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第18話 計画実行と完遂

     例えば、(かなで)の喜ぶ顔。    それはスクールバスを待つ俺が見えた時に、見せる顔。バスを降りて駆けてくる奏の、嬉しそうなあの顔。    例えば、怒った奏の顔。    奏が風呂上がりに食べようととっておいたヨーグルトを俺が食べてしまった時の、俺を責める彼の憤った顔。俺がごめんなと謝ってもしばらく拗ねている、あの顔。    もしくは、哀しむ顔。    俺が奏を突っぱねた時の、あの日の顔。つられて俺まで悲しくなってしまう、あの顔。    そして、最後は楽しそうな顔。    俺と買い物に行く時。俺が宿題を教える時。俺の布団に潜り込んでくる時。俺に見せるその顔。    どれもを今でも鮮明に思い出せる。    ではなぜ、忘れていたのだろう。一日たりとも忘れることなどあるはずがない。俺が自分という存在を賭けて守りたかった、奏。お前の姿を。           「(はじめ)」    ビクッと肩が上がった。俺は目の前のパソコンから寸分も視線を動かせなかった。   「なにしてる? ……ああ、見たのか」    ボスが俺の背後からゆっくりとした口調でもって近付いた。   「創」    ボタボタとこの部屋の気温に似つかわしくない汗が流れる。はぁ。はぁ。と自分の呼吸のする音がこんなに大きく聞こえる。   「褒められたもんじゃないな」 「……あ……」    と。と背中脇腹に何かがあたる。細くて筒状の何か。    ……銃口。    俺はごくりと唾を飲み干して、次に出す言葉をシャッフル計算の札のようにパパパッと頭に浮かべた。    考えろ。間違った言葉を吐くな。   「……」 「ボス」 「……なんだ」 「奏は……奏だけは、どうか……」    俺は汗だけではなく、ボロボロと涙を溢していた。   「奏を……殺さないで、ください。なんでも、します」 「……そうか」    中腰になっていたボスがスッと立ち上がって、俺の肩にポンと手を置いた。   「忙しくなるぞ」    スッと俺の顔の横にそれを出して見せる。横目で視界に入ってきたそれを見た。   「……っ」    引っ掛けるキャップを外した箒の柄。    今度はバタン、と音がして、ボスはこの部屋から出て行った。   「……っ。はあっ、はあっ」    こんなにも息をするのが苦しい。本当に空気を吸えているのだろうか?   「はぁ……はぁ……」    フッと全身の力が抜けた。俺は椅子の上で、呆然とパソコンの眩しい画面を見つめた。   「……はぁ……」    奏。こんなにお前のことを深く想う日がくるとは思わなかった。偽物の俺達兄弟は、一体どこへ行けよう。お前の身を守るために、俺は寝る間も惜しまずボスに尽くすと決めたよ。心配することは、何もない。ただ、俺がもう少し悪い兄になるということだけはわかっていてほしいだけ。お前にそれの意味が何も理解できなくとも。            ユウショ製薬会社。白い建物に控えめに会社名が書かれてある。全身黒い服を身につけた俺達は、その建物の敷地内にいた。   「……」    ピチ、と黒いラテックスグローブをはめた手で、職員が映る監視カメラの映像から割り出した暗証番号を使い、裏口から建物内に入る。幸い警備はそこまで厳重ではなさそうだ。建物内は非常灯で薄暗く照らされ、俺達は慎重に奥へと進んでいった。   「所長室は、三階にある」    俺が小声でそう言うと、ニット帽を被った奏はこくりと頷いた。すぐに現れた階段でその場所を目指す。キーが必要な場所は茜がくれたメモ通りの配置をしていて、俺が用意した暗証番号で突破できそうだった。覚えた通りの道順で奏を案内するように俺が先頭を行った。   「俺が心配するほどじゃなかったね」 「そうだな……」    特にこれといって難関な箇所はなく順調に三階の所長室までたどり着いた。しかし扉の前には指紋認証に加え、声紋認証でのロックがかかっている。ドアの上部はガラスが嵌められているが、すりガラスになっていて中の様子を伺い知ることはできない。   「これ……どうするの」    奏が心配そうに呟く。だが予想の範囲内だ。俺は持っていたシリコンでできた指紋をセンサーに当て、携帯の再生ボタンをタップしてスピーカーに当てた。何も音は聞こえないが、確かにスピーカーは反応している。   「……!」    カチャ。と鍵が開く。奏はここに来る前に各扉のロックは外せるのかとしきりに俺に聞いてきたが、難なく解錠できた。驚く奏を見て、ニコ、と微笑むと、こくりと頷いた。そっとノブに手を掛けてドアを押す。   「手を上げてうつ伏せろ」    俺はレプリカの銃をチラつかせて中に入った。小さな会議室程の広さの部屋。奥にある机のパソコンは電源が付いていて、その上の蛍光灯が真下を照らしていた。   「……」    じり……と歩を進める。俺の後ろにいる奏が、チキ、とナイフを取り出す音がした。   「……?」    いきなり現れた俺達へ、何の反応もない。それに、こちらに向かって椅子に座っているはずなのに頭の先さえ見えなかった。だが人がいる気配はする。   「……」    嫌な予感がしてしまった。    奏が緊張の面持ちで俺の影から所長に忍び寄った。   「……手を上げろ」    俺がもう一度声をかける。反応はない。物音さえない。じり、じり……と近付く。もうすぐでパソコンの先の人物が見える。俺はそっと覗き込むように首を伸ばした。   「!」    ぽた。ぽた……。    そこに座っている人間は机にうつ伏せていた。大量の血を床に垂らして。   「そんな……!」    奏がナイフを握りしめたまま愕然とした。    ——心臓を一突き……。    俺は即座にハメられたのだと感じた。唇を震わせ言葉を失っている奏に、早くここから出よう。と声をかける。奏は放心していたが、俺がもう一度同じ台詞を言うとハッとして頷いた。    ——待ち伏せされたか?    来た時よりも慎重に同じ道を戻る。奏のことが心配だったがなによりもここを出る方が先だ。誰もいないことを何度も確認して、タタッと階段を駆け降りた。   「大丈夫みたいだ。あの扉から出よう」    小声で奏にそう言って、後ろを確認しながら入ってきた裏口から外へとそっと飛び出した。           「はぁ、はぁ……」    だいぶ走ってきた。身につけていたグローブ、帽子、マスクを外した。汗ばんでいた肌に、夜風が気持ちいい。   「……どうして……」    奏が俯いてぼそりと口にした。   「……奏、この中に全部入れて」    服以外の小物をビニール袋に入れる。着ていた服をひっくり返して柄のある側に変え、家には帰らず一旦近くのホテルへと足を運んだ。         「ちょっと出てくるよ」 「……」    俺は、ふう、とため息をついた。奏はあれから一言も喋らなかった。   「じゃあよろしく」 「ちゃんと振込んどけよ」 「わかってるよ」    俺が証拠隠滅のためにビニール袋に入れた物を馴染みのへと渡す。俺達に所長の血は付いていないし、監視カメラも弄ったからほぼ大丈夫だろう。   「……奏」 「ごめん、兄ちゃん。一人にさせて」 「……わかった」    俺は一万円をテーブルに置いて、ベッドで項垂れる奏を残し一人だけで家へ帰った。久しぶりの自分ただ一人だけの家。ぐるりと見回して、ソファへどすんと座った。   「茜。まだ起きてた? ……うん、うん。今は一人。うん……それが……」    電話の先の茜は、どういうこと!? と驚いていた。犯人扱いされかねないが、俺達は本当にやってはいない。詳しくはまた後日、と言って茜に一応の礼を伝えて電話を切った。   「ふう……」    失敗。に、なるんだろうかこれは。天井でくるりくるりと回るプロペラを見つめる。  俺の経歴に傷が付いたな。と思いながら、しばしの休息に深い息を吐いた。         「兄ちゃん。ただいま」    寝室のドアが開いて奏の声がした。それは落ち着いているようで、無理に落ち着かせているようで、俺は一抹の不安を覚えた。   「おかえり。奏。……一緒に寝るか?」 「うん……」    時刻はまだ朝の五時ぐらいだろうか。奏は着替えてくる。と俺に言って、その姿が見えなくなった。   「……ん」    また目を閉じていると、ゴソ、と奏が布団の中に入ってきた。帰ってくるまでにだいぶ冷えたようだ。両手で包むと氷のような冷たさになっている。   「……兄ちゃん、寒い」 「タクシー使った?」 「ううん。歩いて」 「……ふぅ」    なぜそんな目立つことを。   「……風呂入れようか?」 「ううん。いい。兄ちゃんの手あったかい」 「……奏」 「眠くなってきた。少し、寝る……」 「ん……」    また少し大人びたような奏の寝顔。でも、安らぎというよりは疲労のそれ。目的を達成できずにさぞ落胆していることだろう。はるばるこんな異国の地へ足を運んだというのに。   「……おやすみ」    起きるまで、寝かせてあげよう。奏の肩まできちんと布団を掛け直す。俺は携帯のアラームをかけずに奏と同じベッドで眠った。   「おはよ。兄ちゃん」 「おはよう。……眠れたか?」 「うん。バッチリ。兄ちゃんより早く起きちゃった」    奏がカーテンを開けると、既に太陽は昇っていた。昼前ぐらいだろうか。俺の腹の虫が鳴った。    ぐぅ。   「……ふふ。そんな兄ちゃんのために、サンドイッチ作ったんだ。たまごサンドイッチ」 「……お前が? 一人で?」 「うん。買ってきたんじゃないよ。ちゃんと茹でてね」 「……」    台所まだあるかな。不安だ。   「早く顔洗って来て。またあの河川敷行こう。サンドイッチ持って行こう」 「うん……わかった」    無理に笑顔を作っているのだろうか。俺に気取られまいとしているのだろうか。苦手だった料理を一人でするなんて。    奏の心の内を思うと、俺はすぐにでもこの腕のなかにしまっておきたいぐらいだった。         「うーん天気いいー!」    こないだ来た場所とだいたい同じ所へ奏が座る。作ったサンドイッチを使い捨てのパックに入れて、それをコンビニの袋へ入れて持って来ていた。   「朝は寒かったけどポカポカ~」    ガサ、と奏がそれを置いた。奏の左隣に腰を下ろす。   「はい兄ちゃん」 「ありがと」    奏の作ったサンドイッチを受け取り、ラップを剥がしながら口にした。   「……おいしい。手も汚れないようにしてくれてるし。こんなことできたんだな」 「できるよー! 失礼だなぁ」 「はは」 「アレンがね。教えてくれたんだ。これさえ作れれば生きていけるからって」 「……そうなんだ。教え方上手だったんだな」 「……うん」    二人で気持ちの良い外の空気を感じる。それが意外と美味しくて俺がもう一つ手に取ろうとしたら、奏の手がピタリと止まっていた。   「兄ちゃんと違って、俺にいつも好きだって言ってくる奴だった」 「……」 「年上のくせに譲るってことを知らなくて……兄ちゃんとはまるで正反対だったな」 「……奏」    奏からポタリと何かが落ちた。ぽた、ぽた……とそれに続く。   「俺が……解剖したんだ。死因は薬物過剰投与だった」 「……」 「まさか……まさか、自分の一番最初の検体が恋人だなんてさ……誰がそんなこと予想できんだよ……」 「……」    奏の肩をそっと抱いたら、俺に寄り添って続けた。   「うう……好きだった。兄ちゃん以外で、初めて……初めて他人を好きになれた人だったのに」 「うん……」 「クソッ……」 「……」    奏が、人のために流す涙を初めて見た。真上の太陽がそれにキラリと反射して、まるでドラマのワンシーンのように美しかった。その瞬間、俺の中で奇妙な感情がどろどろと湧いていった。そんなに想ってもらえる嫉妬だろうか。それとも、奏をこんな目に遭わせた怒りからだろうか。   「ごめん兄ちゃん。俺先に帰ってる」 「え?」 「俺……ボスに聞きたいことがある。確かめたいことが」 「……ああ。はい、カードキー」 「ありがとう。明日チケット取れたら、向こうに帰るよ」 「……うん」    ずずっと鼻を啜った奏が立ち上がり、残り食べてね。一時間はかかった力作だから。と言って俺に作った笑顔を残して去っていった。   「……おいしい」    奏が食べ残した分も口にした。なにか飲み物買ってくれば良かったと向こうに建ち並ぶ住宅街をぼんやりと見つめる。しばらくそうしていたかもしれない。    好きだった。か。    ふう、とため息をつき身を捩ってゴミを片付けていたら、後ろで、ジャリ。と音がした。   「隣。いいですか?」    俺が振り向いて、俺の返事を待たずにその男は側に座った。   「天気。いいですね」 「……ああ」 「朝はあんなに寒かったのに」 「……」 「ぽかぽか、って言うのかな?」    沈黙の中、ジャッ、ジャッ、とランニングする人が通り過ぎていった。   「……その顔を見たことがある」    そっくりなのではない。なのだ。   「え? ああ。ありきたりな顔をしていますから」 「こないだ死んだと聞いたけど」    奏の携帯の中にいるその顔。   「……ふふ。この顔は、あと三人はいるそうです」 「……俺の弟の前に絶対姿を見せるな」 「弟さんがいるんですね」 「次見たら、殺す」 「わぁ怖い。俺にどれだけの価値があるかわかってます?」 「……知るか」 「ふふ。近くの親戚より遠くの他人ですよね。あれ、なんか違ったっけ?」 「……」    隣の男がわざとらしく首を傾げた。男のポケットの中で鳴った、ヴヴッと振動した携帯を取り出してそれを見る。   「あっ、もう。撒いたと思ったのに。もっとお話したかったんですけど、今日はこれで」 「……」 「またね、お兄さん」    できれば二度と会いたくない。   「……」    男が軽快な足取りで俺の元を離れていった。じっとその後ろ姿を見つめ、はぁ、とため息をつく。    ——DNAの研究をしてたって言ってたな……。   「クローンか……」    意図せず、ふうぅ、と長いため息が漏れた。俺は、奏が要らぬ問題に巻き込まれないようにと、ただただ願うばかりだった。          

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