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第1話
薄い胸を上下させるアンドレイの後ろ頭に頬ずりし、ゼノンは微笑んだ。
「アンドレイはいつもイイ匂いがするね」
白い背中に満足するまで舌を這わせ、ゼノンは言った。それからそっと手を伸ばし、アンドレイの口を優しく塞いだ。
「ああ、それにしても都合のいい誓いなんだ。声を出さなければ幾らでも『淫楽の禁を犯していい』だなんて」
ふんわりした短い金の髪が、愛する男の躰に夢中になっているゼノンの額に張り付く。アンドレイの肌に浮くうっすらした汗が、彼の空色の瞳をますます陶然とさせた。
「ねえ、アンドレイ。好きだよ」
「!」
紅色の目を見開いたアンドレイの耳元で、ゼノンはじらすように囁いた。
「黙ってるなら止めちゃおうかなぁ……」
後ろから抱かれていたアンドレイが、眉根を寄せて振り返る。
美しい顔に抗議の色を認め、ゼノンは満足そうに唇を吊り上げた。
「あ! まだして欲しいんだ?」
「…………」
何かを強請るように、抱かれているアンドレイがうつ伏せのまま首を伸ばした。
ゼノンはいそいそと抱き付き直し、アンドレイの唇に己のそれを重ねる。
二人はしばらく大きな獣同士のように躰をこすりつけ合い、息を乱し、顔を離して見つめ合った。
「アンドレイ」
「…………」
お互いの目に、お互いの欲に蕩けた顔が映っていた。
「僕のこと好き?」
アンドレイが、絹のような銀の髪をかき上げて小さくうなずく。
「あ! 好き?!」
その事実に、純なゼノンは舞い上がる。
「アンドレイ、『啼かずの誓い』を破ってよ!」
敷布を掴んで眉を寄せ、己を睨み付けたアンドレイを見つめ、ゼノンは少しだけ苦い表情で呟いた。
「何だか切ないんだもん。いっつも俺ばっかり騒いで」
首を振るアンドレイの銀髪にそっと頬をうずめ、ゼノンがうっとりとつぶやく。
「聖職者ってつまらないね。こんな時に声を出せないなんて。あの綺麗な声を、こういう時にも聞かせてくれればいいのに……」
なめらかな肌を全身で味わっていたゼノンが、気取った表情のまま苦しげに口の端を吊り上げた。
「あ……ごめんねアンドレイ、僕そろそろダメ」
再び唇をやんわりと塞いだゼノンの指を、アンドレイが甘噛みする。
指に伝わる痛みにゆがんだ笑みで答え、ゼノンが汗を滴らせながら呟いた。
「いいよ、噛んで。もっと噛んで、好きだよ、アンドレイ。好き、凄い好きだよ。僕は君みたいな人を見たのは初めてだったんだ、本当に、好きだよ……」
「あ! アンドレイおはよう! ねえ、昨日良かった?」
金の髪から水を滴らせ、布に腰を撒いただけの姿でゼノンが浴室から飛び出して来る。
アンドレイは鏡の前で上着のボタンを嵌め終え、己の黒い詰襟姿を鏡で確認し、低い声で答えた。
「おはよう、ゼノさん」
あえて、己が昨夜得た快楽にまつわる質問には口をつぐむ。
「おはよう!」
「ゼノさんは、体も洗わずよく眠れますね」
ゼノンが頭をぼりぼり掻いて「眠かったから」と答える。アンドレイはもう一度ニコリともせずにため息をつき、言った。
「体を洗わないなら、寝ているときに抱き付かないでください」
「自動的に抱き着いちゃうんだよね」
そういって、卓の上の果物をぽいと口に入れる。
どうやらそれはゼノンの口に合ったらしく、かごに山盛りだった果実は、次々と摘ままれて彼の腹に消えていった。
「お腹空いた」
「食べながら言われても。街の屋台で何か買ってきたらどうです」
アンドレイがそう言い、長い銀の髪を一つに束ねる。それから、視力を補強するためのメガネをかけた。
「うん、買ってくる」
モグモグと口を動かしながら、ゼノンが素直に頷いた。アンドレイよりも8つ年下の彼は、肌を合わせる時以外は常に従順な姿勢を崩さない。
「じゃあ私も食事をしてきます。服を着なさいね」
「はーい」
無邪気な大きな獣のようなゼノンの様子にアンドレイは苦笑し、夢中で果物を食べている彼に背を向ける。
「軍人さんは食欲旺盛ですね、……朝から晩まで」
呟いたアンドレイの紅色の目には、確かに優しい光が宿っていた。紅色の目も銀の髪もこの国の人間のものではないが、彼の出自はゼノンですら知らないし、彼自身も語ろうとはしない。
アンドレイは、大柄なゼノンと変わらぬほどの長身で、かなりの痩身だ。常に聖職者の黒い詰襟の上着をまとい、どんなに暑くてもそれを脱がない。――誘うような白い肌に、禁欲的な黒の聖衣。その落差に惚れたのだとゼノンはいつも彼に言っている。アンドレイが聞いているのかは定かではなかったが……。
「今日も雨粒一つ落ちて来そうにない、いい天気だ」
そう呟き、アンドレイは小さな石造りの教会から、灼けつくほどに眩しい外に出た。
目の前にはどこまでも続く砂漠に、恵みの雲一つない青い空、それから……彼の住まう『教会』を円状に取り巻く、黒薔薇の茂みが広がっている。
水の乏しいこの『永久砂漠』で、何故にこの黒薔薇はこれほどに生い茂っているのだろう。そして季節を問わずに、こぼれんばかりの花を付け続けるのか……その理由を知る人間はいない。少なくとも、教会の教えでは『不明』とされていた。
昔からこの国では、黒薔薇は魔を避けると言われている。どんな魔も、この黒薔薇の茂みを超えて侵入することは出来ない、と。
もしその言い伝えが本当であるならば、この威圧感ある黒薔薇は、聖なる『教会』を守るのにふさわしい花と言えるだろう。
ただしアンドレイが任されているのは、この国で一番ちっぽけで、オアシスの外側にある貧乏教会だ。魔ですら無視して避けていきそうな、よれよれの小さな建物なのだが。
「本当にこの薔薇、何の世話もしていないのによく咲きますね、枯れもせず」
アンドレイは、手の届く範囲で一番高いところに咲いている黒薔薇をむしった。
「地下水脈から水を吸い上げているんですかね? 原理が良く分からないですが」
彼の白い手の中で、黒薔薇がつややかに輝く。どこか柑橘に似たみずみずしい甘い香りが、深く巻いた花弁の中央から漂い出す。
その甘さに、アンドレイはうっとりと切れ長の紅色の目を細めた。
「いただきます。今日も美味しそうだな」
彼は薄く赤い唇を舐め、躊躇なく大輪の薔薇をその口に押し込んだ。
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