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帰郷 - 3

「行かないで! 兄ちゃん、ニコもつれて行って!」  結局、泣いて暴れるニコをなだめる方法はなかった。ほかの仲間にニコをあずけ、すぐに戻ると約束をしたのはいいが、きっと無事に帰ることはないだろう。ルカも、ニコも、ニコを羽交い締めにする仲間もそれをわかっていた。  どんな理由にせよ、貴族の家に招かれ、生きて帰った乞食まがいの孤児など聞いたこともない。    自分がハイゼン家に探される理由も分からないまま、ルカは「お待たせしました」と相変わらずの無表情に深く頭を下げた。 「乗れ」  飾りっけのない短い指示に大人しく従って、ルカは生まれて初めての馬車に乗り込んだ。  黒塗りの重厚な扉も、申し訳程度の靴底越しに感じる分厚い絨毯も、何もかもが落ち着かない。ようやく腰を下ろした座面は想像したよりも柔らかく身体が沈んで、未知の感覚が不快にすら感じる。  それに、同じ空間にあの男が乗り込んで来たのも不快感に拍車をかけた。  彼の薄暗い瞳から逃げるようにしてドイド地区では到底お目にかかれない透明度の窓を覗くと、仲間の手でボロ小屋の中へ引きずり込まれていくニコが見える。  小さな体で暴れながら、必死でこちらに手を伸ばすニコを置いていく。ルカの心は酷く傷んだ。  だが、ハイゼン家にニコを連れて行くわけにはいかない。少なくとも"逆らえば殺す"となんの遠慮もなく言えてしまう男の前には一秒でもニコを晒していたくなかった。  乳飲み子の頃からめんどうを見ていたとはいえ、ルカにしてみればニコにしてやれたことはほとんどない。自分が年上の仲間たちに与えてもらったことの真似をするので精一杯だった。  だから、少しでもニコを危険から遠ざけてやること、それが今のルカにできる彼女への最大限の贈り物だった。  いつか……いや、わかってくれなくてもいい。  兄貴分が自分を捨てたと、そう思って俺の事なんか早く忘れればいい。  ふとルカの脳裏にシュカの姿が浮かんで、すぐに消えた。  ガラス越しにニコと仲間たちの無事を祈るルカのことなど一切気にもとめず、馬車がゆっくりと走り始めるとすぐに窓の外のボロ小屋はどんどん小さくなる。やがてすっかり見えなくなった。    流れていく景色を眺める気にもなれず、ルカは静かな車内でただ静かに足元を見ていた。  聞きたいことは山ほどある。だが、この男に聞いたところでまともな答えが返ってくることはないだろう。  視線を上げて男を見ると、人形のように温度のない瞳がルカを見ていた。 「……」 「……なにか」  ただ睨まれるだけ、いや、睨まれるならまだいい。感情のこもっていない視線を浴び続ける苦痛に耐えられず、思わず口を開いてしまった。 「歳は。今年でいくつになる」 「十六……だと思います」 「……そうか」  歳を答えた途端、目の前の男はぐっと眉間に皺を寄せた。一瞬のことだったが、はじめて感情らしいものを見せた男に少々面食らう。十六だと答えたことの何がこの男にあんな表情をさせたのだろう。あんな、まるで、憐れむような、苦しむような……。  それから男が口を開くことも、ルカが口を開くこともなかった。男の視線は相変わらずルカに注がれているようだったが、ルカは黙って足元を眺めていて、二人の視線が交わることもなかった。  ドイド地区を抜けると道は舗装されガタガタとうるさかったタイヤの音は一気に静かになった。  ハイゼン家に近づけばその道は煉瓦敷きになり、ルカのこれまでの生活からは程遠い街並みが流れるように窓の外を通り過ぎていく。庶民の暮らしすらも孤児であるルカからすれば憧れの的だったが、憧れが湧き上がるような余裕があるはずもない。  まるで冤罪での死刑執行を待つような心地のルカにはお構いなしに、馬車は大きな屋敷の前で静かにその歩みを止めた。 「降りろ」  やはり短く端的な指示に従って馬車から降りる。  目の前の屋敷は貴族らしく大きいが、貴族らしからぬ飾りっ気のない建物だった。ただ、庭木に手入れは行き届いていて、枯れ葉一枚も落ちていない。  丁寧に手入れをされている、と普段のルカなら思っただろうか。今のルカには自分のために用意された断頭台にしか見えず、その威圧感で全身が押し潰されないようにするのが精一杯だった。泣き喚いて逃げ出すような無様は晒したくない、と辛うじて残った矜持だけがルカを二本足で立たせていた。  振り返りもせずに屋敷の中に進む男の背を追って重厚な扉をくぐる。  ハイゼン家の屋敷は外観からの想像通り、手入れが行き届いていて装飾も上品な作りだった。ホコリひとつない玄関ポーチに庭の花を生けてあるのがちょうどいいアクセントになっている。  ……もちろん、深く顔を伏せたルカがその美しさに気づくことはない。 「ラドル様! お帰りをお待ちしておりました。こちらの方が……?」  すぐに屋敷の奥から体格のいい中年女性が出てくる。  無表情の男とは対照的に明るい笑顔を浮かべた女性は大きな背中の影に立っていたルカを見ると途端に表情を曇らせてラドル、と呼んだ男に視線を向けた。 「ルカだ。風呂に入れてやれ、父上は夜まで戻らない」  無表情の男──ラドルはそれだけを言い残すと踵を返して屋敷から出ていった。  ルカは思わず男の背中を振り返ってからキツく拳を握りしめた。  最初から最後まで意味のわからないやつだった、この状況の説明をひとつもしやがらない。 「ルカ様、いきなりのことで驚かれたでしょう」  扉を睨んで動かないルカをどう思ったのかはわからないが、女性はそっと声をかけてきた。  思わず肩が跳ね、勢いよく振り向くとやけにあたたかな笑顔で迎えられて調子が狂う。ピク、と自分の片眉が持ち上がったのが見なくてもわかった。   「私、ハイゼン将軍家でメイド長を任せられています、アルマと申します。まずはお風呂に参りましょうか、ご説明はそちらで」

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