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後日談 手探り一つ進む日々 一

 その夜、非番のクノギはスイと共にガウシの歓楽街へと繰り出していた。  連れ立って外で飲むのは初めてのことではないが、これまではただの友人としてだった。恋人として出てくると場所やすることは大して違わなくても気構えがまるで違うのだと二人揃って言葉もなく少しそわついた。  灯りが照らす石造りの店、立ち並ぶ幟、酔客や客引きの賑やかな声。なんとなくどれも以前と違って感じられる。落ち着かないが悪くない心地だった。むしろ何か少し誇らしいような、そんな気がする。  その何気ない喜びを感じる時間が一転したのは、行きつけの青い幟が目印の店に入って物も食いながら数杯楽しんで、スイが手洗いに立ったときだ。  スイを待ちながらちびちびと蒸留酒を傾ける自分に近づいてくる、連れではない男にはクノギもすぐに気がついた。赤い上着を羽織った存在感のある美人で、知り合いだったからだ。 「や。一人ですか?」 「おう久しぶり、今日は一人じゃない……」  馴染みの、といってもかなりの御無沙汰でほとんど友人と言っていい男娼に、クノギは機嫌よく応じた。スイを連れてきている以上は共には飲めないが、追い払うような面倒な相手ではない。気持ちよく挨拶をしてではまたと別れられる、はずだった。  なんだ残念、と笑って肩を竦めて見せる彼から漂う香水の匂いを感じとり――クノギは咄嗟に、腕を掴んだ。逃してはいけない。今聞いて、確認せねばと思った。  この匂いは、あれだ。 「お前、」 「えっなに、なんですか、一人じゃないならお暇しますよ!」  急なことに驚いて声を大きくし、結いあげた髪を揺らしたニビから香る、馨しい似合いの香り。それは以前、クノギを絶望に叩き落としたものによく似ていた。町から帰ってきたスイから嗅ぎ取った移り香のそれだ。  つまり。 「お前、嘘だろ、――もしかしてスイと寝たか?」  もしやスイ――今となっては恋人の男と一夜を共にしたのは、目の前の美人な友人ではないか。 「スイ……ええと、いいとこのお坊ちゃんっぽい……」  愕然として問いかけるクノギに男娼ニビはぱちりと瞬いて繰り返した。響きに覚えはあった。少し前にこの辺で知り合った歓楽街の似合わない男。彼のことだろうかと確認するのに特徴を思い出そうとする。そう丁度、向こうから歩いてきたような―― 「……ニビさん?」  本人の登場だ。彼の名前を呼んで、直後、クノギが腕を掴んでいるのを見て顔に動揺が滲む。クノギの手が強張って引いていく。  その瞬間、ニビだけがおよそすべてを察した。仕事柄、痴情の縺れる気配には敏感なのだ。以前の二人、それぞれとした会話も思い出した。  片や、片思いしている友人がいる。片や、見合い話の流れで友人の顔が浮かんだが自分は男が好きなのかどうか。 「待ってくださいね、えーと――スイさんと僕は友達、クノギさんも僕と友達。お二人は、友達?」  問題は本当に二人がそうなのか、二人の関係は今どのような具合なのか。男同士なこともあり、早とちりで物を言うと取り返しのつかない事態に発展することもあった。ので、ニビは瞬時に言葉を選んだが。 「っえ、あ、うん。友達……」  直後、明らかに隠し慣れていないスイの狼狽えた返事に、そこは杞憂だったなと確信した。 「スイが外から帰ってきたときその匂いがした。から、誰かと寝たものだと」 「貴方そんなの気にしてたのか! たしかに一緒にいたのはニビさんだけど……」 「気にしないつもりでいたけどいざ目の前に来たら違ったんだよ!」  ニビもスイも座り、三人で卓を囲んで幾分声を潜めて――声は段々大きくなる。  互いの仲については円満に事が進んでいるが、クノギはその件については確認もしていなかった。訊いて気まずくなるのも嫌だったし、何より痛い目を見るのは自分だろうと察していたし、恋人となる以前のことまで口出しする権利はないと思っていた。だがそれらしい人物がいざ目の前に来ると。ましてや、相手が知り合いとなると少しばかり感覚が違う。  ニビはうんうんと頷いて、店員が運んできた酒を受け取った。そうして彼が動くと、隣り合う近い距離の二人には柔らかくもどこか印象的な香りが届く。 「これね、いい匂いですよね、貰い物なんですけど。たしかにスイさんと会って話してた日もつけてたから、僕でしょうね。でも話しただけです。お断りされちゃったんで」  そして二人の会話の間に上手く口を挟み、さらさらと述べきってから杯を傾ける。一時、テーブルは静かになった。ニビが確認のように見遣ったスイが頷くのを見たクノギは、改めてニビへと目を向ける。視線が一巡した。 「……寝てない、んだな? ――いや咎めてるわけじゃないんだ、前のことなんだし。ただ気になって」 「誓って、話しただけです。ね」  気まずそうに頭を掻くクノギにまた軽く頷いてニビは笑い、今度は言葉もスイへと向けた。 「横に居たから香りが移っただけだ。ニビさんがそういう仕事なのも聞いたけど、飲むだけでも構わないと言ってもらったから……、……」  継ぐその口振りに違和感はなく、内容も納得できるもので。クノギはほうと安堵の息を吐いたのだが――言っている最中に、スイは気づいてしまった。 「クノギはニビさんとしたことあるな?」  クノギがそうだと思ったように、男娼と知り合いとなると客の可能性が高い。恋人からの問うよりも確認に近い声に、クノギの顔に途端苦しさが戻ってくる。ニビは黙って涼しい顔のまま酒を呷っているが、彼が黙るわけにはいかなかった。 「……以前に。……結構前に」  二人が恋仲になる前の話だ。悪いことではないだろうが、先に疑ったようになっているのが自分なだけに歯切れ悪く白状する声音になる。  スイは瞬き、ふうんと相槌打って、一拍置いて肩をニビの側へと寄せた。 「……じゃあクノギの弱点とか知ってる?」 「背中とか裏筋とか袋のとことか? そういう話ですか?」 「おい」  小声の問いかけにも男娼の言葉は淀みなく。さすがにかかる制止の声に、ニビはからりと笑った。 「まあどういう風になさるのが好きとかは勿論、お客さんのことですから、知ってはいますけど……お客さんのことですからねえ。あんまり他の人に吹き込むのは」  彼なりにそこは線引きがあった。一応男同士の相手を求める者が集まる店でもあるが、こんなところで大っぴらに話し続けるのも気が引ける。  だから、と少し身を前に乗り出して、ニビは杯を持たぬ手で指を三本立て笑みを深めて見せる。 「三人でヤってみるんならいいですけど」  提案に瞬く――多少の興味が見えたスイの顔にクノギが焦る。割って入るようにスイの前へと手を出して、首を横に振った。 「いや駄目だ、駄目。そういうのはナシ」 「えー楽しいのにー」  口では言っても冗談冗談とすぐに身を引いて、以前相談らしきものを受けた二人が並んで座っている様を眺めて。 「まあお二人の仲が無事にまとまったならよかったよかった。お似合いですし、邪魔をしないうちに僕みたいなのは退散しましょう」  からかいも半分、男娼はさっさと一杯乾して立ち、椅子も横へと片付け始める。クノギは若干の照れを誤魔化しつつ、一度立ち上がった。 「むしろ悪かったな、金は払っておくから」 「どうもー。スイさん、大声でできない話はまた次の機会にしなおしましょう」 「あ、うん。じゃあまた」  詫びるクノギにニビは気分を害した様子もなく、彼とスイにひらと手を振って颯爽と扉へと歩いていく。店員にクノギたちの席を指差し、クノギはそれに応じるように手を挙げた。ニビがそうして誰かに支払いを任せるのはよくあることで、店員も慣れた調子で頷き馴染みの男娼を見送った。  二人に戻ったテーブルで座りなおすクノギを見遣り、スイが首を傾げる。 「会うのはいいよな? 勿論何もしないからさ」  実は数日後に会う約束をしていた。今し方の会話で次の機会があることを察していたクノギは、その確認にほんの僅かだけ間を作った。  勿論、止められはしない。気にはなるけれど。――という分だけ。 「……まあ、それは俺が言えることじゃないだろ」 「よかった。折角増えた友人を減らしたくないんだよ」  答えると喜ぶ、上にあまりに切実なことを言うので、クノギは尚更他の者との交友には何も言えなくなった。  無論、タチの悪い奴には引っかかってはくれるなと思うが、その点ニビならば安心だ。 「男娼じゃなくても他の男と遊んでたら気にはなるしな。今更というか際限もないというか……逆に商売でやってる奴なら揉め事は避けるから大丈夫だろうって思えるし」  ただ気にはなるのだと遠回しに伝えて――己に言い聞かせて、残っていた酒を飲む。スイは成程と頷き、少し考える。  同性なのも手伝って他の交友関係についてまでは考えてはいなかったが、恋仲になるとはそういうことやもと、改めて。そうして数少ない自身の友人たちを思い浮かべた。 「たとえば、カナイでも気になる?」 「べたべたしてたら気になる」 「しないよ。……してないよな?」  ――そんな流れだったのが、丁度十日ほど前のことである。

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