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第2話

「ふぇー、食った、食った、美味かった」  言いながら、よろよろとゼノンが教会に戻って来た。薄手の軽装で、分厚い胸板がはっきりとわかる。24という若さの割に、鍛え上げられた鋼のような肉体だった。 「お帰りなさい」  その姿を一瞥し、アンドレイが表情を変えずに言った。 「ただいま! 今日は焼き麺食べた! 美味しかった」 「貴方、お仕事は? 詰所に行かなくていいんですか」 「うん。うちの軍は週三勤務だから。こんな砂漠に攻めてくるヒマな人は居ないでしょう。おかげでずっとこの教会の見張り番が出来て助かるよ」  どことなく愛らしさを残すゼノンの端正な顔を見つめ、アンドレイは苦笑した。 「何を見張るんです」 「そりゃあ、淫乱な聖職者様を味見しに来る、かつての俺のような不届きものが……痛い! 痛い!!」  容赦なく耳を引っ張られ、ゼノンが悲鳴を上げた。 「ゼノさん、暇なら外の掃除をしてきてください、でかいのにウロウロされると静謐な場が乱れます」 「え、乱れるの? 乱れちゃうの?!」  意味ありげに目を輝かせたゼノンの大きな足を踏みつけ、同じくらいの高さの水色の目を覗き込んで、アンドレイは冷ややかに言った。 「煩い。……さ、外の石畳の砂を念入りに払ってきてくださいね。信者様がいつ来るか分かりませんし」 「砂、取っても取ってもキリがないんだよね……ここ、砂漠だからね……」  ゼノンがそういって、しょんぼりと肩を落として出てゆく。その背中を見送ったアンドレイの紅色の目に、一瞬だけ優し気な光が浮かんだ。 「はぁ、随分と骨抜きになったものだ、この僕が」  それから、言葉にせずに付け加えた。――君は出会った時から変わらない。いつまでこの、甘く幸福な日々を過ごしていられるのだろう、と。 「ん?」  いかめしい鋼の鉄格子の向こうに人影を認め、ゼノンは目の上に手をかざした。  逆光で眩しく、姿が良く見えない。このあたりの砂はガラス質を多く含み、白く光を反射して目を焼くのだ。  『永久砂漠』と名付けられたこの場所は、茫漠とした砂丘が見渡す限りどこまでも続いている。一方、ちょうどゼノンの視線の先には、巨大な泉を擁するオアシスが広がっている。男の足で、小一時間ほどだろうか。瓶の水一本を飲み乾すほどの距離だった。 「誰ですか、信者の方?」  まさかアンドレイ目的でやって来た不届きものでは、と思い、ゼノンはわずかに身構えた。男だろうが女だろうが、アンドレイの美しさに魂を奪われる人間は多いだろう。少なくともゼノン自身はそうだ。今ではあの紅の瞳に抗する心は消え失せ、彼を誰にも渡すものかと思い込んで生きている。  余計な虫は門から先に入れまいと、ゼノンは鉄格子にもたれかかって、やって来た人間を睨み付けた。 「御用は何です」 「…………」  その人物は、教会の黒薔薇の紋を織り込んだマントを羽織っていた。砂除けの布を頭に巻いていて、顔が見えない。そこでようやくゼノンは、その人物が若い女だということに気が付いた。 「こんにちは」  低い声で女がいい、布をむしり取った。淡い金色の髪が零れ落ち、砂混じりの風にのってひらひらと舞う。瞳の色はゼノンによく似た薄い青だった。 「私はドーラと申す、教会の『魔祓い師』です」 「教会の人ですか? アンドレイ……さんの同僚?」 「は? 同僚?」  女……ドーラがどこか険を含んだ表情でゼノンを見上げる。それから取り繕ったように笑顔で続けた。 「え、ええ、そうでした。同僚ですね。今日は彼に教会の用事で参りました。ご開門頂けますか」  黒薔薇の壁に包まれた教会の、唯一の門を指さしてドーラが言う。ゼノンは肩を竦め、内側から閂を開けて、重い門を引いた。 「見事な封印ですね。初めて拝見しました。古代の魔除けの方陣が、完全に格子の意匠に組み込まれている。いかに邪悪な魔であっても、この門を超えることは出来ないでしょう」  鉄格子を一瞥し、ドーラが感心したように呟く。が、ゼノンは宗教的なことにあまり興味がないので、ドーラの言わんとすることはよく分らなかった。  この砂漠の国は、他国に比べて宗教関係者が異常に多い。国から出た事がないゼノンは知らないが、宗教関係者と、それを支える人々だけで社会階層が成り立っている国だ、と言われているのだ。ドーラやアンドレイもまた、その構成員の一人なのだろう。 「なるほど」  巨大な黒薔薇の生け垣を眺めていたドーラが、感心したようにため息をついた。 「素晴らしい黒薔薇です。これほどの黒薔薇は見た事がありません。なんという香気、神の恵みに心が洗われるようですね」 「そうっすね」  ドーラの感慨は、やはりゼノンには良く分からない。ただ、『早く帰れ』とだけ思った。若い女がアンドレイに近づくのは、正直なところ、ゼノンにとっては非常に面白くない。 「アンドレイ殿は、貴方の何ですか」 「え」  ――恋人だけど、それが何か。ドーラの問いにそう応えようとしてゼノンは口をつぐんだ。聖職者の恋愛は、歓迎されない。少なくとも、表ざたにすることは禁忌に近く、同性同士であればなおの事伏せねばならぬ話だった。 「ともだち、ですけど」 「友達?! 彼、とですか。ふうん。変わり者で、流れ者の教父と聞きましたが」  ドーラが乾いた声でそう応えを返し、ぷいとゼノンに背を向けた。 「なんですか」 「いえ、お気をつけて」 「何がです? 何に気を付けろって?」  首を傾げ、ゼノンはドーラに問うた。――アンドレイの躰に狂うな、と言っているのだろうか、それならば無理だ。内心そう思ったが、どうもそんな雰囲気ではない。ドーラは小さく首を振り、続きを語らなかった。  そのとき突然、ドーラが教会の入り口で足を止めた。怯えたように背後を振り返り、黒薔薇の生け垣を見回す。そしてもう一度ボロボロの小さな教会に目をやった。  その態度を、ゼノンは不審に思った。ついさっきまで偉そうだった教会の女が、何を怖がっているのだろう、と。 「どうしたんですか」 「い、いいえ……今日はここで、帰ります……」 「入らないんですか? 水くらいなら出しますよ」  だが、ドーラは何も応えず、教会の壁の古びた黒薔薇紋をじっと見上げているだけだった。暑さでほんのりと赤みを帯びていた顔は、今や蒼白に変わっている。 「い、いえ、結構です。もう、……失礼します」  言うなり、唐突にドーラが踵を返した。細い腕で巨大な門扉を引き、転がるような勢いで砂漠の向こうのオアシスへと去ってゆく。何が起きたのかわからず、ゼノンはぽかんとしながらその背中を見送った。 「あの人、何をしに来たんだろう……?」  しばらく首を傾げ、それから首を回して、ふと気づいたように手を打つ。ちょうど、間食をする頃合いだった。 「そうだ、おやつを持って行ってあげようっと」  ゼノンは黒薔薇の生垣に近づくと、無造作に咲き乱れる黒薔薇の花をいくつか毟り取った。蕾は次から次へと付くので、花が無くなる心配はしなくて済みそうだ。 「おーい、アンドレイ、掃除終ったよ」  黒薔薇の花しか食べない恋人の『おやつの支度』を終え、ゼノンは満足して教会の扉を押した。  ――訳の分からない女の訪問については、特に告げる必要はないだろう。そう思いながら。

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