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 あれほど楽しみにしていた松竹座の公演へすら興味を失う程、父は益々福井へ入れ込んでいる。「ハルオ君と行ってき」と促され、本人に聞いたら「それならば」と、久しぶりの二人歩き。午後二時からの公演だ、食べたいものでもあるかと聞けば「特に」と返ってくる。食べた事がないと言うので自由軒へ連れて行きカレーを平らげ、他に何かと聞いたところ「本屋に寄りたい」との頼み、案内すると買ったのは競馬新聞。 「なんで公務員ってパチンコとか競馬、やたら好きなん」 「他にやる事が無いからだろう」  どの馬に賭けるん? 勝ちそうな馬。それって、どうやって見分けんの? さあ、名前とかかな、大抵は気分とノリ。  2週間と少しぶりに陽の下に出たハルオの顔は心なしか青白く、そして益々目は澄んでいる。ぞっとする程ハンサムだ。待ちに待った観劇にはしゃいでいる弟分を見下ろし、うっすら微笑む表情で、ミノルはあれほど楽しみにしていた玉三郎の顔を、一瞬忘れた。 「ハルオさん」 「何だ」  その一言を吐く為に薄く開かれた唇へ食い入る余り、結局その続きは「何もない」なんて無意味な言葉に終わってしまった。  勿論、玉三郎は稀代の女形だ。劇場へいる間は日常を忘れ、演技に浸る。情けと、恐らくはほんの少しの下心のお足として渡した金のせいで、無惨にも膾斬りにされる哀れな美貌の人妻。文学全集で読んだ限りでは、もっと弱々しい女性の姿を想像した。だが玉三郎版のお吉は油の中で七転八倒しながら、死に物狂いで生きようともがき続け、それでもたおやかさは失わない。 「玉三郎って、ほんまは自分の芯をしっかり持ってる女の人の役の方が似合うと思うんよ。去年名画座で映画版の『夜叉ヶ池』観てんけど、あれも自害する奥さんの役よりも、池の主の白雪姫の方が素敵やったもん」  御堂筋は心斎橋の方へ進路を取り、興奮し捲し立てるミノルを、ハルオはやっぱりあの凪いだ表情で見つめていた。 「君は、歌舞伎だと女形の方が好きなんだな」 「うん? 言われてみたら、確かにそうかも」  まだ内側に熱が篭っているような上着のラペルを掴んで軽く風を入れ、ミノルはうっとりと息をついた。 「だって、めっちゃ不思議やろ? 男でもあり、女でもある……男が思い描く理想の女やからや、って言う人もおるけど、せやったら歌舞伎があんだけ女性人気が凄い訳ないやん」 「なるほど」  腕を組み、そう頷くハルオの様子を見ても、けれどミノルは一抹の違和感を拭いきれないでいた。 「大丈夫? 久しぶりの外出やし、疲れた?」 「いや、ああ、そうかも知れない」 「どっかで食べて帰ろか。ここのところ父さん達、僕らがいない方がええみたいやし」  もう一言、二言喋ったのたが、どうせハルオは右から左へ聞き流したのだろう。まだ焼けるような茜色が強い9月の夕暮れの中、ぼうっとした横顔は彼自身の頬が処女の如く紅潮しているように見える。またも見とれてしまい、対向する中年男とぶつかりそうになったら、危ういところで当のハルオに腕を引かれた。 「ぼんやりしてるのは君だろう」 「そうかもね」  人混みの中に紛れて歩いていると、自分達が当たり前の関係のように思えてくる。友人、兄弟、正しく従兄弟でも全くおかしくは見えないだろう。  少し伸びた髪を掻こうとしたハルオのシャツの袖口からは、手首をぐるりと一周する赤黒い痣が覗く。部屋へ監禁して1週間程してから、流石に可哀想になり、包帯を巻いた上から手錠を掛けていたのだが、やはり綺麗なまま保つことは難しかったらしい。  誘拐犯と人質。それが真の姿である事を見失わない程度には、ミノルも己を正気だと認じていた。全くらしくないのはハルオに他ならなかった。さながら迷子になるのを恐れているかの如く、ひたりとミノルの隣へ並び、ついて来る。ほんの少し疲弊している事は確かだが、この状況を恐れていない。嫌悪もしていない。まるでこれが現状の最適解だと言わんばかりに、ただただ己の側にいる──彼へそんな風に思われると業腹だ。相手を虐げる立場にありながら、ミノルは強く思った。だって、こんなんまるでお人形さんやないか。勿論、その美しいかんばせや肢体が、という意味ではなく。  車道の向こうで威風堂々胸を張る大丸の看板を通り過ぎ、交差点前で立ち止まる。後ろから歩いてきた誰かが舌打ちする事などお構いなく、ミノルは心斎橋駅へと続く階段を顎で示した。 「逃げへんの。財布、持ってるやろ」  ハルオが文字通り地の底へ続くような地下鉄の入り口へ目をやっていた時間は、ほんの数秒と言ったところ。ゆっくりと首を振り、「親父を置いていけない」と答える。 「嘘つき。僕も父さんも、伯父さんの事もういじめへんって、知ってる癖に」 「ああ、知ってる」 「ここから、電車に乗ってどこへなと行って、最寄りの交番に駆け込んだら、何もかも解決するねんで」 「そうだな」  また考え込んでから、次の言葉を放とうとした時、その頑丈な顎が少し震えたのを、ミノルは見逃さなかった。 「でも、そんなことはどうでも構わないんだ。大体、俺は別に親父のことが然程好きって訳じゃない」  踵を返し、元来た道──行きと同じ経路を辿る為、なんば駅まで歩くつもりだろう──を引き返すハルオを、ミノルは追いかけた。 「なあ、ハルオさん」  腕を掴んだ時には、先程舞台を観ていた時とは違う、冷たい汗が、ぶわりと背中一面に噴き出している。 「あの演目、つまらんかった? それとも昼に食ったカレー、美味しくなかったん? さっきニッカン読んでたやろ、どの馬がビビッと来た? ね、教えてや」  いつもならば、例え少々扱いかねていると言う態度を隠しきれておらずとも、彼は必ずミノルと向き合ってくれた。それが今は、無言で前を見つめるのみ──終いには俯いてしまうのだ。  雑踏の喧騒が遠ざかる。世界からすうっと色が褪せる。  ハルオの綺麗な茶色の瞳が、路頭へ転がり落ちて粉々に砕け散る光景に、脳内を埋め尽くされる。  彼をここに置いてはいけない。ならどこへ?   とにかく、すぐ逃げ出さねばならない事だけは確かだった。 「やっぱ、家帰ろ」  ひたすら逸るミノルに、ぐっと手首を握りしめる手へ力を込めても、ハルオは抗しない。  父はまた地下室へ籠っているらしい。ここ数日漏れ聞こえてくる喃語じみた呻きも、今は構っていられなかった。ハルオは尚のこと、気にしなかった。ミノルの部屋へ入るや否や、まるでそう躾けられているかの如く、ベッドへ腰を下ろす。 「歌舞伎はよく分からない」  ミノルが隣に座り、スプリングが軋んでも、ハルオは反応を残さない。己の膝を凝視しながら呟かれる言葉は、独り言にしか聞こえなかった。 「飯だって、食えるものなら何でも構わない。馬も結局は、勝っても負けてもどうでもいいんだ。確かに、何かを賭けるって行為は興奮するかな」 「そんなん、最悪や」  まるで胸を握り潰されたような痛みを覚え、ミノルは詰め寄った。 「何も感じへんってこと? そんな人生、全然おもろない」 「人生なんて楽しいと面白いとか、そう言う次元のものじゃないだろう。死にたくないから生きてる。ある規範に沿って流れていけば、それなりに上手くやれて、いつかは終わる」  膝へ乗っていた拳が一層固くなり、やがて顔へと押し付けられる。 「くそっ、俺は君が羨ましかった。何でも知ってるって風で、一秒一秒を自分で理解して、味わってる」 「アホ、そんな、そんな訳あるかいな……僕、ハルオさんの事、知りたいねん。逆立ちしても何も見つからへんって位、隅々まで」 「無駄さ。何も出てこないよ」  食い込む指先は余りに強張りすぎて、手のひらに傷を作ってしまいそうだ。そう言えば爪を切ってやらなかったなあと、ミノルはハルオの手を取った。竹刀だこのある、憧れるべき男らしい手。 「君といれば、俺も同じようになれた気がした。君の目で世界を見て、聞いて、味わう事が出来たと思った。でもそんな事は所詮、幻想だった。ゼロに百を掛けてもゼロ以外になるもんか」  痛みは引いて、代わりにどきどきと、全身が脈打っているかの如く心臓が高鳴る。まるで恋をしているように。覚悟を決めるとはそう言う事だ。まだ怯えつつも、ミノルはもう己を止める事など出来ないと気付いていた。ふうっと大きく深呼吸した後、ハルオの頬に手を添え、顔を上げさせる。 「ハルオさん、分かった。僕よう分かったわ」  今までの己がどれだけ幼稚だったかよく分かる。父の庇護の元、ただ与えられるものを貪っていれば幸せだった。  植えられた種が芽吹き、根を張り幹を伸ばし、枝分かれした末に見つけたのは素敵なものばかりで、後悔はしていない。けれど、もはや己は子供ではない。実を与えなければならないのだ。 「大丈夫やで。僕がハルオさんを満たしたげる。分からへんねやったら、全部全部代わりに決めたげる」  歌舞伎は偉大な芸術で、坂東玉三郎は素晴らしい。自由軒のカレーはオダサクが誉めるほど美味くはない。名前なんかで賭ける馬を決めては駄目だ。  そしてこれが僕。あなたの全てについて、責任を持って決める男。  ぎゅっとその身へ取り込もうとするかのような抱擁に、ハルオは最初硬直が過ぎて身じろぎの一つも寄越さなかった。が、辛抱強く体温を分け与えると、やがて力が抜ける。ほぅ、とさながら最後の呼吸じみた吐息が耳を打つや、大柄な体躯は完全に相手へ委ねられた。  何や、全然受け止められるやん。いっそ拍子抜けした気持ちになり、ミノルはふふっと喉の奥で笑いを転がした。 「ハルオさん、心はまだ無理でも、身体が気持ちいいのは分かるよな」  顔を近付ける勢いはさりげなく、そして機敏だったから、見開かれたハルオの長い睫毛が瞼を擦る感触すら分かった、ように思う。こんな色男なのに、ハルオはまともなキスも出来なかった。まさか童貞ちゃうやろな、と呆れつつ、同時にその想像へ興奮している己がいて、どす黒いものが心の中で渦を巻く。  衝動をぶつけるように激しくなる舌の動きへ、唾液が粘り気を帯びる。口蓋の粘膜が熱を持つ。絡めていた舌先を軽く噛まれればびくりと肩を震わせ、前歯の裏側を擦られると背中へ腕が縋り付く。 「これ、気持ちええやろ。な、ハルオさん」  最後にすっかり充血した唇をぺろりと舐めてやり、顔を離す。掛かる火のような息で、僅かに覚醒したらしい。ハルオは短く舌を差し出し、同じ仕草を返した。もう彼も、不安や恐怖など何一つとして感じていないらしい。 「ああ、気持ちいいよ」  荘厳な天使のような微笑みは、受け入れる快楽への陶酔をめい一杯示している。彼に与えれば与えるほど、ミノルものめり込むのを感じた。こんなにも充足を、己が何者であるかを実感するのは、初めての事だったのだ。

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