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第2話

 土曜の朝。  暖房をつけていない十二月の部屋は、布団から抜け出すのを億劫にさせる。  九時に目を覚ました玲央は、布団の足元で温めておいた半纏を着て、気合を入れて布団から抜け出した。そして、七畳の畳部屋を半分にわけるカーテンの向こうをそっと覗く。  妹は、ペンを走らせていた手を止めこちらを睨んだ。 「声かけてから覗いてよ」 「ごめん、集中切らしちゃ悪いかと思って」  おはよ、と遅れて挨拶する。  美玲は「それ持って行って」と壁を指した。  昨夜洗ったはずのシャツとスラックスが、綺麗にアイロンで伸ばされた状態で美玲の制服と並んでかけられていた。 「おれがするのに」  美玲は中学二年生だ。来年度からは受験生で、県内でも特に偏差値の高い高校を目指している。  家事なんて一切手伝わなくていいのに、玲央を気遣って手を出してくるのだ。 「目を覚ますのにちょうどいいの」 「火傷するなよ」 「どうせならお礼だけ言ってよ」 「……ありがとう」  顔を洗って、歯を磨いて、髭を剃る。  朝のルーティンをのろのろ終えたら、朝食を作る。  醤油うどんは寒い朝にちょうどいい。卵は硬くなるまで煮込むけど、うどんは少し硬めでコシがあるのが我が家流だ。  美玲を呼んで、ちゃぶ台にうどんを並べる。美玲は勉強のために独占していた電気ストーブを居間まで持ってきた。部屋全体が温まるわけではないけど、やっぱりあるのとないのとでは全然違う。 「今日、塾だろ。お弁当いる?」 「自分で作ってく」 「母さん、給料日だから帰ってくるぞ。会いたくなかったら早めに出て行けよ」 「わかった」  玲央と美玲の母親は給料日に家賃を置きにくる時だけ帰ってくる。普段はどこで何をしているのか分からない。たぶん、男の家を転々としてよろしくしているのだろう。  若くないのによくやっている。  彼女は自身の生い立ちにコンプレックスがあるようで、成績の良い美玲にいつも当たりが強かった。実の娘によくそこまで言えるものだと、いっそ感心してしまいそうにすらなる。  母親に罵倒まがいの言葉を投げ掛けられるたびに美玲は泣きそうな顔をするから、不憫で仕方がない。  一方で玲央は、母親にいないものとされているので気が楽だった。 「お兄ちゃんは、犬養さんのところ?」  犬養さん、の言葉にうどんをすする箸が止まる。 「そう、だよ」 「よろしく言っておいてね」 「うん」  なるべく耳にしたくない名前が、自然と一週間前に与えられた快楽を思い出させた。胸の突起がシャツに擦れ、尻穴が疼く。  体からもどかしさを追い出すために強めに舌を噛んで、無心でうどんを啜った。  犬養真守。玲央が今世界で一番嫌いな男だ。  *  母親と死んだ父親の旧友らしい犬養は、ある日突然現れて母親が男に騙され作った多額の借金を肩代わりした。三年前のことだ。  返済しきれないと悟った母親は勝手に自殺未遂で入院した。当時中学生だった玲央に当然金銭の伝手はなく途方にくれていたとき、インターホンが鳴ったのだ。  小学生の美玲は、母親の自殺未遂にショックを受け泣き腫らして眠ったばかり。  借金取りに怯えながら玄関を開けた玲央の前に、知らない男が何食わぬ顔で立っていた。それが犬養だった。  借金はもうないよと、返済を示す書類を玲央に渡す。   「このまま母親の貯金を崩してもやしでも食いながら待つか、役所に保護してもらうか、親戚のツテがあるなら頼るか。中学生でしょう、選びな。途中までは手伝ってあげる」  中学生に選ばせるな、と今でも思うし、当時も思った。 「親戚はいない、保護も嫌だ、おれが稼ぎたい」 「口だけじゃ稼げないよ」 「学校辞める」 「馬鹿。雇ってくれるところがない」 「探す」  犬養は玲央を鼻で笑った。  施設には入りたくなかった。母親が施設育ちで、母親のようになってしまう気がしたからだ。今思えば視野の狭い偏見でしかない。  親戚なんてものもいない。母親は施設育ちで、父親は物心がついたときにはもう死んでいた。  母親の雀の涙みたいな貯金で過ごすなんて、絶対にできない。すぐに飢えるはずだ。  どうにか自分の我儘を叶えようとする玲央を、犬養は憐れんだ目で見下ろす。  そして唐突に腰をかがめて視線を合わせてきたかと思うと、玲央の前髪を上げた。 「母親に似て綺麗な顔してるし、ちんぽしゃぶれば?」  目の前の男が何を言ってるのか分からなくて呆けていると、パンツごとズボンを下げられ、シャツをたくしあげられる。 「〜〜ッ!?!?」  声にならない悲鳴をあげる玲央の体を隅から隅までじっくり見て、さらにとんでも無いことをほざく。 「おっぱいが足りない。まだ興奮しないな。高校に上がるまでに仕上げてきたら、俺のしゃぶらせてもいいよ」 「なっ、はっ、はあ!?」 「稼ぎたいんでしょ?」  まっすぐに玲央を見る犬養の目は、本気だった。  玲央はその目に縋るしかないように思ってしまった。 「おれが高校生になるまでは、どうすればいいの」 「お前を飼う頭金だ、生活に足りない金も学費も出してやる。将来まともに稼ぎたいなら高校は卒業しなさい、中卒でやっていけるほど賢くもないだろ」  紙を二枚とペンを持ってくるように言い付けられる。  渡すと、玄関の床をボールペンでゴリゴリ言わせながら二枚の紙に『契約書』を綴り始める。  玲央が高校生になったら、犬養の性奴隷になること。  性奴隷になるために、犬養が満足する体に鍛え上げること。  犬養を納得させる体になれなかったときは、犬養が支払った生活費を玲央が返済すること。  犬養の性奴隷になったら、犬養は玲央と美玲が大学卒業するまで、二人の金銭に関わる面倒をすべてみること。 「どうする、母親を壊した契約書だよ」  犬養は玲央を試すようにペンを渡した。  親子揃って馬鹿だ。  玲央は二枚の紙に自分の名前を書いた。  *  あれから三年。  犬養の性奴隷になった玲央は、毎週土曜日に犬養の家へと通っている。  母親は犬養が金を出していることを知っているらしく、給料日には家賃だけを置きにやってくる。住所は手放したくないのかもしれない。  玲央と美玲の生活は、犬養によって成り立っていた。  美玲には、亡くなった父の遺産で生活し、玲央は犬養のもとでバイトしていると伝えている。  玲央が洗い物を始める傍ら、美玲は弁当を作り始めた。  行きたくないと思うのに、脳裏をよぎる快感が皿を洗う手を早めていた。

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