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撞球場へ戻ってみれば、ハルオは明りも付けず煙草をふかしている。
「タクシー呼んだ?」
「ああ、少し時間が掛かるかもしれないそうだ」
なら1試合位出来るかなと、ミノルはキューラックへ視線を走らせた。ハルオもすぐさま心得、灰皿で煙草をにじり消す。
先攻はハルオから、ローボールで。相変わらず手並みも鮮やかに、模範的なブレイクショットを決めた後、次々にボールをポケットへと沈めていく。
「君が誕生日に無頓着な理由が分かったよ。お袋さんの命日と同じじゃ、迂闊に祝えないよな」
「まあね。お陰で父さんも、僕と母さんには特別な繋がりがあると思ってる。母さんの肉体は死んだけど、魂は僕の身体に宿ってんって」
運動を始める前、父も一服していたのかもしれない。ショートホープの薫香に混じって、『ガラム』の刺激的な匂いを嗅ぎ当てる。思わず顔を顰め、ミノルは天を仰いだ。
「何であの世代って、ニューエイジって言うん? やたらとスピリチュアル的な考え方したがるんやろう」
「分からなくもないさ。心から愛している人を失ったなんて事実、きっとそう簡単に受け入れられない」
「ハルオさんも、僕が死んだら狂ってくれる?」
「約束は出来ない」
なんて素直なんだろう。心の底から感嘆しつつ、ミノルは笑みを噛み殺すのへ躍起になっていた。
彼はもう、ミノルが決めてやらなければ、一人で狂う事すら出来はしないのだ。
「ま、羽目外すのはバカンス先でしよ……そういやハルオさん、パスポート持ってんの」
「実家にある」
「何や、それ先に言うてぇな。じゃあ取りに帰らなあかんわ」
「ああ。君もミヅエ叔母さんの骨を見たいだろう」
親父は未だに彼女を墓へ入れられずに、仏壇へ置いてるんだ。
そうハルオが、さも何でもないことのように告げるからこそ、ミノルは逡巡した。
「いや、やめとくわ。どっか国内の温泉でも何日か泊まって、そこへパスポート送って貰えへん?」
「分かった」
口元を柔らかく綻ばせ、ハルオは宣言通り2番ボールを右のサイドに落とした。
「温泉なんて、ちょっとじじむさいな」
「まあまあ。ちょっと色々あり過ぎたし、これからも盛り沢山やねんから、少し英気を養うのもありちゃう?……ハルオさんが他に行きたいところあるなら、そこでもええけど」
「特にない」
「言うと思たわ」
8番ボールまで後2球。つまらないポケットミスに舌打ちするハルオへ、「ご愁傷様」と澄まし顔を突きつけ、ミノルはキューの先端へチョークを塗りつけた。
「当てたろか。ハルオさん、ほんまはナインボールの方が得意やろ」
驚いた表情を浮かべるハルオに「だってナインボールは、数字順に撞いて行くだけで済むもん」と被せる。
「エイトボールは好きなボールを落としてええ分、自分で仕留める順序を組み立てなあかん。番号のせいには出来へん、全部自己責任や」
「確かに俺は、頭の出来が良くないよ」
「そこまで言うてへん。でも、慣れたらこっちの方が奥が深くて、おもろいで」
やろ? と促せば、ハルオは頷いた。
ここまで素直だと、少し怖くなってくる。だがこれは、自由と、進歩の代償だ。
大丈夫、ちゃんと抱えていける。だって彼のことを愛してるから。
後ワンショットで決着が付くとなった時、窓の磨りガラス越しに黒い車体が滑り込んでくるのが見える。クラクションを鳴らされても、ハルオは黙って撞球台を見つめていた。
「左上コーナー」
手球と的球はポケットまで一直線。ただしテーブルを対角線上に。一つ大きな息を吐き、キューを構える。ここ一番の大勝負。理由もなく、ミノルは自信を持っていた。
勢いのあるドローショットは見事に決まり、宣言したポケットに8番ボールが叩き込まれる。顔を上げれば、ハルオは笑っていた。ミノルの勝利を手放しで喜んでいた。それも当然だ。ミノルの判断こそが、ハルオの決断でもあるのだから。そして2人は、勝利する。この先何が待ち受けていようとも、きっと超えていけるだろう。
手球がこちらへ真っ直ぐ戻ってくるよりも早く、ミノルはキューをテーブルへ放り出した。
「さ、行こか」
いそいそと鞄を2つ持ち上げたハルオの頬を撫でてやれば、さも心地よさげに目が細められる。己だけを映す、ガラスの瞳。至極満足して、ミノルはお気に入りのシンディを鼻歌しながら、ドアを押し開けた。
終
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