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 いざとなれば父は人を殺すことが出来ると、これまでミノルはうっすら思っていた。或いは飛行機をハイジャックしたり、果ては山荘に立て籠ったり。  あの突入事件が起こるよりも前、つまりまだ学生達が然程暴力というものを知らなかった時代に、ミノルは生まれた。母は早稲田出身で生粋の革マル派だった。三国ヶ丘でオルグされ、流れるように京都大学のマル学同に加盟した父とは、日大闘争の応援に駆けつけた際出会ったと聞く。何て劇的、まるでロミオとジュリエット。  一人息子の母と袂を分つ前後に活動を抜けた父は、ミノルをマルクス主義へ染めようとしなかった。今でも向かい筋に車が停まっている事はあるし、家へ電話は置いていないが、それ以外は至って現代的な生活を送っている。  寧ろ父は、息子へ極力、左右問わず思想活動へ触れさせないよう注意を払って育てた。同志社に入学し、父の名を知る左翼の残り滓へ勧誘を受けた時は流石に自ら断った。けれど演劇部に入り、ゆくゆくは劇団四季を目指すなんて眩い夢を抱いていた息子を「劇団はあかん、特に四季と宝塚だけは絶対にや」と強く反対し、かと言って体育会系の空気も明らかに倦んでいる。  結局この夏休みも、ミノルは父が親類から引き継いだ天下茶屋近くの実家兼ビリヤード屋で店番をしたり、時に今出川のミスタードーナツでアルバイトをしたり。誰も客がいない時は(それが大半なのだが)店の奥へ吊るしてあるサンドバッグを叩く。父が教えてくれた沢山の事の一つだった。近所にある剣道の道場へ通いたいと小学生のミノルが言った時は「あそこの師範は予科練崩れや。大体、武道なんかアホらし、アホらし」とにべなく切って捨てた癖に。 「あかんなあ、そこはストレート、ボディ、ストレートやろ」  居宅のある2階へ続く階段を、父はいつでも物音一つ立てないで上り下りする。今もぬっと、突然視界の端へ入り込んできた影を後目に、ミノルはぼろぼろのサンドバッグへフィニッシュのワンツーを決めた。 「そんなヘロヘロしたパンチ、浪速のロッキーに笑われるで」 「父さんと違うて、僕は基本、運動オンチやもん」  君はミヅエさんに生き写しだなあと、生前の母を知る人は口を揃えて言う。もじゃもじゃのごま塩頭を肩まで伸ばしている以外は、左翼上がりと言うより愚連隊崩れじみた粗野な頑強さを持つ父と正反対の、細く中性的な見かけ。  事あるごとに、父さんへ似れば良かったとぼやくミノルに、父はしかめっ面を浮かべて手を振って見せる。「お父さんに似たらあかんよ。ミィちゃんは新世代やねんから」 「ミィちゃん、郵便見て来てんか」 「さっき見た。そこに置いたるよ」  顎の汗をTシャツの襟ぐりで擦るのと反対側の手で、5台並ぶうち真ん中の撞球台を指差す。にんまりと、口元に笑みが浮かぶのを抑えきれない。  それは父も同じだったようで、ダイレクトメールや公共料金の通知書を繰って行った後、現れた封筒を目にして眦に皴を寄せた。父は眩しい光を忌む吸血鬼さながらに、いつでもパイロットサングラスを掛けている。だがミノルには、例え濃い色のレンズへ遮られていても、その表情がきっと分かるのだ。 「おう届いた、届いた」 「生協さんやし、ええ席やな」  これが父から教えて貰ったことその2。息子が物事の道理を理解出来る年頃になった時期から、親子水入らずで赴く歌舞伎鑑賞は、そうでなくても屈託ない彼らの親子関係の中、取り分け屈託ない行事と化していた。今回は特に二人が贔屓にする坂東玉三郎が松竹座へ御成りになるとあって、チケットの入手へ熱を入れていたのだ。 「今回の演目何やったっけ?」 「女殺油地獄」 「タイトルえげつな。また図書館で借りてこよ」 「文学部やのに近松もん知らんのか」 「近松も門松もあるかいな。知らんから大学行ってんねん」  唇を尖らせる息子へ呆れたように笑った父の顔は、暗がりの中にさっと差し込んだ光へ機敏に向けられる。  開け放たれたドアの前に佇んでいた男は、ぐるりと店内を見回し「準備中ですか」と尋ねた。影に沈む、低く掠れた標準語の主をしばらくじっと見つめていた父は、「相手したり」とミノルを顎でしゃくった。 「開いてますよ。いつもこんなんです。すんません、今電気つけるんで」  埃かかったステンドグラスの傘を被る照明に晒され、浮かび上がった青年の顔を目にしたとき──彼は思ったよりも若かった、恐らく自らと5歳も変わらないに違いない──ミノルは素直に見とれた。  ヨウジヤマモトかどこかの洒落たスーツが似合う、長身で均整の取れた体つき。極めて端整かつ男性的な顔立ちなのだが、光の中へ足を踏み入れた時、伏せられる瞼へ被さった長い睫、「よかった」と少しぶっきらぼうな口調、ところどころが酷く甘い。 「最近この辺りに来たばかりなんですが、ここの看板を目にしたとき、通い詰めていたプールバーを思い出して、つい」 「プールバーなんてええもんとちゃいますけどね。良かったらお相手させてもらいましょか」  差し出されたキューを受け取るとき、きらりと光る挑みかかるような上目遣い。思わずミノルがにこりと微笑むと、彼もまた、白い歯を覗かせてはにかんだ。 「何ならお金、賭けてもええですよ」  それで互いの緊張が解けた。エイトボールを──それはこの店の名前にもなっていたし、またかつてミノルの父のあだ名でもあった──五サキで三回。男は勝負を受けただけあり、なかなかの巧者だった。目先のチャンスへ迂闊に飛び掛からず、二手三手後を読んで確実に仕留める。大胆に撞いたと思えば繊細にボールを弾き、敵ながらその緩急は見ていて飽きない。  気づけば父は二階に引っ込み、一対一になっている。夏の日は長いと言え、さすがに磨りガラスの外は薄紫色に染まっていた。 「お上手ですねえ、えーと、お名前」 「栄田」 「どうも、僕は岩松。ミノルって呼んで下さい、この店で岩松言うたら父さんのことやから」 「ミノル君」  右側の口角だけを持ち上げる微笑も、彼がこなすと酷く様になる。 「先程の方がお父さんですか」 「ええ、こんな店やってますけど、球撞きはいっこも出来ませんねん。大学の夏休みですから、もっぱら僕がお客さんの相手してます」 「じゃあ、また今度来た時も、お相手願おうかな」  白熱の試合で少し下がっていた上着の袖を捲り直し、栄田はゆっくりと踵を返した。 「お父さんにもよろしく」  また来るって、あのシャンなお兄さん。そう大喜びで報告するミノルへ、父は目を細めた。 「ミィちゃんはお父さんのせいで、学校で友達もあんまり出来ひんかったからなあ」 「そんなん言わんでよ。友達なんか、ちょっとおったらええねん。浅く広くより深く狭くや」  十九年間、親子二人で支え合って生きて来たのだ。そんな風に一方的な負い目を感じられると、まるでこれまでの人生を否定されているようで腹が立つ。  それに、こればかりは父と似ていて良かったと心底思うのだが、ミノルは人の懐へ潜り込む事が案外得意なのだ。

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