中の高坂の周りをウロチョロさせておくのは気が進まない。こいつが変な気を起こすとも限らない。
「俺は専門外だがな。お前、あいつの匂いに気づいたか? オメガはヒート中に特別なフェロモンを発する。アルファなら匂ったんじゃないか?」
確信はなかった。だがもしかしたらその匂いは運命である自分にしか分からないのではないかと思ったのだ。そうであってほしかった。
「匂い? 匂いは特になかったけど……」
目を逸らされた。
「けど、なんだ。言えよ」
俺は苛立ちを隠さずに先を促した。
「……」
俺は舌打ちした。怒りで目の前がぐらぐら揺れている。
答えないということは、やましいことがあるからだ。このクソ野郎。
だが今怒りをぶつけても、こいつは口を割らない。ここで騒ぎを起こすわけにもいかない。今こいつの言い分を聞いてやって、高坂からも聞くまでだ。時間がないのだ。俺は白衣の前立てを両手できゅっと引っ張って、真正面から向き合った。
「わかった。俺が高坂のところに行く。ただし言い訳は今しか聞かねェから、あいつにしたことをすべて吐け。どうせ高坂から聞くんだ、無駄なあがきはやめとけよ」
はぁーっと大きなため息をつき、「怒んなよ」と前置きをして、相手は言葉を続ける。
「俺が部屋に入ったとき、あいつはその……。一人でしてたんだよ。そんで、なんつーか、魔が差した」
カッと頭に血が上った。左手で胸ぐらを掴んで、胸糞わるい顔を引き寄せた。
「お前……っ、やったのか……?」
絞り出すような怒りの声が出た。呼吸が荒くなる。痛いほど握りこんだ右手が震える。
「ま、まさか……。あいつ、そういうことに全く興味なさそうだったから、びっくりしたっつうか、まあ、好奇心だよ。手伝ってやろうかなと思ったんだけど、蹴られたし。『おれはそういうことは好きな奴としかやんねーよ!』ってな。あいつ、見た目通り硬派だろ」
「それはっ……」
どういうことだ。額面通り受け取るなら、この目の前の短髪男は願い下げだが、おれは歓迎だということだろうか。高坂が誰とでも寝るようなヤツじゃないということは百も承知だが、ヒートは事故だった。だがもし、あの一件(正確には二件だが)がなくても、高坂は自分をそういう意味で好きだと思ってくれていたのだろうか。
「おいタン塩、その顔でニヤニヤすんじゃねぇよ、気持ち悪い。いい加減放せ」
「ほっとけ! どんな顔でもおれの顔だ、好きにさせろ」
俺はようやく掴んでいた襟元を放してやると、その手で相手の胸を押し離した。
「ゲス野郎が。お前は金輪際高坂に近づくな」
吐き捨てて、鎮静剤の入った紙袋と高坂の部屋の鍵をむしり取ると、一目散に駆けだした。
病院前で客待ちしているタクシーに乗り込み、行き先を伝える。あいつのうちはここからそんなに遠くない。一度だけ招かれた小さなワンルーム。あそこで今好物の肉も食えないほど苦しんでいるのだろうか。苦しませているのは、俺なのか。
目をつぶるとエンジンの僅かな振動を背中に感じる。
あいつはもう俺に会いたくないだろう。俺の助けなどきっと待っていない。殴る価値もないと言われたが、殴られることは覚悟しておいた方がよさそうだ。
俺はこのお使いが終わったら、あいつの意志を尊重して、はいさようならとこの単調な日々に戻ってくるつもりなのか?
窓ガラスに映る疲れきった顔を睨む。窓を開けようと手を伸ばすと、ふいに静電気がパチパチと左手に走った。あの時受けた高坂の拳の痛みが蘇る。
『おれの人生はおれが決める。先生もやりたいように、自由に生きろ』
いつかの高坂のセリフが脳内でこだまする。あいつは自分の意志で、運命を信じないと決めたのだ。
俺も、俺の意志に従って「運命を信じる」ことを決めてもいいのだろうか。それが、自由に生きるということだとしたら。
俺のやることはもう決まっている。
タクシーでほんの数分の距離が、何万キロにも感じられた。
*****
―――ピンポーン―――
おれは動きたくない。タクなら渡した鍵で入ってくるだろうし、そのままベッドで猫のように丸まって待つ。
―――カチャカチャ―――
開錠の音とともにドアが開き、冷たい外気がとんでもなく甘い匂いを運んできた。頭がくらくらするほどのこの強い匂いの持ち主を、忘れるわけがない。思ってもみない来客に油断したおれは、思い切り吸い込んでしまった。
「おまえ、なんで……」
おれは顔をしかめた。
「しっかりしろ高坂、お前の友達から頼まれて鎮静剤を持ってきた」
白衣だ。ちょっと苦しそうなほどきっちりと締められた紺のネクタイ。さっき病院で見たままの格好で、まっすぐこちらへ駆け寄ってくる。ベッドの横で膝を床について、布団の中のおれのと目が合った。
久しぶりに間近で眺めるタン塩の顔。酷い隈。それに青白い。こいつの方が心配だ。
自分のシャツの前見ごろをぎゅっと掴んだ。あんなに憎たらしいと思っていた顔が、目の前にある。一発、いや二発でも三発でも、自分の気が済むまで殴りつけてやろうと思っていた顔が。でも、今のおれは息をするので精一杯だ。
「お前、ホントにあいつに何もされてねえのか、身体は大丈夫か」
心底不安げな様子で先生が聞く。おれにあんなことをした分際で、よくそんなことが聞けるなとは思うが、明らかに本気で心配している。
「タクがしゃべったのか? 別に大したことねーよ。見られて、手伝ってやるって言われて、布団に入ってこようとしたからベッドから蹴り落とした。そんだけだ」
使い捨てたティッシュが散乱し、青臭い匂いが充満するこの部屋では、そんな短い説明で十分伝わるはずだ。
「くそっ、なんで俺に最初に連絡しないんだよ! って、するわけないよな……」
眉間にしわを寄せているのはいつものことだが、こんな表情は初めて見た。タン塩がそんな風に動揺をあらわにすることなんて、今までなかった。後悔の滲む顔というか、悲しい顔というか、とにかく見ているこっちが、泣いてしまいそうな顔だった。
だから、目を逸らした。ホントに泣いてしまう前に、おれは何とか体を起こし、大きく深呼吸をして、本題に入る。
「当てられに来たのか、タン塩」
散々会うことを渋っていたくせに、今更ここに来る理由を考えてみる。
「だったら鎮静剤なんざ持って来ねェよ」
歪んだ顔は、走って来たのか少し頬が赤い。息を詰めているような表情に、相手もおれに当てられて苦しいんだろうということはわかった。それでも、おれは白黒はっきりさせなきゃならない。このまま流されるのも、このまま再び消えられるのもゴメンだ。
「タン塩、おれの目を見て言えよ。もうおれに会いたくねー理由。それによっちゃあ納得してやるよ」
一緒に過ごした時間はあんなに楽しかったのに、顔も合わせず自分の前から消えようとしている、全てをなかったことにしようとしているこいつが許せなかった。
タン塩が口を開く。おれは、一言一句聞き逃すまいと、耳をそばだてる。今のおれに殴る元気はない。たとえ元気があったとしても、このきれいな顔に傷をつけるような行為はきっとできないだろう。だからこれで終わりにしてやろうと、そう覚悟を決め、静かに待った。
なのに、次の瞬間、予想外の展開におれは固まる。
「晴。俺は、お前が好きだ」
「えっ」
空気が止まった。おれは今聞いた言葉を頭の中で反芻する。うまくのみこめない。
「ずっとお前が好きだった。好きで好きで、たまらない。もうどうにかなりそうだ」
身動き一つしないおれを、先生が思い切り抱きしめる。先生の匂いが体の中に大量に流れ込んできて、こっちがどうにかなりそうだ。
やばい、これはやばいっ。おれは会わない理由を聞いたのに、そんなむちゃくちゃな直球を投げられて、こんなゼロ距離でフェロモンをまき散らされたら、おれの理性は吹っ飛んでしまう。今すぐにかき抱いてしまいたい衝動を必死で押さえると、そんなはずはないと考える自分が疑問を口にする。
「せんせ、彼女は」
「そんなものは初めから存在しない。いつもお前だけが俺の週末の楽しみだった。騙して悪かった。そうしないと、お前を放してやれないと思った」
腕がほどかれる。おれの目をまっすぐに見つめる先生に、おれは瞬きもできない。
「なんだよ、それ……」
おれの頼りない声は、震えた。
「次に会ったら、次お前を抱いたら、俺は項を噛んでしまう。止まれないんだよっ、気が狂いそうなほどお前が欲しくて……。くそっ、今だってそうだ。でも、お前は違うんだろ、自由に生きたいんだろ? だから、早く飲めよ鎮静剤。俺はもうどこにも逃げない。お前を逃がさない。お前の幸せを願ういい大人は止めだ」
先生が震える手で錠剤を取り出し、俺の口にねじ込む。長い指でペットボトルの水の蓋を開けてよこし、おれは促されるままに飲みほした。冷たい液体が喉元から胃の中に落ちていくのを感じて初めて、ものすごく喉が渇いていたのだとわかった。少しだけすっきりしたのどの奥から、思ったことがそのまま出てくる。
「嚙みたいなら、噛めよ。んなことくらいで、おれが生き辛くなるかよ」
「んなことって、お前……。一生俺に縛られるんだぞ、わかってんのかよ高坂」
「んなわけねーだろ。番になろうがなるまいが、先生を好きかどうか決めんのはおれだ。ずっと一緒にいたいと思うのも、嫌になって止めんのも、おれの自由だ。そんで文句ねーだろ。勝手におれの幸せ決めつけんなよ」
最後まで目を逸らさなかった。
「はっ」
先生が渇いた笑いを零す。この笑顔を、随分と長いこと見ていなかった。
「お前、そんなに俺に惚れてたんだな。そんな素振り今まで微塵も見せなかったくせに、大人をからかいやがって」
先生は最後のほうはやけくそみたいな言い方で笑った。乱れた前髪が、端正な顔をいくらか幼く見せている。
「おれはちゃんと、先生の目を見て好きだって言ったぞ。受け取らなかったのは先生がひねくれてるからだろ。おれのせいでこじれたみたいに言うな」
「悪かったな。殴るなり蹴るなり好きにしろ」
「ほんと、ばかな大人だな、顔上げて」
先生の顔を包むように両手を添える。
おれはこのちょっと冷めたような切れ長の目が好きだ。この薄い唇も、冷酷そうな印象を作るのに一役買っている。でもおれは、先生だっていろんな感情を秘めていることを知っている。
ちゅっと唇を触れ合わせた。
胸につっかえたものを、ゆっくり吐き出していくように言葉にする。
「許してやるけど、次はねーよ。おれは自分を大切にしない奴は嫌いなんだ」
「お前だって怪我ばっかしやがって、全然大切にしてないだろ」
「そういう意味じゃねーよ。自分に嘘をついてまで欲しいものをあきらめるのは、自分を大切にしてないってことだ」
「お前の言い分はほんとに勝手だな。まあいい」
先生の目が伏せられて再び近づくと、無意識に目を閉じる。キス一つで全身に熱が駆け巡る。こんな身体に作り変えてしまったのは、先生だ。
片足をベッドに乗り上げ、今にも舌を入れて押し倒してきそうな先生の両肩をがっしりと捕まえて、その目を捕らえた。
「ち、ちょっと、先生落ち着いて!」
「この状況で落ち着けと? 俺はもう我慢できない。今すぐお前としたい」
「いや、先生、そこをなんとか我慢しろ!」
そういえば、もう先生からあの濃厚な匂いがしない。汗もすっかり引いたし、下半身にたまり続けていた熱も、少し落ち着いてきた。そんなに強い匂いは、おれはもう出していないはず。
「薬効いてきたのに、なんでっ」
「なんでって、確かにお前の匂いは消えんだから、薬は効いてんだろ。でもな高坂、お前は俺の性欲を見くびっている。俺はいつでもお前とやりてェよ」
顔がカッと熱くなる。先生の胸を押し返すのに、先生はビクともしない。
ついに俺を押し倒した先生が、切ない顔で聞く。
「それとももう俺としたくねェってことか?」
「してェよ、してぇに決まってんじゃん! でもヒートじゃない時にもっとゆっくり、な。だって、いつもおれはヒートに溺れてよくわかんなくなっちまうから」
突き刺さるような眼光に、おれは目玉を動かせないほどドキドキしている。ヒートなんて関係なく興奮してしまうのは、やっぱり相手が先生だからだ。
「ちっ、わかったよ。飯でも買ってきてやる。お前はここで休んどけ」
ようやく先生がおれの上から退くと、犬にするみたいに、前髪をわしゃわしゃと撫でた。おれは安堵とも物足りなさともつかない気持ちを持て余し、再び布団で丸くなった。
***
空気が澄んでいる。
布団から出たつま先が冷えて不快だったはずなのに、夢を見る間もなく訪れた朝。隣にはちゃんと服を着たままの高坂。自分も服を着ている。と言っても高坂の服はおれには小さすぎるので、借りたのはTシャツだけで下は下着一枚という格好だが、それでもこいつとベッドを共にして、互いに着衣の状態で目覚めるのは初めてだ。カーテンの隙間から差し込む朝日が、汚れのないシーツに明るい線を描く。
昨日は鎮静剤の服用後、高坂は少し眠り、俺は部屋を片付けた。それからすっかり食欲を取り戻した高坂と晩飯をとりながら、話をした。
やはり昨日のヒートの原因は俺だったようで、拾ったマフラーについていた俺の匂いに「ドキドキしてヒートがきた」と話す高坂に、俺は悶絶した。たった一人で苦しんでいたに違いないあいつには本当に申し訳ないのだが、俺のマフラーを巻いている高坂を想像するだけで鼻血が出そうだった。拝み倒して実際に巻いてもらったのだが、その破壊力ときたら、戦争が起きるレベルだ。しっかり写真におさめ、待ち受け画面にしたことは言うまでもない。
タクの証言からすると、ワクチン接種済の高坂のフェロモンに反応するのは、番になろうがなるまいが恐らく俺だけだろう。だが、フェロモンなど関係なく、高坂は可愛いのだ。こいつの可愛らしさは性別を超えている。だからこそ、タクは興奮したのだ。高坂が一人でしている現場に遭遇するなんて、鼻どころか目からも血が噴き出しそうだ。できるならタクの頭蓋骨を開いて、その記憶の一切をメスで切り取ってやりたい。
責めるつもりはなかったが、抑制剤を持っていなかった理由を高坂に聞いたとき、あいつの目はあからさまに泳いでいた。
「病院には検査に行って、問題ないって言われた。抑制剤は帰りにもらうはずだったんだけど、あれだ……、な、なくしたのかな、たぶん……」
後半から明らかに目を合わせようとしなくなり、俺は片手で高坂の両頬を掴んで、目をのぞき込んだ。
「俺の目を見ろ高坂。吐け、何を隠している」
更に指に力を入れると、突き出た唇をパクパクさせて考えている。どうせ考えたって大した言い訳は浮かばないくせに、顔を赤くして目まで潤ませると、なんだかこっちが悪いことをしているような気にさせられる。こんなときでも可愛いと思ってしまうのだから、俺の目はもう病気だ。
「ヒートなくるのがこわかったんだよ。ヒートがきたら、先生に会う理由ができるだろ。ま、結局おれは自分では呼べなかったけどな」
小さな声で不機嫌そうに話す高坂の、心の迷いを初めて知った。俺の見ている高坂はいつだって真っすぐで、真剣で、前へと突き進んでいた。そんな奴が俺なんかのために、リスクを背負ってまで悩み、考え、立ち止まったのだ。
「晴……」
抱きしめずにはいられなかった。
すぐそばにある、平和そのものの寝顔に再び目を落とす。
昨日は高坂のシングルベッドで寄り添って眠った。少し小さい背中を後ろから抱きかかえるようにして横向きに身を寄せた。いつか病室でしていたように。その体温に骨まで溶かされそうだと考え終わらないうちに、深い眠りに落ちていた。
静かな寝息は、こいつが今生きているということを俺に教えてくれる。幸福に音があるとすれば、こんな風にともすれば聞き逃してしまうような、ささやかな、しかし確かな音なのだろう。
起こさないようにそっとベッドを抜ける。昨日着ていたスーツしかないので、仕方なくそれを着る。こいつが起きる前に、コンビニで朝食でも買ってこよう。テーブルに投げ出されていた鍵を手に取り、ケータイをポケットにしまうと、静かに部屋を後にした。
***
玄関から聞こえる音で目覚めた。
先生がコンビニの袋を両手いっぱいに下げて靴を脱いでいた。昨日と全く同じスーツをきっちりと着込んだ先生に、おれは思いついた疑問を投げかけた。
「せんせー、はよっ。そう言えば昨日仕事どうした?」
「問題ない、祖母が亡くなったと伝えておいた。昨日無断で出てきてしまったことも謝っておいた」
「え!? 先生のばーちゃん死んだのかっ? 早く行ってやれよ!」
「嘘だと言ってやらないとわかんねェのか」
「なんだ死んでねーのか。医者のくせに勝手にばーちゃん殺すなよ」
「ばーちゃんは存在しない。家族はいないと昨日言っただろ。お前はホント話を聞かねェな」
「そうだっけ? まあいいじゃんおれがいるんだし! あっははは!」
おれはそのたくましい背中をバシバシと叩く。スーツを着ているとシュッとして見えるが、おれより広いその背中に意外と筋肉がついていることを知ったのは、初めてヒートが来た夜だ。思い出すと、あのとき自分がどんなに恥ずかしい声を上げていたかということまで思いだしてしまい、つい手に力がこもってしまった。
「痛ェよ高坂! 叩き過ぎだ。背骨が折れるだろうが」
「あっ、ごめん」
「ついでに忌引き休暇ももぎ取った。お前、今日大学は」
「今日はない」
「体調はどうだ」
「もうすっかり元気だよ。先生のおかげで」
「じゃあ」
先生がおれの胸を手でとんとついた。おれの後頭部がボスっと枕に沈む。安いベッドがぎしっと軋む。先生が俺の身体を跨いだからだ。見上げたその目の中に朝日が差し込んでいて、こいつの瞳はこんなに明るい色だったのだということに気づく。
「続き、するか」
質問じゃなくて決定事項みたいに言われて、おれはごくりと唾を飲んだ。
続き、の意味は分かる。ずっとそうしてほしかったのに、いざ誘われるとちょっと逃げたくなる。
するりと脱いだ上着が床に落とされる。おれを見据えたまま、片手でネクタイを緩め、シュッと音を立てて引っこ抜く。第一ボタンを外すと、喉仏の下のくぼみに影が落ちた。その一瞬の作業が滞りなくて、慣れた仕草は相手が大人なんだと教えてくる。自分にはない男の色気に圧倒され、おれの心臓は早鐘のように鳴りだした。
病院では一応優しい医者だった先生に、これから診察以外のことをされるんだと思うと、緊張する。触れ合うこと自体は初めてでもないのに、素面だといろいろな考えが頭をよぎり、おれは戸惑うばかりだ。
先生の目が鼻先まで近づいて、少しだけ首が傾く。反射的に目を閉じると、見た目よりもずっと柔らかい唇の感触にハッとして、無意識のうちに両手で先生の袖をキュッと掴んだ。何度もしたことがあるのに、この最初の瞬間はどうしても慣れない。
先生の舌は、甘い。甘くて、暖かい。その柔らかい熱に、脳みそまで溶かされそうだ。この柔らかさで、身体の隅々までなめられたら。余すところなく責められたら。
もう経験済みのその気持ちよさを否が応でも思い出し、全身に血が駆け巡る。
たまらなくなって、ヒートでもないのに気が急《せ》いだ。
Tシャツの裾から入ってきた手に、ゆっくりと撫で上げられる。その指の行き先が気になって、キスに集中できない。もどかしくて、身をよじった。バカみたいに鳴る心臓の音が、もう隠せないほどに耳の奥で鳴り響いている。早くしてほしくて、おれは言葉を探す。
「せんせ、おれ、もう……」
「そう急かすな、晴。ゆっくりしたいんだろ?」
先生の顔がおれの耳の横に埋められると、長い指が敏感なところを軽くつまむ。
「んっ、せんせ……あぁ……」
「晴……」
濡れた舌先が耳孔に入ってくる。おれはこれに弱い。先生の息が脳に直接響いて、思考が唾液で溶かされて、本能がむき出しになっていく。
先生が耳元で何度もおれを呼ぶ。そのささやきは信じられないほど官能的で、バカみたいだとは思うのだが、それだけで身もだえしてしまうほどエッチな気分になる。それはもう条件反射になっていて、呼ばれる度に、全身の血が下半身に向かってとんでもない速さで流れていく。先生とこういう関係になってから、自分の身体は隅々まで作り変えられてしまったらしい。そういうことには淡泊な方だと思っていたのに、先生が触れるたびに自分の変化を思い知らされる。
熱い舌が唇、顎、首筋から鎖骨、そして胸に滑り下りていく。これから何が始まるかもう知ってるおれの背中に鳥肌が立つ。時々歯が当てられると、そこから熱が広がって興奮で頭が沸騰する。
両肘で支えながら上半身を少しおこすと、先生の後頭部が股の間にゆっくりと沈んでいくのが見える。まだ辿り着いていないのに、ウズウズして、完全に勃ってしまった。
あっという間に下着まではぎ取られて、中心が恥ずかしげもなく飛び出す。ごつごつした手に似合わないほど優しくそこに触られると、望んでいた刺激に息が上がる。そこから上る柔らかい刺激だけで腰が抜けそうだ。先から零れる欲望をその長い指ですくわれ、熱いため息が出た。
自身の先が柔らかい温もりに包まれて、はっと短い息を吐く。粘着質な熱い隙間に奥まで飲み込まれ、どくどくと自分でも脈を感じるほどに中心に力が入っていく。強く吸われながらその温もりが上下し始めると、骨までどろどろに溶けるような強烈な快感がやってきた。
「あぁ……、ん……」
「晴、目を逸らすな。ちゃんと俺を見ろ」
眼下に広がる生々しい光景に、息を飲む。
わぁ、これは……。やばい。やばすぎるっ!
咥えたままの先生とバッチリ目が合い、恥ずかしすぎて顔から火が出るどころか、爆発して木っ端みじんになるんじゃないかと思った。いつも涼しい顔をしている先生が、走ってきたみたいに紅潮していてエロい。とても凝視していられない。ぎゅっと瞼を瞑ってもまだ先生の視線が注がれている気がして、余計に熱くなる。
「コラ、目を開けろ。お前は全然言うことを聞かないな」
「だって、せんせ……」
「ちっ、しょうがないな。そんな初々しい反応されちゃ」
ふいに割れ目をすっと撫でられ、ヒンヤリとした何かを垂らされた。コンビニで買ってきたのか、先生がローションの蓋をかちりと閉める。いきなり後ろに異物が中に入ってきた。おれはひっと小さく声をあげ、追い出そうと締め上げた。先生の指だ。
「辛かったら言え」
ヒートの時に、指を入れられたことはある。そのときには全く感じなかった圧迫感に、おれは目を白黒させる。何か訴えようと思ったけど、前の愛撫が再開されてそれどころではなくなった。
「ヒートが終わった直後だからか、随分柔らかいな」
少し指が曲げられて、背中が跳ねる。先生は前立腺がどこにあるのか、よくわかっている。
「アッ……、せんせ、そ、それは、だめだ!」
逃げたいのに、何度も襲ってくる「気持ちいい」津波から逃れられない。
「だめ? どうだめなんだ?」
意地悪な質問に答える余裕はない。
「せん、せ……、もう、ムリだからっ! あっ!」
前も後ろもむちゃくちゃにかき乱されて、もう先生がなにか言っているのも聞こえないし、全身が灼熱に溶かされて気が狂いそうだ。
たまらない、もう、出したい……!
「せんせっ、おれ、もっ、もう……っ!」
「クソッ!」
射精寸前の中心が突然咥内から解放され、恨めしいほどの名残惜しさに目を開ける。コンドームを咥えた先生が、片手でかちゃりとバックルを外し、忙しなく前をくつろげる。ベッドに乗り上げてきたときのような優雅さは一切ない。乱暴すぎるその動作に、いつも冷静沈着な『丹下先生』の面影はなかった。
「悪い。晴、俺も限界だ」
片足を持ち上げられ、両足の間に入った先生がもう片方の手で腰を掴む。指に代わってとてつもない鈍器が押し入ってくる。指とは比べ物にならない質量に、息をするのも忘れそうだ。
「晴……」
打ち上げられた魚のように浅い息を繰り返していたおれは、掠れた声でよばれて、なんとかその顔に焦点を合わせる。歪んだ顔にはじんわりと汗をかき、半開きの口からは荒い呼吸が見て取れる。苦しさで泣き出しそうな顔だった。
「せんせ……、くるしい?」
動かない先生に、問いかける。
「違う。お前が、悦すぎて……」
ああ、そうか。先生は気持ちいいのか。
きっと、先生もおかしくなるほどおれが欲しいのだ。
「せんせ……、お願い。動いて……」
「……っ!」
「あぁっ!」
奥まで入ってきた先生は、最初から容赦しなかった。
痛いか、痛くないか、そんなことを考える暇もないほど揺さぶられて、頭が真っ白になる。貫かれる度に、自分のものとは思えないような声が口をついた。
どんどんずり上がっていくのを許さないというように、腰を強く掴まれて、引き戻される。何かに縋り付かなければ溺れてしまうようで、必死で両腕を伸ばすと、先生が覆いかぶさってきた。回した腕から、シャツ越しに先生の汗や、燃えるような体温が伝わってくる。
「晴……、晴……」
乱れた息の合間に、うわごとの様に繰り返し呼ばれる。ぱた、ぱた、と先生の汗の飛沫が頬や顎にかかる。
暑い。熱い。
じわじわと気持ちよさが強くなってきたのは再び前立腺が擦られたからだ。もうなにがなんだかわからない。
飛びそうだ……。
真っ白な波に飲まれてそのまま引きずり込まれる。どんどん沖に流されていくような感覚。しがみついた両腕に力を込める。
「あぁっ、も、出る……」
先生が短い息を吐いて小さく震えた。
まだ脳みそが揺れているような感覚に、おれの意識は遠のいていく。
「晴、好きだ……。晴、くそっ、俺のところにいろ、ずっと……」
苦しいくらいに抱きしめられ、触れる細胞の一つひとつから思いが滲んで溶けだしていく。幸福な疲労感がおれをどこかへ運んでいくから、返事はもう言葉にできない。けれど、混ざり合った熱が、体液が、きっと答えになるだろう。
***
十二月。
院内に入った途端、暖かい空気に包まれてほっとする。
受付を終えて待合室に座っていると、顔見知りの看護師、立花さんに会った。
「晴くん久しぶり。インフルの予防接種なんて、初めてじゃない? いつも怪我で病院来るばっかなのに」
「そうなんだよ、おれはいらないっつったんだけど、丹下先生が勝手に予約しちまってさ」
「あー、なんとかは風邪ひかないっていうもんね」
「強ぇヤツな」
「ははっ、超ウケる!」
なにが超ウケるのかはわからないが、とりあえず「だろ?」と言って話を合わせておく。空調が効きすぎて暑くなってきたので、マフラーをとった。その途端、彼女が血相を変えた。
「なにそれ! うわあ、ちょっと見せて」
「え? な、なんだよ」
「丹下先生のマーキングが半端ないって話!」
「な、なんのこと……」
「だってそれ、丹下先生愛用のマフラーでしょ。首にもキスマークついてるし、うなじにも噛み痕あるし……」
言われるまで気づかないなんて、おれは自分のうっかり加減に呆れる。こんな風に白昼堂々、あいつのいないところであいつとの情事を思い出すのは、めちゃくちゃ恥ずかしい。しかも赤の他人に指摘されて。耳まで熱くなってしまったのは、もちろん暖房のせいなんかじゃない。穴があったら入りたい。ないからおれは、マフラーを顔に巻く。それを見た彼女が爆笑している。
「笑うな、おもしろくねーよバカ」
「いやいや、ごちそーさま。おなかいっぱいだわ私」
マフラーから目だけを出して睨むと、相手は笑い過ぎて出た涙を拭っていた。感じ悪いやつだ。
「んだよ、おれ腹減ってんのに、いきなり飯の話なんかすんじゃねーよ」
「してないし! 晴くんはお肌も脳もツルツルで皴一つないね。そういうところが丹下先生の心をつかんだのかしら」
「おい今のは悪口だろ!」
「誉め言葉ってことにしといて。にしても、うかつにご飯とか、もう誘えないね」
「え、おごってくれんなら、おれはどこでも行くぞ」
「行かねえよ高坂! 飯が食いたいなら俺に言え。もっとうまいもん食わせてやる」
「いででっ! いてーよ先生」
背後から現れた先生に、いきなり耳を引っ張られた。理不尽な奇襲におれは顔を歪める。
「すいません立花さん、これからはこいつに餌をやる時は事前に俺の許可を取ってください。責任者は俺なんで」
立花さんはため息交じりに口を開く。
「はいはい、心配しなくても晴くんには指一本触れません。だって丹下先生マジで刺しそうなんで」
「賢明な判断ですね」
「否定しないんですね。医者のくせに刺す気満々ですか」
「刺しても元に戻す技術はありますんで」
先生が立花さんに冷めた笑顔を送る。もちろん目は笑っていない。おれは冗談か本気かわからない先生の白衣を引っ張って、「いっ、行こうぜ」と声をかける。不毛なケンカはやめさせたい。こいつは散々おれの喧嘩癖を指摘する癖に、おれに触れるものはみな傷つける勢いで牽制する。ちょっと面倒なやつだと気づいたのは最近のことだけど、まあ、いやではない。
「高坂、お前には隙がありすぎる」
悪いのはおれじゃない。それに立花さんはどっちかというと、おれじゃなくて先生のことを気に入っていたのだ。今更そんなことを教えてやるつもりはないけど。
おれは、廊下の角を曲がったところでふいに歩みを止める。後ろをついてきていた先生が、「おっとアブね」とおれにぶつかるタイミングで回れ右をして背伸びした。
「……っ! 晴っ」
「隙があるのは先生だろ」
一瞬のキスに、先生が頬を赤らめる。
「お前なあ……」
倍返しでやれられるのは分かっていたはずなのに、おれは学習しない。しょうがない。おれの脳みそは小さいのだ。これは不可抗力というものだ。
ああ、だからおれは病院には来るなって先生に言われるのかもしれないな、と妙に納得しながら甘い唾液の交換に酔いしれた。
完。
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