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 愛おしい? 何なん、それ。服を着替えて台所に立ちながら考えていたが、一向に分からない。行平鍋を手に自分の部屋へ戻った時にもまだ、さっぱり。  流石になすがままな筈がないとは予想していたが、それにしたってハルオの抵抗はささやかなものだった。手のガムテープを歯で噛みちぎろうとする進捗ははかばかしくなく、何ならついさっき始められたばかりなのかも知れない。 「あかん、あかん! 全くもう」  慌てて鍋を床に置き、鋏を取り出す。露出させた手首に福井が持っていた手錠を嵌める時は、ベッドヘッドの柵を潜らせる形にする。その上から更にガムテープを巻き直せば「そこまでしなくていいだろう」と愕然も露わに叫ばれた。 「今逃げようとしたやん!」 「手首が痛かったんだ」 「じゃあ暴れんかったらええねん。大人しく言う事を聞いたら無事に帰したるぞーって、刑事ドラマでもよう言うやろ」  そこまで口にしてから、ミノルは思わず首を傾げた。 「父さん、ハルオさんと伯父さんのこと、生きて帰す気あるんやろか」  乾いた唇を舐め、ハルオは口を開いた。 「なあ、さっき殺されそうな声を出してたのって、俺の親父じゃないか」 「あっ、大丈夫大丈夫。ちょっとパニック起こしはっただけ。今はうちの父さんが様子見てるよ」  まだ火傷しそうな熱を持つ鍋からお玉で粥を掬い、茶碗に盛る。 「煮っ転がしは昨日父さんが食べてしもてん。卵粥で悪いけど」  蓮華で掬い、ふうふうと息を吹きかけて湯気を払ってから口元へ運ぶ。アーンと促せば、信じられないものを見るような視線が顔に突き刺さった。 「何ぃ、僕の顔になんか付いてる?」 「いや」  ぼそりと口篭った挙句、顔は背けられてしまう。 「これを解いてくれたら自分で食うよ」 「まあまあ、あんま駄々捏ねんと」  唇に匙の先をちょんと触れさせれしばらく待つ。ミノルがそこまで気の長い性質ではないとハルオはこれまでの経験で知っている。或いはただ単に、まだ煮立っているような粥が熱かったのかも知れない。結局白旗はすぐ掲げられる。一口、二口、三口。良い食べっぷりだ。昨晩おかしなドラッグを飲まされ、今朝から監禁されているにしては。 「肝据わってるなあ。僕やったら、とてもやないけど食事なんか喉通らんわ」 「食える時に食っておかないと、いざという時力が出ないだろう」  水を、と顎で示す仕草が余りに堂に入っていて、思わず捧げるようコップを口元へ運んだ。流石に上手く飲めずシャツへ零れた分を、タオルで擦ってやれば、上半身がびくりと跳ねる。 「冷たい? ごめんな、後で吸飲み持ってくるわ」 「いや。まだ薬が抜け切ってないのかも知れない」  目を逸らし、ハルオは己の肩へ吹きかけるようにして言葉を押し出した。 「昨日のあれは、君が混ぜたんじゃないんだろうな」 「する訳ないやん! 仲良ししたいんやったら、そんな姑息な事せんと、真っ向から勝負するわ!」 「そうか……」  ハルオが赤くなったので、ミノルも意識せざるを得なかった。言ってしもた、と、もしもここに誰も人がいなければ、羞恥の余りぴょんぴょん跳ねて、両手で顔を覆っていたかも知れない。 「……まあ、まだあんまり本調子やないって事やね。もうちょっと休んだ方がええんとちゃう」 「そうする」  ごろりと枕へ頭を据え直したのを確認し、身体へシーツを掛け直してやると、ミノルはハルオの耳元へそっと囁いた。 「嘘ちゃうで、ハルオさん。例え警察でも、従兄でも、母さんの仇の一味でも、僕、ハルオさんの事、めっちゃ好きやねん」 「なら解放してくれ」  目を閉じたまま、ハルオは答えた。 「今なら、君は岩松のおじさんに脅されて加担させられたって証言する」 「嫌や、そんな嘘!」  憤然と立ち上がり、乱暴に食器を持ち上げる。扉を足で蹴り開け、ミノルは捨て台詞を相手に叩きつけた。 「自分の立場、分かってるん? ハルオさんは今まで僕に嘘付いててんで。父さんを捕まえる為に、何食わぬ顔で僕に……これ以上、うんざりや!」  昼食には卵粥の残りを食べるつもりだったが、ハルオが予想以上に食欲旺盛で殆ど平らげてしまった。廊下に出れば、ぷんと香ばしい鶏がらスープの匂いが二階中へ漂っている。  夜は父が布団を敷いて寝る茶の間では、卓袱台に向かってチキンラーメンを啜っている後ろ姿があった。「僕も食べよ」  丼に即席麺と湯を入れて、対面へ腰を下ろせば、父は一瞬だけ顔を上げた。黄身が盛り上がっているような半熟の卵を、菜箸の先でつつき潰し「ハルオ君はどうや」と声を掛ける。 「河豚になっとる。今の状況分かってへんのちゃうやろか。なんやもう、やり辛いわ」  刻み葱を生の白身へ慎重に絡めながら、ミノルが「伯父さんは?」と尋ね返すまでには、少し時間が掛かる。父もまた、ミノルと同じ位平静な調子で「あんなもんやろう」と答えた。 「ゆぅらゆぅら、正気と狂気の間を行ったり来たり。ミヅエミヅエ啜り泣いてみた思たら、朝鮮に逃げたヨド号の犯人を一人ずつ罵ってみて」 「あんまり薬打ち過ぎたら、逆効果ちゃうの」  そう口にしてから、ミノルはようやく「正しい効果」について己が深く考えていなかった事を自覚した。  対して、父は完全に心得ているようだった。ずるっと伸びた麺を啜り、首を振る。 「今更正気に戻ったら、苦しいだけや。そうでなくても、彼は辛い思いをしてきてんから。しかも自分で、その事に気付いてへん」 「だから父さんが分からしたろうって?」  親切やねえ、と呟いたのは、完全に皮肉のつもり。父は少し、機嫌を損ねたようだった。ぐるぐると乱暴にかき混ぜられ、茶色の香ばしいスープが、黄金色で濁る。 「あの時代を生きた人間にしか、分からんもんかてある」  窓を開ける事ができないので、涼は怠惰に首を振る扇風機の風へ頼るしかない。二人して汗だくになり、一刻も早くインスタントラーメンを食べ終わろうと無言で丼に屈み込んでいる。だから勿論、先程から奥の部屋で聞こえる、がちゃん、どしん騒がしい物音には気付いてた。 「ハルオ君、呼んどるよ」 「分かってる」  他人に言われると途端にやる気を無くすのは、己の悪癖だ。汁まで一滴残らず飲み干してから、ミノルは席を立った。 「どしたん、また逃げる気?!」 「あー、その」  手錠ごとベッドの柵を引き抜く勢いで、思い切り揺すっていた腕の動きが止まる。自分から呼び付けておきながら、ハルオはすぐさま視線を逸らした。ここも先程まで暴れていたのだろう脚は、一まとめにされている事を差し引いても、膝と膝が余りにギュッと密着している。「ああ!」と手を打ち、ミノルは眉尻を下げた。 「しょんべんか。気ぃ付かんで」  そのまま部屋を飛び出し、「尿瓶どこあったっけ?」と父に叫ぶ。「昔うちに匿ってた、お巡りにどつき回されて足腰立たんようになったお兄さんの奴」「確か地下やろ」  流石に階下へ降りる時は緊張した。もしも正気を取り戻した福井に飛び掛かられたらどうしよう。台所の床にある蓋扉を外し、おっかなびっくり、抜き足差し足忍び足。  大丈夫、あれだけ薬を使われたら、そう簡単に動けない。以前、左翼活動家時の伝でヨーロッパから覚醒剤を卸すようになった男が、ここへ隠れている時、同じように薬を使っているのを見たことがある。あの男は父が先程注射針へ吸わせていたのの半分足らずの量で、完全にぶっ飛んでいた。  それでも照明のスイッチを入れ、床の上へ横たわっている人影を目に入れた時は、流石にひやりとする。どうやら彼は便所へ間に合わなかったようだ。埃と黴を凌駕し、アンモニアの臭いがつんと鼻を突く。  一応、最低限の処理は施していると言えるのだろうか。スラックスは角を立てるようにしてハンガーに吊るされ、野暮なトランクスは畳まれた状態で、古びた革靴へ重ねて置かれている。こちらへ背を向けるような格好だから、黄色っぽい電球の下に、真っ白い尻が浮かび上がっていた。服から覗く場所は日焼けしているのに、これが文字通り、本人の生まれたままの色だ。  もしかして便失禁もしたのかも知れない。年相応の肉がついた尻の狭間から内股へ掛けて、生卵を垂らしたようなぬめりがぎらついている──思い出したのは、父方の祖母が死ぬ間際に伏せっていたとき、叔母がおむつを変えてやっていた光景。非力な中年女性の腕ですらひっくり返す事が出来るほど、小さくしわしわな祖母の体も、骨の色が透けたように白く、そして濡れ汚れていた。  あの光景へ直面させられたミノルは、思わず泣きそうになりながら、傍らに佇む父のシャツの裾を固く握りしめていたものだった。今は何だか可哀想な、不愉快なような、だから無茶苦茶にしてやりたいような気持ちが沸き起こる。そのデブっと弛緩した四角い尻をぎゅっと力任せに掴んで、叱りつけてやるのだ。「そんな事でへばってたらアカンやろ」  足音を忍ばせて回り込み、棚を探ってお目当てのものを見つけ出す。そうっと階上へ戻ろうとした所で、低い呻き声が追いかけてきた。飛び上がるようにして振り返れば、目があう。薬に侵されても尚、切れ長の目元は伶俐だった──あれっと思ったのは、ハルオの顔をそこへ重ねようとしたからだ。彼は、父親のようなこの思慮深さを持ち合わせていただろうか。 「大丈夫です?」 「……ミヅエの息子か……」  嗄れた声の問いかけに何度も頷けば、福井はまるで眩しさへ網膜を痛めたかの如く、瞼をぎゅっと細めた。 「すまなかった……妹が、死んだ時……君を、迎えに来るべきだった。それなのに……」 「そんな! そんな、お気になさらず……」  逃げるよう階段を駆け上がる時も、まだ言葉は続いていた気がした。でもきっと、これ以上聞いていたら駄目だ……父の味方をするとか、そう言う贔屓の天秤を超えた先から危機感は湧き上がり、埃まみれの箱を抱える指は気付けば氷のように温度を失っていた。  自室へ走り込み取り出された尿瓶を目にし、ハルオは「冗談だろ」と呟いたきり絶句した。 「冗談ちゃう。大丈夫、僕前にもやって、ハウツー知ってるから」 「知ってるとか知らないとかじゃない、なあ、頼むよ、これを解いて……」 「はいはい、往生際悪いで」  シーツを剥ぎ、もぞもぞ芋虫のようにのたくる下半身へ腕を伸ばす。スラックスのホックを外し、チャックを下ろし、「腰上げて」と命じたのに応じて貰えなかったので、身じろぎの隙を突いて下着のトランクスごと脛まで引き下ろしてしまう。  膝を割らせるのには更なる努力か必要だった。等身大のお人形を扱うように、膝を抱え立てさせる。ぐいと力任せに押し開く……のにまた一苦労。何だか女の子を強姦しているようだ。そんな無体は一度も働いた事など無かったが、ミノルはそう思った。 「恥ずかしがらんでもええやん。立派なもん持ってる」 「うるさい」  短く吐き捨てられたハルオの声は、羞恥ですっかり上擦っていた。振り返って確認すれば、紅潮した頬を誤魔化すよう、顔が背けられる。  大きさも長さも申し分ない男性器を掴んで尿瓶に押し込むが、冷たさにびくりと一度肩を震わせたきり、なかなか催してくれない。人に見られながらするのは流石に辛いかとシーツを腹まで戻してやったが、手の中のガラスがそれ以上重くなる気配はなかった。 「まあええよ。別に時間は幾らでもあるし」  クーラーが鈍い音を立てて稼働するこの部屋は、家の中で最も快適な場所だ。先程地下室で掻いた汗が引き、少し寒気を感じるほどだった。くしゅんとくしゃみを一つしたミノルを見下ろし、ハルオは食い縛った歯の向こうから呻いた。 「こんな事、狂ってる」 「そう? 法律を守るべき警察が何年も一般市民付け狙って、忠臣蔵みたいに敵討ちの機会を狙ってた方が、僕は大分イカれてる思うけど」 「君の親父さんは元過激派だろう」 「お巡りさんの定義的に、元過激派ってやっぱり一般市民とはならんの?」 「少なくともうちの親父はそう思ってる」 「そう、おかしいのは伯父さんや。てか、ハルオさんもハルオさんやで、そんな伯父さんの言う事ホイホイ従って。自由意志ってのはあらへんわけ?」  思い返してみれば、ハルオが自らの前で積極的に何らかの好き嫌いを示した機会は、ほぼ無いと言えるのではないか。映画館へ足を運んだ時も、観る作品は新聞の上映情報から適当に選んだ。レコード屋へLPを買いに行けば、今週のヒットチャート欄を確認したらそれっきり、お宝を探して段ボール箱を漁っているミノルを漫然と眺めている。暖簾をくぐった店ではミノルに勧められた物を飲み食いし、そしてそう、誘われるがままゲイ・ディスコへ連れ込まれた。  潜入捜査官と言う立場で、自己を抑制していたならば大したもの。だが本当に? 己が美徳として尊重していた、一徹と言ってすら良い男性的な率直さの裏へ、もしも本当に、何の含蓄も無いとしたら?  流石武道なんか嗜んでいただけあり、ハルオは余りにも頑固だった。耐え続けて、心なしか顔色も青ざめて来たような気がする。脚の間へ差し込んだ腕を膝でぎゅっと締めつけては、慌てて離す仕草が繰り返されるにつけ、とうとうミノルは行動せざるを得なかった。空いている左手を下腹に乗せ、ぐっと押し込む。シャツ越しにでも分かる腹筋の隆起が、限界まで固く引き締まる。  言葉もなく凝視され、ミノルは相手を安心させられますように、と願いながら微笑みを作った。 「大丈夫やで、ハルオさん。僕に任せて」  ぐいぐいと手のひらの圧を強めていけば、数度喉がヒュウと高く鳴る。膝を擦り合わせる強さは、さながら摩擦熱で火を噴きそうな程。薄く形の良い唇が震え、こめかみに滲む汗が眦に流れ込む。目を固く閉じ、顎を逸らしながら、ハルオは小さな、喘ぎ声じみた息を漏らした。例え彼が逃げようとも、ミノルはじっと、ハルオの一挙一動を見守っていた。  ガラスを打つ水流の感覚と共に、容器が重くなる。相当我慢していたのだろう、放尿はなかなか終わらなかった。  音が止まったのを確認してから、尿瓶を取り出してベッドの下へ置き、ウェットティッシュで性器周りを拭き清める──手に取ったそれが、ほんの少し勃起しているのを感じられた時は、流石に気まずさを覚えたが、そこは武士の情け。知らぬふりで下着の中へ押し込んでおく。  スラックスのチャックを上げられる段にまでなると、ハルオはすっかりくたびれ果て、ベッドの上でぐったり伸びている。全力疾走したか、さながら絶頂を感じた時のよう。放出した直後は、肩でするような浅く短い息を繰り返していたが、今はぐっと口を噤んで、だんまりを決め込んでいた。 「そんな顎噛み締めてたら、奥歯割れるんちゃう」  出来る限り平静な口調でそう言ってから、ミノルは気付いた。確かに四肢の拘束は念入りに施したが、ハルオは口を塞がれていない。この部屋で大声を上げて助けを求めれば、隣近所中に響いて、絶対誰かが110番をしてくれる。そうでなくても父や己、そしてこの店は、とにかく腫れ物扱いされているのだ。  叫んでみたらええねん。そう口にする勇気が、けれどミノルには無い。ましてやガムテープを口に貼ってしまうなんて、とてもじゃないが。  僅かにはだけたシャツから垣間見える腹筋はまだ浅い上下を繰り返しているのが、酷く扇情的に感じて、裾をぐっと下げてやる。 「またおやつの時間になったら来るわ。二日前に叔母さんから、スイカ半玉貰ってん」  との言い方は誤解を招くだろうか。ハルオも間違いなく己の親類だ。 「……うちの、父さんの妹のこと」  尿瓶を片手に部屋を出る時そう呟いても、返事が戻ってくる事はなかった。  昔から兄弟が欲しいと思っていたが、従兄と言う存在は、それの代替物として申し分ない、のだろうか?   でも、キスしてしまった。兄弟とキスはしない。先程父が言っていた通り、それは許されない事だ。  従兄弟ならどうなのだろう? 後で図書館へ行って調べてみようと、ミノルは頭の中のメモ帳に書き込んだ。どちらにしろ、今度鑑賞する歌舞伎の演目を予習する為、文学全集を借りに行く予定だったから、丁度いい。

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