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事実、週に二度、三度と店へ顔を出す栄田と親交を深めるのに、夏休み一杯も使う必要はない。八月も終わる頃になれば、初対面で覚えた鮮烈な張り詰めなど、思い出すのも難しい程だった。暗い店の中だけでなく外でも会うようになり、飯を食ったり映画へ行ったり。
「ミノル、ポール・ニューマンが好きなのか。渋好みだな」
「だってかっこええもん」
「でも爺さんだぜ」
「別に爺さんになるのは悪いことちゃうでしょ」
天六の名画座で観た『トップガン』と『ハスラー2』の二本立てから、話は出演していた映画スターの話に。そうでなくても映画館は空調の効きが決して良くはなかったから、ぶらぶらと商店街を駅に向かって突っ切る間に、汗はポロシャツをくたりと湿らせる勢いだった。
「歳行くのと、進歩出来んようなるのって、全然別の問題やと思う。大学におるような若い子でも、全然頭凝り固まってて、あー、こいつどんだけ勉強しても、こっから超えられへんねやろなあって奴一杯おるし」
「超える?」
「うん。岩松家の家訓。人間、超えて行かなあかんって。新しい考えは古いやり方を。子供は親を」
正確には父のモットーなのかも知れない。この言葉を頭へ浮かべる度、父がこれまでの人生でどれほど苦労して来たか、そしてどれほど息子を愛して来たか、ひしひしと胸に沁み入る。
「その柔軟な思考力は、何物にも変え難い君の美徳だな」
そう言ってくれる栄田こそが、気のいい好漢だった。彼は学生だからと言ってミノルの事を侮らない。感嘆した時は素直に表明する。物事を真っ直ぐに理解し、そして単純明快に伝えてくれるのだ。
「ハルオさんはトム・クルーズ好き? ああ言う爽やかな熱血漢タイプ、好みなん?」
「いや、別に好みと言う訳でも」
「同じ男から見ても、マーヴェリックってかっこいい。こんなん父さんに言うたら、軍隊礼賛やーって怒られるやろうけど」
ほんの少し背の高い栄田の横顔は、隣から眺めるとその澄み渡り具合が際立つ。ごみごみしたアーケードの光景など、本当は映していないのではないかと思うほど。光の加減で頭の裏まで透けてしまいそうに見える茶色の瞳は、ガラスのように美しい。
不意に、その眼差しがさっとこちらへ滑り、ミノルは思わず口元を手で押さえた。
「あかん。僕一人で喋り過ぎてる。ごめんなハルオさん」
「構わないさ、君と話してるのは楽しいよ」
今みたく少し考え込んだりする時に浮かべる、この真剣な顔付きが一番ハンサムだ。或いは無表情こそが、と言うのが正確かも知れない。ミノルの冗句に笑ったり、撞球台でミスショットをして悔しがったり、人間的な情動を表現すればするほど、栄田は少し、賢くなさそうに見える。無論それは、ミノルにとって相手の魅力をいや増させる効果しか醸さなかったが。
「君、気付いて無いかも知れないが、外にいると、店にいる時の5倍くらいよく喋るぞ」
「そうなん? 恥ずかし」
「お父さんがいるからかな。あの店じゃ、何事も岩松のおじさんが主って風格だろう」
ふらりと振られたお互いの手の甲が掠めても、栄田は全く頓着しない。見とれているミノルの、少し趣味が悪い感情の発露も簡単に跳ね除け、じっと見つめ返す。
「息苦しくないか。あんな凄い、まるで台風の目みたいな求心力を持つお父さんと一緒に暮らしていて」
「ええ? 息苦しい?」
微かに肩を逸らし、思わずミノルは目を剥いた。
「そんなん、考えたことあらへんかった……ううん、ないよ。父さんは、僕のこと、ほんまに大事やねん。寧ろ母なし子やから言うて、だいぶ気ぃ遣うてくれてんのとちゃうかな。僕がおるから再婚もしいひんかったと思うし」
「そんな……悪い。余計なこと」
「かまへん。まあ、今は僕が父さんにとって、母さんの代わりみたいなもんやな。料理も掃除も洗濯も、多分僕の方がよっぽど上手いわ……まだ40超えたばっかやねんから、さっさとええ人見つけてくっついたらええねん。そしたら僕も、堂々と一人暮らし出来るし」
僕が笑てんねんから、そっちも笑ってや、と促したつもりなのに、栄田は心底恥入ったように目を伏せた。女のように長い睫毛が、今にも羽の壊れそうな蝶じみた繊細さで瞬く。
こちらが悪いことをしたつもりになって、ミノルは「あ、でもな」と態とらしく声を張り上げた。
「息苦しい言うたら、確かに父さん、過保護やね。僕、剣道習いたかってんけど、近所の道場通わせて貰えへんかった」
ぱっと栄田の右手を掬い取って掲げ、アーケード越しに降り注ぐ夕陽へ矯めつ眇めつしながら、ミノルは溜息をついた。
「これ竹刀ダコでしょ? かっこええなあ」
まるで初めてボーイフレンドに手を繋がれた女の子じみた仕草で、ぱっと手を取り戻した時、栄田の顔はもはや茹蛸じみた有様。これはどう考えても暮れなずむ世界に、日焼けした肌が染め上げられた訳ではない。
「別に、大したことないさ」
「自分が出来へん事出来る人って尊敬する。ほんま、僕もやりたかってんけどな。父さん、武道やレスリングなんかやってる奴は、大体デモの時殿にされて、機動隊へボコボコにされてるって。何がデモやねん、今は70年代とちゃう言うても、聞く耳持たへん」
軽く爪先立って覗き上げた栄田の顔はまだ赤面したまま。余程驚いたのか、心なしか表情が強張って見える程だった。
「家事は君がやってるって言っていたけど、お母さんは」
「死んだ。僕が小さい時に」
そんな質問には慣れっ子だったし、別に今更どうとも思わない。だがちくりと胸が痛んだような気がするのは、まだ栄田が表情を氷解させていなかったせいかも知れない。
「過激派お得意の内ゲバに巻き込まれて。父さんは『置いてかれた』って言い方するけど、まあ間違ってへんわ。幾ら革命が大事や言うても、普通、まだお乳飲んでる赤ん坊と旦那を放っぽり出して家出て行ったりする?」
「さっきから俺は、君の気を悪くする事ばっかり言ってるな」
「全然。僕、母さんの顔も覚えてへん言うのに……父さん『ミィちゃんはあんだけ賢いおつむしてたのに、ほんまアホやった』って……僕の母さん、ミヅエ言うねん。浅草の近くで育ってんて。ハルオさんも東京育ちやね?」
「東京と言っても色々だからな。浅草と渋谷じゃ雲泥の差だ」
「どっちが泥なんか分からんけど……とにかく、そんな悪口言う癖、その時の父さんの顔……凄く、悲しそうやねん」
こんなしんみりするつもりなんか、ちっともなかったのに。彼が真面目に取り合ってくれるのが悪い──よくよく考えてみれば、父以外の他人へここまでひたむきに、「俺はお前とサシで話しているんだぞ」と言わんばかりの態度で対峙して貰える事なんて、これまで無かった気がする。
すっかり有頂天になり、勢い任せにベラベラ喋っている己を恥じる。それでもミノルは一杯になった胸の丈を、吐き出さねば居ても立っても居られなくなった。
「僕、ハルオさんのこと大好きやねん。もしも僕に兄貴がおったら、こんな人がええなあって、いっつも思う」
もうハルオは、人間の限界を超えるほどの照れと羞恥で、今にも死にそうな顔をしていた。彼はタフな見かけと物腰によらず、ちょっと驚くほど喜怒哀楽が表情によく出る。
「あー……うん、俺も一人っ子だから……君みたいな弟がいたら、凄く楽しいだろうな」
「ちょっと、そう言うの無理せんでええよ」
「本当さ」
映画館を出たのが六時頃。漂ってくる出汁の匂いに鼻をぴくつかせ、魚屋に並ぶ天ぷらへ空腹を煽られる。何か食べて帰ろうと言ったけれど、栄田は「ちょっと用事があるから」と申し訳なさそうに首を振った。
「そう言えばハルオさん、夏休み一杯こっちにおるの」
「さあ、どうかな。今休職中だから」
「えっ、社会人」
張り上げられた声には、流石に苦笑いを浮かべられる。
「人のこと何だと思ってたんだ」
「いや、そりゃまあ学生にしたら何や貫禄ある思てたけど、そうかあ」
「君今、絶対馬鹿にしてるだろ」
「してへん、してへん! 手見た時も、こんな硬派は絶対テニスとか言う柄ちゃう、だから竹刀ダコや思たとか無い無い!!」
それだけ言えば、髪をぐしゃぐしゃと掻き回されるまでに淀みはない。悲鳴を上げるミノルに、栄田はアハハ、とまた、あの頭も性格もちょっと悪そうな表情で笑った。
「口の減らない弟だな」
「僕、正直者やから」
「俺も君のそう言うところ、嫌いじゃない」
嫌いじゃないと言うことは、好きと言うことだと捉えても問題ないに違いない。
高揚した気分で『エイトボール』のドアを潜り、ふと辺りを見回したのは、いつにない匂いを嗅ぎ当てたからだ。埃っぽさ、そして父が愛飲するインドネシア煙草が撒き散らす、強烈なクローブの匂いに混ざった、別の馬糞臭さ。
ぎしりと椅子の軋む音がした方へ、ミノルは視線を突き刺した。すぐさま一番奥にある撞球台から、こんもりとした黒い影が「おかえり」と耳慣れた声で呼びかける。
「そんなお化けみたいに、暗いとこで何してるん」
「飯食べてくるんちゃうのか」
「ハルオさんが用事ある言うて。どうせやから何か作るわ、青椒肉絲でかまへん?」
父がデニム履きの脚を投げ出す緑のフェルトの上へは、吸い殻が山盛りになった灰皿が乗っている。二種類の紙巻き。ちらと視線を落とし、ミノルは「お客さん?」と尋ねた。
「ああ。泊まりと違う、すぐ帰りはったよ」
父がかつての仲間を数日、数週間家に匿うことは珍しい事でもなかった。そんな時、彼は特に喜ぶこと無くさりとて怒るでもなく、彼ら彼女らを迎え入れ、送り出す時は幾ばくかの金を渡してやる。
普段と違い、今の父は酷く渋そうに顔を顰めていた。さながら慣れない煙が目へ沁みたかのように。
「ミィちゃん、ハルオ君やけどな。彼のこと、好きなんか」
「好きやで、頼り甲斐のある先輩って感じや。優しいし、頭の回転も早いし、何よりハンサムやしな。見かけ沖雅也、中身鶴田浩二って感じ」
「ほうか」
自分から質問してたのに、台所へ向かうミノルの背中へ投げられた言葉は、人気のない店の中で酷くぼんやりと響いた。
「仲良うしいや。あの子はミィちゃんにとって、きっと大事な人になる」
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