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9.
「この部屋に入れられた日、君は口紅を付けていた」
すっかり消耗しきり、狭いシングルベッドで折り重なるように横たわって、もう30分近くだらけている。のろのろと腕を伸ばしたハルオは、ベッド下で丸まっていた上着の内ポケットからショートホープのパッケージを探り出した。
「今思えば、あの時、俺は君に欲情したのかも知れない」
「せやのに、玉三郎の良さは分からへんって? けったいやな」
「今は分かる。君の言う通り、彼は凄い役者なんだろう」
只でも勉強机のスタンドライトが放つ無粋な光で目がしょぼついているのだ。ここに来て襲い来る、ジッポーの蓋が開閉する音と、オイルの匂いは、この場をとてつもなく陳腐にする。思わずミノルは、嘆きの呻きを欠伸と共に吐き出した
「こう言う時に煙草吸うとか、三流のメロドラマみたいやね」
「警察官は煙草を吸えないとやっていけないんだ。喫煙所での雑談が、何よりも重要な社交術だから」
「そんなしょうもない理由やったら、止めた方がええんちゃう。身体にも悪いし」
「確かにな」
そう返しつつも、最初の一服を呑み、煤けた天井に紫煙を吐き出す旨そうな顔から、これは好んでやっているのではと思えた。手挟むハルオの右手ごと両手で包み込み、ミノルもまた、遅効性の毒を肺へ送り込む。
「まだ未成年だろう」
「実は9月7日が誕生日やってん」
「そうか……おめでとう」
「本心ちゃうかったら、言わんでもええよ。うちあんまり、そう言う事する家ちゃうねん。元過激派の息子の誕生日パーティーなんか、誘ってもだぁれも来てくれんかったし、いつも父さんとケーキ食べるだけ」
くたびれ果てた脳では哀愁を押し隠す事など出来ず、酷く湿っぽい物言いとなってしまったに違いない。なのにハルオは本気で傷付いだような視線を投げかける。
「何やのん、その目付き」
「俺は、君が生きていてくれないと困る」
「ああ、そうやったね」
もう忘れとる、ほんまあかんわ僕。宥める目的で撫でた頬を何と勘違いしたのか、ハルオは従順に目を閉じる。これはハルオさんが悪い。この人は勤勉過ぎるのだ。触れるだけの接吻を唇に落とせば、お互いのあわいから薄く漏れる煙が絡み合う。
そのまま彼の厚い胸板に頭を乗せ、ミノルは新鮮な空気を求めて天を仰いだ……が、結局汗と埃の匂いばかりが鼻をつく。
「ここ、いらんわ……外出て行きたいなあ。ハルオさんもヤドカリとちゃうねんから、こんな暗くて狭くてジメジメしたとこ、いい加減うんざりやろ」
「確かにクーラーの効きは悪いな。君は、どこに行きたい?」
「ハワイ、グアム、サイパン。ちょっとランク落として沖縄。南国の派手なリゾート地行きたい。みんなが羨ましがるようなとこ……でもバイト代だけやったら、とてもあかんわ」
先程からハルオは、目が合えば殴りつけてしまいそうな程盲信的で、同時に慈愛へ満ち満ちた眼差しをこちらへ向け続けていた。だからミノルは顔を動かす事が出来ず、目を閉じる。明らかに、殴る事は愛情ではないし、矯正の役には立たない。
「最初は車買うつもりでミスドのバイト始めてん……あそこ、洒落てる思て応募してんけど、昼間はアホで股もチンポもギンギンそうな私大生、夜は暴走族の溜まり場みたいになっとって、がっかりや」
「それでも自分で小遣いを稼いでるだけ、アホな私大生よりよっぽどマシさ」
「せやったらええねんけど……いざ自由に使えるお金手に入ったら、急に色々なもん欲しなって、結局頭金も貯まらへん。レコード、新しいウォークマン、服靴時計、ハイファイステレオにビデオデッキ、テニスも習いたいしサーフィンもやってみたい、勿論夜遊びに行く金も、もっともっと欲しい」
「君は意外と拝金主義なんだな」
「もしかせんでも貶したよな、今?」
身を起こし、横たわるハルオの汗ばんだ首筋に鼻先を突っ込む。
「失望した? 今時の大学生の乱れた金銭感覚」
「いいや」
遠慮がちに、けれど間違いなく渇望していたかのように首を傾げ、ミノルの額に頬を押し当てながら、ハルオは言った。
「寧ろ、物質は分かりやすくていい。生理的反応と同じで」
「ハルオさんが生理的とか言うたら、逆にエッチやわ……何もせえへんよ、逃げんといて」
そのままごろりと身を乗り上げて押し倒し、何度目かの口付けを。取り敢えず今日のレッスンはここまで。
軽く唇を吸うだけで顔を離し、ミノルは影の中にあっても、それどころか、恐らく彼が生きてきた中で一番美しく澄んでいるハルオの瞳をじっと覗き込んだ。
「ほんまに、何もかも捨てて、逃げてしまおか」
「どうやって」
「簡単よ。その気になったらええだけ。ハルオさんは、やってみる度胸ある?」
彼がこの言葉に弱いのだと、この1ヶ月と幾らかの日々でミノルは完全に理解していた。そんな変に意地っ張りな所も可愛くなくて、可愛い。
でもきっと今、彼は少なくとも半分位、違う動機で決断しようとしている。薄く開いた唇を舐め、ハルオは軽く顎を逸らし、フィルターまで火の迫りつつあった煙草を、吸飲みの中へ落とした。
父がサンドバッグを叩いているのを見たのは、随分と久しぶりのように思える。小学生の頃、ミノルはよく朝早くから起き出し、撞球台に腰掛けながら、この無心の背中を飽きることなく眺めていたものだった。男の強さの象徴であり、庇護の誓約。「ボクシングリングに立つ男は最も天使に近い存在や」そう言って手ほどきしてくれた時、父は間違いなく天使どころか神であったし、ミノルは神に触れていた。
「どうしたん、そんなピリピリして」
「ああ、何でもあらへん」
額の汗を肘で拭った父は、ミノルが手にしている物を目にしても、さして驚いた様子を見せなかった。「なんや、めかし込んで。遊びに行くんか」
「沖縄か、ハワイかな。予算による」
右手に握ったバールを弄びながら、背後の階段を見遣る。二人分のトランクを床に下ろすと、ハルオは上着の内側に装着していたホルスターから、制式のニューナンブを引き抜こうとした。
「まだ早いって! 父さん、お金頂戴よ。あの地下室に隠してある奴」
「ミィちゃんが小遣いせびるなんて、こりゃあ初めてのことやなあ」
行動を起こすのとそれを認識するのには2秒程の誤差があり、更に事態を把握するとなれば優に10秒ほどの時間を要する。ぬるりとした白っぽいもの、赤黒いもの、そして数本の髪の毛が張り付くバールの先端をまじまじ見下ろしているミノルの肩に触れ、ハルオは言った。
「確かに、銃は必要なかったな」
「ダーティハリーやあらへんねんから、そんなむやみやたらと拳銃なんか振り回したらいかんのよ」
頭からだくだく血を流しながらくずおれている父の体を跨ぎ越し、ミノルは溜息をついた。
「しゃあない、プランBやな」
どういう訳か、福井は子供達が地下へ降りてくるや否や、まるで殺されるかのような恐慌を来した。もう拘束はされていないから、すっかり抜けた腰で必死に這いもがき、部屋の隅へと逃げていく。ミノル達がトイレットペーパーなどを積んだスチールキャビネットをどかし、壁に塗り込められた金庫を工具でこじ開けようとしている間、ヒイ、ヒイと喘鳴じみた勢いで呼吸を乱し、小さくなって震えていた。
「まだラリってはんのかなあ」
訝しげに目を眇めるミノルと違い、ハルオは路傍の石にでもくれるような一瞥を父に投げ与えた後、軽く肩を竦めるばかりだった。
「最初からイカれてたのさ」
古い物だから逆に頑丈なのかもしれない。ありふれた家庭用金庫はバールも金槌も電気ドリルも、思いつく限りの工具を頑として受け付けない。胸元に溜まった汗をTシャツで擦り、「もういっそ、そのピストル使ってみる?」とハルオに提案しようとした時のことだった。「右19、左71、右9、左7」上から野太い声が降ってくる。しばらく考え込んだ挙句、ミノルはハタと手を打った。「母さんの命日やん」
手拭で押さえている箇所とその出血量から、父の左目が完全に潰れていることは疑いようもなかった。「大丈夫なん? 無理しなや」助けようとしたミノルに「こんなん蚊に食われたほども堪えん」と手を振って見せ、最後まで一人で階段を降りきる。よろめきながらも、父は部屋の隅で肩を抱き泣いている福井の元へ真っ直ぐ歩み寄った。まるで赤ん坊さながらに手を伸ばし、福井はかつての宿敵へ訴える。
「ハルオが取られてしまう。あの子は素直な子なんだ。何とかして、何とかしてくれ」
「さあさあ、何怖がってはるんや。子供はいつか必ず親の元を巣立っていくもんや。寧ろ喜ばしい瞬間でしょうが。あんたによう似たハルオ君と、ミィちゃんにそっくりなうちの倅が結ばれる……」
「ハルオ、ハルオ」
ミヅエ、ミヅエの次はハルオ、ハルオか。ここに閉じ込められてから、一度としてその名を呼んだことなどなかったくせに。
ミノルは呆れを隠しもせず、福井をただただ甘やかすよう、かいなへ抱く父を振り仰いだ。
「全部持ってくで。どうせもう、いらんやろ」
「ああ、ああ。福井さんもかまへんよな」
父が指差す方向に、福井は眦が裂けんばかりの勢いで目を凝らした。ぽたぽた、ぽたぽたと、父の顔から滴り落ちる鮮血は、切り削いだようにこけた頬を伝い、やがて彼自身が血を流しているような有様になる。
「ほら見てご覧、福井さん。あれこそ、あんたがミィちゃんを使ってまで行方を追ってた、第二行動部隊の成果やで。4件の強盗、計1180万円」
実際はもう、同志へのカンパや親子の生活費に用いられて碌に残っていない。命日、命日とダイヤル錠を回して、取り出した札束を数えると、ミノルは思わずがっくり肩を落とした。
「300万ちょっとかあ。何か中途半端やな。ところでハルオさん、これってまだ使ったら捕まる?」
「強盗致傷の時効は15年だから、大丈夫だろ」
「良かった。じゃ、いっそラスベガスでも行って増やした後に、ハワイで豪遊しよか。それとも香港ドルとかのほうが得なんかな」
「カジノでそんな簡単に金は増えないんじゃないか」
「名前だけ見て馬に賭けるよりはマシなんちゃう?」
「それもそうか」
「取り敢えず、空港行こ。ハルオさん、タクシー呼んで」
「ハルオ」
ミノルの言葉で覚醒し、弾かれたように顔を持ち上げた父など、ハルオはもはや見向きもしない。そのまま上へと戻った彼と違い、ミノルは最期に一度だけ後ろを振り返った。
「そんじゃ、まあ、絵葉書でも送るわ」
「余計な気ぃ遣わんでええ。ほら、行っといで。ハルオ君、待たせなや」
「うん。ありがとう」
「ええか、ミノル。精一杯、命懸けで楽しむんやで」
どす黒く腫れ上がった右の瞼が細められ、破裂した眼球がどろんと溢れ出す。それでも父は笑っていた。心底嬉しげに、誇らしげに。
「お父さん達みたいに、いらん苦しみで人生無駄にしたらあかん」
一瞬、喉の奥で膨れ上がった塊が目元まで競り上がって来る前に、ミノルは踵を返した。
「そんなん分かってるよ、もう」
まるで心底から愛しているように抱き竦める腕の中、福井は壊れたように「ハルオ、ハルオ」と呼ばわり続けていた。ミノルが階段を上り、光の中へ出た時にはしかしそれも、甘くとろけるような滑舌へと堕している。
ええ年こいて何やっとんねや、あのおっさん達。こっちが赤面するわ。内心ぼやきながら、ミノルは福井のむせ返るような吐息と、父のべったりした睦言ごと、地獄のようなその場所を封じた。
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