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 カレンダーにばつ印でも付けて記録していけば良かったかも知れない。招かれざる客達が家にやって来て一週間かそこら。日々は何事もなく過ぎ去っていく。  店のドアには休業の張り紙を貼ってあるから、必然的に4人の生活と言う事になる。  父はこまめに地下へ降り、福井と話をした。最後は必ず福井が声を張り上げる形で決裂する対話。泣き声だったり、怒号だったり。或いはもっと、ミナミのお姉ちゃんじみた甲高い、甘えたような笑い声だったり。  対してハルオは、まともに抵抗らしい素振りを見せない。「親父を人質に取られてるんだ、どうにも出来ないよ」そうやっていとも気軽に肩を竦めるものだから、拘束はどんどんと緩くなる。手錠は付けたままだがガムテープは剥がして、頭上で留めることもやめた。両足もそれぞれの足首からベッドの支柱へ繋いだ鎖へ変わる。胴体にも巻きつけたのは、父の手際を真似した。大便の為にトイレへ連れて行った後、ついでに洗面所で頭を洗ってやり、おまけに部屋へ戻ってからは全身を濡れタオルで清拭してやるまでの大騒動。仕上げに埃だらけのベッド下へ腕を伸ばして、南京錠を取り付けているミノルを見下ろし、ハルオは「律儀だなあ」と呆れた声を出した。 「僕基本的にインドア派やから、こういう工作好きやねん。てか、こんだけ甲斐甲斐しく世話焼いてんのに、そんなつれない物言い」 「もっと違う事に役立てろよ」  出会ってしばらくの頃、軽口を叩き合えるような親しさを持っていた時分に戻れたようで嬉しい。下半身の筋肉が弱っては可哀想だと、ミノルはベッドの足元へ周り、ハルオの両足首を掴んだ。自転車漕ぎをさせるように、イチニ、イチニ、と動かしてやっても、ハルオは抗わない。寧ろ力を抜いて身を預け、彼自身がするよう命じているかのようだった。 「昨日のオールナイトニッポン、オーケンやったやろ。何か面白い事言ってた?」 「覚えてない。途中で寝たから……君は、バイトの後またあのクラブへ?」 「んー、まあね。でも2、3杯飲んですぐ帰った。あ、DJのお兄さん特製のシンディ・ローパー・リミックステープ貰ったのはラッキーやったかな」  されるがまま、天井を眺めているハルオの顔を覗き込めば、そこにあるのは明度の高い瞳──この部屋へ閉じ込められて以来、ハルオの瞳は益々透明で、美しさを増しているようき思えた。 「まだ聞いてないねんけど、彼、前に『タイム・アフター・タイム』をすっごいアレンジしてて……なんて言うか、元の曲はあのシンセのメロディもあって、シンディのポジティブな感じが隠せへんやん? マイルス・デイヴィスがカバーした時も、結局は金管楽器特有のあの主張の強さでどうしても明るい感じになってもうてたし……あの曲、ほんまはもっと柔らかく歌ったら良いと思うねん」 「『タイム・アフター・タイム』ってどんな曲だったっけか」 「うっそお、そこから?」  これで終わり、とばかりに脚をベッドへ下ろす。ベッドをハルオが占領しているので、ここのところミノルは畳の上に客用布団を敷いて寝ている。部屋の隅へ畳んである黴臭い布団にどしんと身を投げ出し、ベッドベッドへ寄りかかるようにして座るハルオへ指を突きつけた。 「まさかシンディ知らんとか言う事無いよな? それともマドンナ派?」 「別に、どちらも特には」  また「別に」か。本当に、物事への関心が薄い。と意地悪を言おうとして、結局言葉を飲み込んだのは、相手が本気で困っていたからだ。思考を放棄しているのではない。選択すると言う行為が、ハルオはとことん苦手らしかった。  溜息をつき、ミノルは勉強机へ立てかけてあったアコースティック・ギターを取り上げた。 「絶対聞いたことはあるはずやわ。5年位前やったかな、あんな大ヒットしてんから」  ぽろぽろと適当に爪弾く中から音を拾い上げていき、そしてメロディを作る。ギターも歌も得意かどうかは別として好きだった。大学行かれへんかったら城天で路上ライブして食ってくわ、などと甘っちょろい事を言って父親にぽかりとやられたのも懐かしい話。  別にゲイ・ディスコへばかり入り浸っている訳ではない。だが『クリストファー』へ行けば最先端の流行を思い切り浴びる事が出来るし、事実客は若い目利きが多かった。何でもレコード会社はあそこで国内未発売の曲を流し、ダンスフロアの沸き具合を見てプレス枚数を決めているのだとか。  とは言うものの、今歌っている曲は男が好きだろうと女が好きだろうと、共感出来るに違いない。 「もし失っても、貴方には見えるはず。きっと僕を探し出せるよ、何度だって。貴方が倒れたなら、僕が受け止めてあげる。待っているから、何度だって」  ほら、やっぱり何だか悲しい曲だ。旋律から小さくも、キラキラとした希望の輝きが、溢れ出しそうな程なのに。  ハルオは黙って曲へ耳を傾けていた。 「な、ええ曲やろ」  一番だけで飽きてしまったミノルが顔を上げ、そう促せば、暫くの沈黙の後、徐に口を開いた。 「ああ。いい曲だと思う」  本当だろうか、と片眉を吊り上げたミノルに、抑揚の薄い声は「似てるな」と続ける。 「歌い方が、ミヅエ叔母さんに……昔、叔母さんの声が入ったテープを、親父に聞かせて貰った事があるんだ。古いフォークソングを、今みたいにギターを弾きながら歌ってた」  目を丸くするミノルなど、その瞳には見えていないのだろう。訥々と続けられる台詞もまた、独り言に近いものだった。 「可愛らしくて、静かで柔らかくて、少し寂しそうな声。今まで感じた事のない気持ちになって、不思議だったよ。こんな人が、リンチされて殺されたなんて、とても信じられなかった」  良いな、僕も聞いてみたい。そう口に出すより早く、ミノルは気付いてしまった。己は母の声を聞いた事がない。彼女はきっと、一人息子へ沢山語りかけてくれただろう。なのに声質も、抑揚も、ましてや内容さえ、何一つとして覚えていないのだ。    ベッドサイドまで這って行き、投げ出された腿へ顎を乗せる。「なあ、ハルオさん。福井の伯父さんは、そうやって昔からずっとずっと、僕の母さんについてハルオさんに教え込んだん?」  躊躇は短く、一度決断されれば揺らがない。「ああ」と頷くハルオの横顔は、口調同様物静かだった。 「お袋には隠していたが、正直なところ、親父はミヅエ叔母さんに取り憑かれていたも同然だった。たった1人の妹をみすみす失った事が、余程辛かったんだろう」 「伯父さんは、母さんの事好きやったんかな」 「当たり前さ、家族なんだから」 「抱きたいって思ってたんやろか」  肩を跳ねさせ、勢いよくこちらへ振り向けられた顔は、驚愕よりも嫌悪が勝っている。 「何だって?」 「父さんが言っててん。それにこの前、伯父さんの様子を見たら、あながち間違ってへんのちゃうかなあと思って……抱くって言うのは大袈裟かもやけど、兄が妹へ向ける感情にしては、ちょっと変やない?」 「馬鹿馬鹿しい」  ふいと顔を背け、ハルオは脚を跳ね上げるようにして従弟の顔を外させた。 「そんなこと、社会的に許されない」 「社会的に、なあ」  いかにも、福井が好みそうな言い回しだった。社会の規範、現実のルール、世の理。きっとハルオは、全て言われるがままに飲み込んで来たのだろう。  それって、ちゃんと血肉になってる? ハルオさん自身の考えはどうなん?  よっぽど聞いてしまおうかと思ったが、結局ミノルは素直にマットレスの上で首を傾げ「ごめんな」と呟いた。 「気ぃ悪したんやったら謝るわ」 「二度とそんな、おかしな事言うな」 「うん。なあ、どうしたら機嫌直してくれるん」 「別に、そこまで怒ってない」  と言ってから、手錠を付けられたままの手で顎を撫でた。 「髭、剃ってくれよ」 「お安いご用や」  立ち上がって踵を返しざま「でもハルオさん、無精髭も絶対似合うで、タフガイって感じでかっこいい。いっそトム・セレックみたいに伸ばしてみたら……うーん、ヴィレッジ・ピープルになるかな」と捲し褒めれば、「馬鹿」と本気で怒られてしまった。振り返ることはしなかったが、今回ばかりはハルオも、きっと照れによって眉間へ皺を寄せていたに違いない。

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