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 ドタバタと居間へ駆け込んできた息子に、父は「何や喧しな」と目を丸くする。 「別に。やっぱりハルオさんはおもろい人やで」  卓袱台の上に乗せられている衣装一式を目にして、ミノルは思わず顔を顰めた。 「これ……」 「福井の伯父さんな、どうもあかんわ。やっぱりもう50超えたら頭もコチコチで、そう簡単には考え方も変えられへんねやろう」  嘆かわしいと言わんばかりに頭を振る父の前で、ミノルは服を脱ぎ始めた。代わりに身につけるのはジーンズ、詰め物をしたブラジャー、ネルシャツ、スニーカー。目元から下を覆うよう手拭いを耳に掛けたら、「先にメットや」と手直しされる。「被ってから耳のところの紐に通したら、顔に密着するやろ……いや、まず化粧した方がええな」  今回は白粉や口紅ではない。「こんなん残したったん?」と本来の持ち主が呆れるそれは、高校で演劇部に所属していた時用いていたメイクセット一式だった。 「せやなあ、顔全体が蚕のサナギみたいに腫れてる感じで。タオルから見える所だけで構へん。左目の所は特に、もう瞼が開かへんって演技でな」 「僕、ハムレットのオフィーリアはやった事あるけど、ゲバ棒でボコボコにされた死体役なんかしたことないで」 「ええねん、ええねん。オフィーリアかて最後は死ぬやろ。それにどうせ、床へ転がってるだけやし、あっちもラリってるねんから」    写真で見たのはあくまで腐乱死体であって、息絶えた直後の母がどんな様子だったかは分からない。両頬に綿を詰め、鬱血しているように見せる為、全体的に赤黒いどうらんを付ける。リクエスト通りワセリンでガーゼを左瞼の周りに貼り付け、それからこってりと紫色のアイシャドウを塗りたくった。化粧ボックスに付いていた小さな鏡で見た限りでも、惨憺たる見かけだ。 「お岩さんや」 「実際、お母さんはお岩さんよりも酷い事されてんからな。福井のせいで」  白地にZと大書きされた傷だらけのヘルメットを被り、タオルで覆面したら完成だった。  地下へ降りる時、父から台所の隅へ置いてあったバケツを持ち上げた時は、流石にミノルも「幾ら何でも悪趣味やで」と悲鳴を上げた。 「それ食紅?」 「大丈夫、毒ちゃう」  なみなみと注がれた赤い液体は洗濯糊でも混ぜてあるのか、微かに粘り気がある。 「大阪の人間はコテコテが好きやからな。東京もんもアッと驚くもてなし、したろやないの」  福井は再び服を着せられていた。枕元にあるバケツは用を足せるよう持って来られたのだろう。入っているのは口を付けられなかった残飯ばかりだったが。もう大も小も垂れ流しで、マットレスまで染み出す始末。只でもむっとした空気の匂いは耐え難い程だった。成程このタオルはマスクの役目も果たしていたのだと、ミノルは今更知った。  短い演技指導の第一段階、部屋の隅へ俯せになったミノルへ、父はバケツの血糊を、ざばりと全部ぶちまけた。  用意の注射を打たれた福井は、まるで電流でも流されたかの如くびくりと身を跳ねさせ、身体を起こした。しばらく合点が行かない風で目を瞬かせていたが、やがて暗がりの中へ転がる身体に気付いたのだろう。ヒィッと声にすらならない甲高い息の音が、喉から迸る。 「ほら、福井さん。早よせなミィちゃん、また間に合わんで」  いましめは未だその身を雁字搦めにしているから、届かない事は百も承知。鎖が精一杯引き伸ばされて張り詰める無常な音が、しつこくしつこく部屋へ響き続ける。  何て残酷な仕打ち。そう思いながらも、ミノルはゆっくりと身を起こした。打ちっぱなしのコンクリートの上に撒かれた血糊は付いた肘を滑らせ、髪は額にべったりと張り付いている、むごたらしい有様だろう。だからこそ効果は抜群で、福井はとうとうそのまま顔を伏せてしまった。呼吸が不規則さを増せば増すほど、両の拳が固められ、伸びた爪が手のひらに食い込む。  勿論、父はそんな甘えを許さない。注射器を年季が入った自家製梅酒の瓶の横に置きざま、恬淡とした眼差しと口調を福井にぶつける。 「そのままぐずっててもええけど、ハルオ君をミィちゃんの二の舞にはした無いやろ」  それで十分だった。再び持ち上げられた福井の眼差しはすっかり怯えきっていたが、見つめるミノルから目を離すことは決してしない。 「福井さんかて百も承知やと思うけどな。隅田信金強盗襲撃事件と、その後にあった関係者の内ゲバについての裁判は、こっちも一通り足運んでんねん。だから話は聞いとる。もう、丸暗記したみたいに、全部憶えとる」  かつ、かつと、本来父の履いている革靴ならこれ位は響いて当然の足音が、自家製の血みどろへ近付いてくる。 「隅田信用金庫本店への襲撃が発生したのは昭和46年8月14日の開店直後。実行犯は5人、通称第二行動部隊。被害額328万円。警察への通報、到着が早かった事から、当初より組織内にて内通者の存在が疑われる。早くも25日には追求を恐れた山下某が潜伏先からの連絡を絶ち、実行犯達は政治局部より捜索及び自己総括を要求さる」  彼こそ革命家などではなく、役者を目指せば良かったのだ。低く、重い父の声は、濁った地下室の空気へ太く力強く差し込まれる。汚れる事など一切躊躇せず、逞しい手はミノルのシャツの襟首を掴んで軽く揺さぶった。 「山下は12日後に実家へいるところを第二行動部隊の者達に発見され追求、埼玉県某所のアジトにて暴行により死亡。しかし、彼は最後まで己が内通者である事を否定。政治局は真犯人の特定を部隊に要求……その際、槍玉に上がったのが強盗の際運転手役として実行犯に加わっていた岩松ミヅエ、22歳。理由は山下への追求時に対する消極的な態度、何よりも兄が警察官であると言う事実」  福井が喉の奥で低く呻き、眼球は今にもぼろんと零れ落ちてしまいそうなほど大きく剥かれている。彼の出す笛のような呼吸音は、さながら瀕死の重傷人のよう。まるでリンチを受けたように──それともこれは、己が発しているのだろうか。解放され、べちゃりと再び床へ顔を落とされたミノルは、ぼんやりとそう思った。 「追求の担当者は4人、第二行動部隊の柚木某26歳、河北某25歳、橘某21歳、そして政治局の酒井某26歳。彼らは8月30日より8日に渡り岩松を山下殺害の現場となったアジトへ監禁し、追求を行う。岩松は頑として関与を認めず、暴力が用いられ始めたのは2日目の昼以降。殴打から始まり、集団での暴行、角材やスコップの使用、服を脱がせて両手足を拘束し、冷水をかけてコンクリートの床の上へ一昼夜放置。岩松は急激に衰弱し、9月7日の夜半、意識を失い呼吸が弱まった事を危惧したメンバーが彼女を車に乗せ、赤城山麓へ向かう」  母の死に際について、これまで父は自ら詳しい事を話さなかった。もしもミノルにその準備が整っていれば、自ずと探り当てる事が出来るだろうと。  事実、ミノルは知った。去年の冬休み、東京へ出かけて裁判記録を閲覧し、隅から隅まで目を通した。今父が朗じていることはあらましに過ぎない。被告人達の証言は、余りの凄惨さに吐き気を催す程詳細に記録されていた。私は無実です、革命に身も心も捧げています。そう誓う彼女を仲間達は恫喝し、嘲り、警察の犬と罵った。目が開かなくなるほど顔を殴りつけ、腹を蹴り飛ばし、手が腫れて握れなくなるほど踏みつけながら寄ってたかって──骨折の跡は6箇所、恐らく内臓は複数破裂。 「ミィちゃんは6日目辺りから、事あるごとに懇願していたそうや。『最後に、一目で良いから夫と息子に会わせて下さい』。もう死なん事には解放されんと、分かっとってんやろなあ……なあ福井さん。あの時ミィちゃんは、あんたの名前は一言も出さへんかったそうや。疑われるからか、兄に危害が及ぶのを恐れたか、それとも……何でやと思う?」  穏やかに、とても穏やかに、父はそう福井へ語りかけた。 「昭和47年2月3日、潜伏中に検挙された橘某の証言により、岩松ミヅエの遺体は雑木林にて発見される。死因は窒息死……」 「この人殺しめ!! もう止めてくれ!!」  福井の血を吐くような絶叫に、父は「いいや、止めへんよ」と首を振った。 「福井さん。俺達はもう、一体何年の間、ミィちゃんに捕われてるんやろうなあ。あの子は片手で俺の、もう片方の手であんたの足を掴んで、奈落の底へ引きずり込もうとしとる……そんな怨霊みたいにミィちゃんを扱うの、あんまりやと思わんか?」  血糊でべったり汚れた手のひらが、丸められた背中を撫でる。それでも慟哭は益々激しくなるばかりだから、遂に父は福井の身体を抱き起こし、抱擁した。 「福井さん、乗り越えなあかん。ミィちゃんは俺達の勝手な願望の為のジャンヌ・ダルクやない。彼女をちゃんと成仏させたろう」 「駄目だ、駄目だ、駄目だ、このままだとミヅエは報われない。ミヅエは……」 「あんた意固地な人やなあ。そいで、目も当てられん程愚かや」 「ミヅエの為にも、俺はやり遂げなければならないんだ。彼女の死を無駄には出来ない」 「死ぬに無駄も役立つもあらへんねんて。そんな考え、ミィちゃんは望んでへん。よしんば望んでたとしても、それはミィちゃんを汚す事になる。優しくて、勇気があって、誰よりも素晴らしかったミィちゃんを」 「ミヅエ」  暫くの間、福井は必死にもがいて、抱きしめる腕から逃れようとしていた。けれど遂には、力尽きる。まるでずり落ちそうになってしがみつくかの如く、背中へ回された手へ爪を立てられても、父は何も言わない。項垂れる事で晒される、汗ばんだこめかみに唇を落とす様子は、さながら祝福を与えるかのようだった。 「大丈夫や、福井さん。俺は、あんたの苦しみを理解出来る。俺だけはよーく理解出来る」  だから、あんたの事が好きやで。  そう囁かれたのをきっかけに、福井は再び子供の如く泣きじゃくり始めた。  身も世もなく咽び、疲弊して眠ってしまったのかと思った。けれど起き上がって歩み寄って来たミノルの気配に、腫れた瞼はパチリと音が鳴りそうな勢いで開く。 「あの……父は今、着替えと、体拭くもの取りに行きました。気持ち悪いでしょ? 汗とか」  まだ偽の血にまみれるミノルの方が、遥かに汚れ果てている事など、福井は言及しない。もはや見慣れた物となった、ガラスの瞳を得た男は、ただただ真っ直ぐに、こちらを見上げている。 「俺は、あいつを許せない」  抑揚が失せた男の声は、ハルオの普段の喋り口と見事に生き写しだった。 「皆が、もう忘れろと言った。だが、とても無理だ」 「忘れんでも、ええんとちゃいます?」  身じろぐ度きゅうきゅうと音を立てるスニーカーを脱ぎ捨て、ミノルは言った。 「思い出すのが何よりの供養やって、近所の坊さんがよう言うてました。そういえば、母さんの骨って伯父さんの実家にあるんですよね? もし構へんのやったら、一回、仏壇にお線香あげに行きたいなあ」 「妹を殺したあいつを許す事なんてとても」  がばりと、伸びてきて腕を掴む手の力は思った以上に強い。ぬるりとぬめる血がさながら、福井の手のひらから溢れ出したかのように感じられて、思わずミノルはヒェッと小さく息を飲んだ。 「ミヅエの死因は窒息死だった。埋められるまでは生きていたんだ。あの子に土を掛けたのは誰か、柚木と橘は自分だと言った……だが、現場には、3人目の人物がいた痕跡が残っていた。酒井と河北にはアリバイがある。彼女にとどめを刺したのは……」 「知ってます、知ってますって! うちの父です!」  捲し立てへ被せるようにして、ミノルは悲鳴を上げた。 「母さんを助けに行こうとして、アジトに向かったけど、間に合わんかった……口封じですよ。共犯者へなる代わりに、命を助けるって」  瞠目する福井を見つめ返し、ミノルは持てる知識を総動員して、懸命に言葉を紡いだ。 「当時母さんが所属していた組織は革マル派から独立して、中核派と抗争する程の力は無かったから、裁判でも皆口を噤むって協定が結ばれたって、父から聞いてます」 「どうして」  なけなしの力を振り絞り、福井はずりっとこちらへ身を寄せた。 「どうしてそれを知りながら、あの男と……君の母親を殺した男だぞ」 「父さんと母さんは、僕が産まれた時に、誓い合ったそうです。2人とも革命に殉じたら、僕が独りになってしまう。どちらかは必ず生き残って、子供を育てるって……父さんは、僕の為に殺した。母さんは、僕の為に死んだ」  鼻の奥がツンとなったのを、誤魔化す気力はなかった。本当は、そんな事許されないのに。ここで泣いたら、父に、そして母に、酷く申し訳ないような気がしてならなかった。 「死ぬ前に、母さんは父さんに向かって頷いたって……笑いながら死んでいったって。僕が例えどんな形でも、未来へ生き残る限り、革命は勝ちやからって。だから、恨むなら僕を恨んでください」  痛いほど二の腕に食い込んでいた指から力が抜け、床に落ちる。もう、福井は口を開こうとしなかった。表情筋がこめかみの辺りでぷつりと切られたように、顔全体が弛緩する。  相手へ伝えるべき言葉も感情も失った人間がこれほど恐ろしいとは、今まで考え至る事すら出来なかった。本能的に後退り、這々の体で階段へ向かいながら、ミノルは裏返りそうな声を辛うじて投げかけた。 「ハルオさんは元気です。心配しなくても、僕が絶対に、酷い目には遭わせません」  何とか階上へ戻ってきたら息子を目にし、父は「あいつと喋ったんか」と溜息を零した。これが人間だ。日常と言うものだ。内心胸を撫で下ろし、ミノルは態とらしく唇を尖らせた。 「何よ、あかんかった?」 「いや。けど、伯父さん、落ち込んどったやろ」 「せやね。でも大人やし、ちゃんと立ち直れるんちゃう……おー気持ち悪、ちょっと風呂浴びてくるわ」 「ミィちゃん」  腕を掴まれ、引き寄せられた時、思わず足を滑らせてしまう。抱き留められ、ミノルは抗議の声を上げようとした。が、生ぬるい液体で濡れているせいだろうか。耳元へ吹きかけられる父の声は、そのまま全身を伝い纏わりついて、離れてくれなかった。 「お父さん、あかんなあ。これまでずっと、ミィちゃんの事をお母さんの代わりにしてた。家族ってもんに縛り付けてしもうた」 「そんな事あらへんよ。そんな事言わんといて」  逞しい父の肩へ後頭部を預け、ミノルは懇願した。 「父さんは僕の為に、やりたい事諦めた。母さんとの約束を守る為に、我慢も一杯した。父さんは僕の大事な父さんや。たった一人の家族やんか」  すり、と頬を擦り付ければ、父の顔にもまた赤色が走る。 「父さん、僕がおらんようなったら寂しい?」 「そら寂しいわ。心を切り取られたような気持ちになるやろな」 「せやったら、僕はずっと、父さんと一緒におるよ」 「いや、あかん。子供は、親を超えて行くもんや」  ぱっと解かれた腕に、背後を振り返れば、父の眼差しは思った以上に強く、揺るぎがなかった。突き刺されたような気分になり、ミノルは瞬時、唇を噛んだ。痛みが伝播した胸に湧き上がったのは、怒りだ。 「何や、勝手ばっかり言うて。超える超えるって、結局自分は革命も碌に出来んかった癖に!」  足音も高く二階へ向かっても、父の言葉が追いかけてくる事は無かった。それが余計に腹が立つ。アホンダラ! と風呂場で大声を上げながら身体を擦り、ミノルはつくづく実感せざるを得なかった。  結局父は、一緒に傷を舐め合う人間がいればそれで良いのだ。そしてやっと今に辿り着く。その先は? 何も考えている訳がない。  今日の腹を満たす為ではなく、明日の理想を築く事が革命では無いのだろうか。全く馬鹿馬鹿しい。  あんまり腹が立ったから、久しぶりにサンドバッグでも叩こうかと思い至る。ハルオの髭を剃ってやるのはその後にしよう。あんまり気が立っている状態で刃物を持つなんて、どう考えても良くないのだから。

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