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後日談:2
海峡を見下ろす丘の家には、大きな薔薇の生け垣がある。
様々な色の薔薇が、四季の間絶えることなく咲き続ける、不思議な美しい庭。その庭で、長い銀の髪をした青年が花の手入れをしていた。
「ああ、もうこんな時間だ」
大きなつばの麦わら帽子をかぶった美しい青年は、我に返ったように手拭いで汗を拭った。花の色素を漉き込んだがごとき紅い瞳が、強い午後の光を受けて宝玉のように輝く。
青年が長い脚で、細やかに手入れされた庭を横切る。そして、大きな封筒を手に、家を出て坂を下り始めた。
彼が手にしているのは、頼まれていた雑誌社の記事だ。文芸誌に、歴史についてつづったエッセイを送らねばならない。彼の書く記事は、まるで「過去を見てきたかのようだ」と評判だった。700年前から生きている彼にとっては、実際に見てきたものに他ならないのだが……。
ポストに封筒を押し込み、彼はあたりを見回す。この港町も、かつて彼が翼神教の教父だったころは、寂れた貧民街だったのだ。だが今は、車の行き交うにぎやかな高級避暑地となっている。そして、その翼神教もすたれて久しい。
「夕飯、何にしようかな。自分は食べないから良く分からないんですよね……」
彼は独り言ち、そのままショッピングモールへと足を運ぶ。恋人の為の食卓を整えようと考え、淡い微笑みを浮かべて彼は人込みを縫うように進んでゆく。すれ違った人々はみな、夢見るように美しい銀の髪の男を次々に振り返った。
「買い物、僕が行くのに」
砂だらけになって帰ってきたゼノンがそう言って、卓の上に盛られた果実を一つ手に取り、白い歯を立てた。
「いいんです、郵便を出すついでですから……ゼノさん、砂は外で払ってきてください」
「払ったよ?」
「払っていません、ほら、ラグに落ちているじゃないですか、砂……」
神経質に眉を顰めて周りをうろうろする恋人の腕をつかみ、ゼノンが座ったまま大きな体を伸ばして、赤い唇に己のそれを押し付けた。
「んっ……」
アンドレイは、わずかに嫌な顔をした。だが、顔を背けようとはしなかった。
「一人でショッピングモールなんて行かないでよ」
ほんの少しだけ顔を離したゼノンが、囁くように言う。日に焼けることを知らぬ白い肌をわずかに染め、アンドレイが怒りの表情を作って言い返した。
「な、何でです、良いでしょう、私がどこに行こうが、私の、自、ゆう……」
再び唇を重ねられ、アンドレイが紅の瞳をそっと閉ざす。ゼノンが満足そうに、日に焼けた腕で恋人の背を抱いた。
「君はわかってないね、自分の事を。僕は君をどこかに閉じ込めたくてたまらない」
ゼノンの空色の瞳が虚空をさまよい、そっと閉ざされた。
「そうだ。最近気づいたんだけど、僕さぁ、昔から君を知っていたような気がするんだ」
「え?」
ゼノンに抱き付かれたアンドレイが、顔を上げた。きらめく銀の髪に顔をうずめたまま、ゼノンが話をつづけた。
「何だか僕、長生きしてるお爺さんみたいな気分になるんだよね。君を見ていると……最近出会ったのに、ずっと一緒に居たみたいだよ」
恋人のつぶやきを聞いたアンドレイは、かすかに美しい眉をひそめた。それから何かを振り切るように背を反らせ、今度は自分から口づけをし、冷たい声で言った。
「ゼノさん、妙な口説きは結構です」
「口説きじゃないんだけど……」
「砂を……外で払ってきてください。それからラグと外の小路を掃除して」
「えぇ? 大きくなったのに、ほら、大きい」
アンドレイが何か言いたげなゼノンから体を離し、壁庭に立てかけられていた箒を突き出した。
「掃除してください。私、嫌なんですよ、家に砂が入るのは……!」
美しい恋人の頑固さをよく知っているゼノンは、諦めてため息をつく。そして片手を挙げ、その命令に従った。
「降参します、アンドレイ様」
ずっと一緒に居たみたいだよ。その言葉が、アンドレイの頭の中をぐるぐる回っている。一年前に出会ったゼノン青年は、かつての思い人に瓜二つ、声もそっくりの若い男だった。歳は、23歳だという。大学を出て、考古学の仕事に就き、ひたすら砂漠でオアシスの遺跡を掘り返すのが習いなのだと言っていた。
かつてアンドレイが愛し、今も変わらず愛しているゼノンの墓は、オアシスの廃墟にある筈だ。もう、砂に飲まれて、どこにあるのかわからない。傷つき折れた心を抱えたアンドレイが百年ほど眠っている間に、墓は失われていた。そして、取り戻すことも出来なかった……。
「怒って……お墓から出てきたんでしょうかね」
そう呟いて、アンドレイは先ほどから汗を手の甲で拭った。今、この家で鼻歌を歌っているゼノンは、誰なのだろう。
アンドレイの元に還って来た魂なのか、それとも、そう思いこみたい自分が、都合のいい夢をあのゼノンに重ねているのか。わからない。それはだれにも、分からない事だった。
窓の外を覗き込むアンドレイの目に、大きな背中が映った。鼻歌を歌いながら、門から家への短い道を掃き清めている。かつて砂漠の教会で、門から続く小さな石畳の道を清めていた姿と、寸分変わらないように彼には思えた。
もしゼノンが、かつて生き別れた恋人ではないとしたら……今更この生活を投げ出し、今ある気持ちはなかったことになるのだろうか。アンドレイには、もうわからなかった。長い孤独で入った心の罅は、痛みを和らげる甘い蜜で埋め尽くされている。
「…………」
大雑把に箒を動かす男を見つめ、アンドレイはわずかに紅の瞳を細めた。そろそろゼノンに声をかけ、夕飯を取らせよう、と思った。昔ゼノンが好きだったものは、今の彼も概ね好きなようだ。再会してすぐの頃は、祈るように彼の好物を作り様子を伺ってきたアンドレイだったが、今は『彼は何でも喜んで、かつ大量に食べる』という結論を得ていた。
「ゼノさん」
「なーに」
のんびりと返事をしてゼノンが振り返った。空色の瞳が、夕暮れ時の薄暗い空の下で、水をたたえたように光っている。
「夕飯ですよ」
その言葉と同時に、ゼノンが笑顔を浮かべる。
「じゃ、僕は薔薇を摘んでくる。君の夕ご飯」
アンドレイの義父がかつて植え、数百年の時を生きる多色咲きの薔薇を指さして、ゼノンはそう言った。
「ゼノさん。歌っていると、顔を切ってしまいますよ……」
アンドレイが濡れたゼノンの頬に剃刀を滑らせながら言った。理由はないが、髪を切るのも髭を剃るのも、アンドレイの役割だ。放っておくとどんな仕上がりになるかわからないと文句を言いつつ、彼はゼノンの世話を焼くのを止めない。
大人しいゼノンは、されるがままに椅子に腰かけて、眠そうな顔で鼻歌を歌っていた。
「ほら、静かにして。貴方、わたしに怒られたくてわざと歌っているんですか」
「違うよ」
ゼノンが眠そうな笑顔のままでそう言い、表情を緩めた。
「あ、思い出した」
再び慎重に剃刀を当て始めた恋人に身を預けたまま、ゼノンが歌いだす。その旋律が形を成し始めるにつれ、アンドレイの細やかに動いていた指が力を失ってゆく。
「ゼノさん……」
ゼノンの低くつやのある声が、懐かしい、懐かしい歌を歌っていた。
――……冷たくても本当は優しい人、その美しい銀の髪は月の光を梳いたよう。君たちのような存在を、私は知らない。
アンドレイの指先から剃刀が滑り落ち、木の床で軽い音を立てる。泡の付いた顔のまま、ゼノンがアンドレイの引き締まった胸にふわふわした金の髪を預けた。
窓の外からは淡い月の光、そして部屋の中は橙色の灯りがともっている。薄闇に包まれた部屋の中で歌がふいに止み、ゼノンの空色の瞳がぱちりと開いた。
「ね、これしか思い出せなかったけど、どう?」
ゼノンが涙ぐんでいる恋人を見上げた。日に焼けた頬に、アンドレイの涙が何粒も落ちる。
「いい歌でしょ」
「え、え……」
アンドレイは頷いて、恋人の頭を抱きしめた。
「ええ、良い歌です、その歌の楽譜は、随分前にダメになってしまったんですけどね」
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