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 両手両足をガムテープでくくり上げられていると気付いた時点で、全てを悟ったのだろう。ほんの少し抵抗の身じろぎを繰り広げた後、ハルオは再びベッドへくたっと身を預けた。 「ミノル……」 「うん。ちょっとは話聞いた」 「悪かった」 「ごめんで済んだら警察要らんで」  ミノルのぼやきに、涸れた声で笑った時出来る眦の皺。ああ、好きやなあ。としみじみ思う。このままずっと、こうしていたいとも。 「ほんまに刑事さんなん? 休職中ってのは嘘?」 「いや。親父に、岩松が……君のお父さんがここに潜伏してるって言われて、無理矢理休まされて連れてこられた」 「潜伏も何も、別に逃げも隠れもしてへんで」 「だろうな。ここへ来てすぐに気付いたよ」  まだ薬が抜け切っていないのだろう。毛玉だらけのカーテンの隙間から差し込む朝日の中、瞳は美しい陶器人形へ嵌められたもののように澄んでいる。 「親父は、今まで勇気が出なかったんだろう。妹を、君のお母さんを殺した男と会うのに」 「ちゃうよ。母さんは仲間にリンチされて、赤城山のどっかに埋められてしもてん。父さんが教えてくれた」  ミノルが告白に対して眉尻を下げるだけなのと同様に、ハルオも溜息を一つ付いたきり、気怠く瞼を落とすにに止まる。お互いへショックを与えようとしたにも関わらず、まるで磁石の同じ極が反発し合うように弾かれただけで、傷の一つも負わない。何じゃいな、と内心呆れ、ミノルは胸の上で一まとめにされたハルオの手を叩いた。 「ハルオさん、僕が思うてた以上に、けったいな人みたいやなあ」 「ケッタイ?」 「つまりまあ……褒めたつもり。ご飯、食べれる? 三日前の残りの里芋の煮っ転がしとかやったらあるけど」 「食べる」  顔に落ちる長い睫毛の影にそそられる余り、外へ出るのが酷く惜しかった。  ほんまけったいなやっちゃ。すっかり呆れ果てて部屋を出た瞬間、暗がりから伸びて来た手に腕を掴まれる。 「どうや、ハルオ君は」 「ケロっとしてる。まだラリってんのちゃうか」 「ツラの皮厚いんや。そういうとこまで親父と似んでええのになあ」  それはそうとして、と、父に押し込まれるまま、隅の布団部屋と呼んでいる段ボール箱だらけの小部屋で、ミノルは声を潜めた。 「どないすんの。お巡りさんを2人もうちに監禁してる。しかも一人はシャブ打ってメロメロや。父さん、今度こそ捕まってしまうよ」 「シャブとか悪い言葉使うたらあかん」  父は首を振り、押入れの襖へ手を掛けた。 「さっきも話したやろ、ミィちゃん。あの男のせいで、お母さんは死んでしもてん。このまま何も無かったら、お父さんかて腹のうちに飲み込んで、忘れるつもりやった……でも、あいつはここまで来た。受け止める覚悟があるって事や。せやったら、こっちも相応の歓待をせなあかん」  アホらし、と言うことが、ミノルにはできない。以前父が見せてくれた死体遺棄現場の写真は、頭の中に染み付いて片時も離れてくれた事がなかった。死後半年、土の中で顔の肉は半ば分解し、干からびて灰色に色褪せた髪から覗く剥き出しになった顎下は、まるで苦痛を堪える為歯を食いしばっているかのように見えた──実際、長時間殴る蹴るの酷い暴力を受けたのだと言う。ほんまは細からず太からずのナイスバディやってんで、こんな骨と皮のガリガリになってもうて。写真を手に取った父が、淡々と呟いた時の口調なら、今でも再現する事が出来る。 「で、酒でも酌み交わすん?」 「アホ抜かし。お客さんが来たらな、そいつが一番望むことをしたるのが、歓待ってもんや」  小さな衣装箪笥から取り出された物を見て、ミノルは思わず息を詰めた──本当のことを言うと、そこにしまわれているものなら、もう目を瞑ったまま取り出しても当てる事が出来る。  ミノルが生まれて半年程、母の産褥を癒す目的と、警察の追及を逃れる為の潜伏を兼ねて、この家で親子三人暮らしていたのだと言う。短いハニムーンやったなあ、と呟く時、父が懐かしさと苦々しさを半ばに表情へ乗せるのは、同時にここが別れの舞台でもあったからだ。手持ちの品を全て置き去りにして、母は再び闘争に加わり、そして二度と戻って来なかった。  過去からの荷物を手当たり次第に放り込んである部屋の中、父は手際よく物を漁る。取り出したのは、ふんわりした白いシルクに大柄な百合の模様がプリントされたブラウスと、臙脂色をした膝丈のスカート。幸いどちらも染み一つ無い、代わりに樟脳の匂いは強烈で、ミノルはくしゃみを一つ零した。 「着てみ、ミィちゃん」 「ええ? 無理やて」  ひらひらとスカートを振りながら、思わず眉間に皺を寄せる。 「昔やったらともかく、もう小さなって着られんよ」 「まあ、物は試しや。あかんかったら、こっちのジャンパースカートにしよ」  さあさあ、と促されて渋々Tシャツを脱ぎ、肌触りのいい絹へ袖を通す。まるで身体の形へ合わせて伸び縮みしたかのように、ぴったりと合った。昔に比べてちょっとは身長も伸びた筈やのに。それ見た事かと言わんばかりな父のやに下がりを見れば、ほんの少し癪に障る。  ミノルはミヅエに生き写しなのだと、誰もが口を揃えて言う。ほんの幼い頃、よすがを探し求め、この箪笥から引っ張り出した母の服の匂いを嗅いでは泣いていた息子を見つけた時、父は「男やったら泣くんやない」と叱りつけたか?  まさか。「そんな恋しいんやったら着てご覧。お母さんと一つになったような気分になれるで」と頭を撫でてくれた。  高校生の頃になれば、今のように父から求められて服を身につけることも増えた。  勿論この行為が、世間で言うところの「まとも」と少し外れている事をミノルは理解していた。けれど、母のお気に入りだった服を身につけ、装いを整え、そして写真の中の──あの惨たらしい死体の衝撃を掻き分けて、アルバムに貼り付けられた面影を探すのは至難の業だったが──母のように父へ微笑んで見せれば、理解出来るのだ。まるで服の繊維へ染み込んだ感情が、肌から吸収されるかのように。  感じるのは慈しみだった。母がどれだけ、夫と息子を愛していたか。そして愛されていたか。恐らく息絶える最後の瞬間まで、母は乳飲子の事を想っていただろう。彼女は我が子へより良い世界を残そうと立ち上がった。不幸なことに、その手段は間違っていたし、理想ですら彼女自身の命で贖えるようなものでは無かったが。  背中まである黒髪の鬘を被り、これも母の形見である鏡台の前に立てば、そこには確かに女性がいた。どれだけ側にいて欲しい、学校から帰って来たら「おかえり」と言いながら頭を撫でて欲しいと願ったか分からない彼女が。 「さあ、仕上げや」  使い古された化粧道具を扱う父の手つきは、全く巧みなものだった。父が出会った頃の母と同じ年頃の肌へクリームを擦り込み、白粉をはたき、頬紅を差し、眉墨で形を整えてアイラインを引く。最後に取り出された口紅は淡い桜色をしていた。 「ミィちゃんはあんまり派手な色が好みとちゃうかったからな」  中性的な顔立ちの中でも、特に女性的なパーツだと言われるミノルの唇へ、父は小指へつけたルージュを、丹念に塗り広げていく。ミノルも従順に口を開き、そして閉じ、完成を待った。  今や父の目の前にも、母がいるのだろう。これだけは新品のストッキングを履き終えたミノルの手は、まるで恋人のように優しく力強く引かれる。そのまま一階へ、そして更に下へと、導かれた。  普段は酒や保存食などを放り込んである地下室に、伯父は転がされていた。未だ正気は失われたままなのか、監禁者が入って来た事にすら気づかない。薄汚れたマットレスの上へ横たわる身体は、そこかしこが不随意に痙攣し、だらしなく開いた口元からはよく聞き取れない言葉が漏れ聞こえる。 「こら、福井さん。いい加減起きや、とっくに朝やで」  まあここは地下やから分からへんか、と呟き、父は弛緩した上半身を抱え起こした。数発の平手打ちで、ようやく意識が浮上して来たらしい。裸電球の下、瞳がぐうっと焦点を絞ったのが見て取れる。 「そんな体たらくやったら、ミィちゃんも心配するやろ。妹を悲しませたらあかん」  父が言い聞かせずとも、福井の表情は見る見る内に強張り、そして全身が震え出す。部屋の隅に無言で佇むミノルへの凝視は外れない──彼が恐れているのは、外す事で幻の姿が消えることか、それとも幽霊に襲い掛かられることか、一体どちらなのだろう。 「ミヅエ」  呆然とした呟きは、今にもがらがらと崩れ落ちそうな響きを持っている。事実、愕然が滂沱へ変わるまでに、然程時間は掛からない。 「よしよし、可哀想に」  身を丸め、堰を切ったよう嗚咽する福井の背を撫でながら、父は心の底から哀れんでいるかのように言った。 「ミィちゃんは愛情深い子やった。あんたの事をほんまに大事にしてた。だからネタをチクるよう頼まれた時は、どんだけ辛い思いしたやろうなあ……誇りに思ってええねんで。あんなに勇気のある人間、他におらん。最後まで、あんたに会ってた事すら否定し続けて」  言葉が重ねられれば重ねられるほど、福井は両手首を戒める手錠へ顔を擦り付け、さながら土下座しているかのよう。壊れたレコードのように、ただただ妹の名を呼び続ける。ミヅエ、ミヅエ、ミヅエ。  大人の男がこんなにも、なす術なく泣きじゃくっているのを、ミノルは初めて目にした。しかもなまじ、ハルオに似ている人物だから、ばつの悪さはひとしおだった。  すっと影から分離し、男の傍らへしゃがみ込む。頭を撫でてやろうと腕を伸ばした瞬間、蹲っていた身体はばね仕掛けのように起き上がった。こちらへ這って来ようとしたが、すぐさま胴体と、両の足首に結え付けられた鎖のせいで体勢が崩れてしまう。大型犬用の頑丈な鎖が幾重にも巻かれていた。痛そう、と思わず顔を顰めてしまう。 「おうおう、まだまだ元気もりもりやないの」  汗ばみ縺れた男の髪を掴み、顔を上げさせると、父は口元に大ぶりな笑みを浮かべた。サングラスを毟るようにして外した時、剃刀のように鋭い切れ長の目は、全く真面目腐っている。 「あかんでえ、福井さん。妹に盛ったらあかん。そんなん、犬以下の所業やろ」  ガシガシとマットレスを指で掻き、弱った虫のように足をもがかせ、それでも福井は必死に距離を縮めようとする。父は益々男の頭を掲げる腕に力を込め、真っ赤になった耳元へ唇を寄せた。 「ミィちゃんと寝ていいのは、夫である俺だけや。あんたは指咥えて見とくしかあらへん、なあ、『お兄ちゃん』」 「ミヅエ、帰ろう」  涙と鼻水を飲み過ぎ、がらがらに掠れた声で、福井は訴えた。見開かれた目を真っ赤に充血させるのは、薬物か悲壮か、一体どちらなのだろう。 「父さんと母さんが待ってる、家へ。もういいんだ。そんなお遊びは、やめていい」 「分からんやっちゃなあ、ミィちゃんの家はここや、ここ! 女は結婚したら実家を出るもんやで」  福井が鎖をガチャつかせて暴れている間に、父は手早くメダカを用意する。血管に注ぎ込まれる安寧。三十秒もしないうちに、福井はまたマットレスの上で萎れてしまった。 「流石マッポは、なかなか石頭やなあ」  処置なしと言わんばかりに頭を振る父へ、ミノルは思わず「せやけどこれ、あんまりやわ」と言い募った。 「僕、弱い者いじめは好かん」 「いじめてへん、いじめてへんよ」  ぐったり沈んだ福井の頭を撫でる手には、まだ引き回していた男の髪が数本こびりついている。幼いミノルが布団へ入った後、おやすみと言ってくれた時と同じ口調を、父は作った。 「お父さんは、この人の事が愛おしいねん」

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