17 / 18
後日談:1
ゼノンの日に焼けた喉から、かすれた善がり声が漏れ出す。夕方の冷気を含んだ風が透かし柄のカーテンを揺らし、彼のひたいに滲む汗をほんのりと冷やした。
「あ、あの、会って間もないのに……っ、こんなっ、僕……あ!」
ゼノンがたくましい体をたわめ、脚の間にある長い銀の髪を掴んだ。力を込め過ぎたと気づいたかのように、慌てて力を緩める。
「気持ちいい?」
小さな声で、銀の髪の男がいう。その吐息が立ち上がったものに触れるだけで、ゼノンの若々しい体は情欲を吐き出さんと小刻みに震えた。
「あ、い、いいです、けどっ……もう、出そ……んっ……」
「いいですよ、口に……」
「だめです、恥ずかし……ーーーッ!」
ゼノンのたくましい指が再び銀の髪に潜り込む。
「だ、ダメで……そんな奥まで、咥え…ッ、あ、あっ!」
熱射病の若い男と、付き添いのその兄を救護室に運んだことが、この美しい人との出会いだった。
宝玉のような紅の瞳に微笑みかけられた瞬間に、平穏な砂堀り男の日々は崩れ去り、ゼノンはただの恋する幼い獣に成り果てた。
あの日からそれほど時は経っていない。彼の、アンドレイの巧みな舌に狂わされたゼノンが、涙と汗にまみれて果てるのは何度目だろう。彼の形の良い鎖骨から、汗が幾筋も流れ落ちた。
瀟洒な室内に、再び風が吹き込んだ。窓の外に声を漏らすまいと、ゼノンは必死に唇に歯を立てた。
「あの、好きです、好き……、僕、会った、ばっかりなのに、すきなんて、……僕、どうかしてる……アンドレイ、さん……」
ゼノンの怒張を嬲るアンドレイの口元が一瞬だけ緩む。若い男の甘い悲鳴が、夜の街にわずかに漏れ、風に溶けて消えた。
「仲間はずれになったので、僕はお城を買って庭中を薔薇だらけにします」
イノツェンツィはそう言って、最近蒐集し始めた洒落た帽子を一つ取り上げ、形の良い頭に乗せた。
「その薔薇を心ゆくまで食べて、毎日酔っ払って過ごしますからね。兄さんと、兄さんの彼氏になんか分けてあげない。兄さんを取られて寂しいです」
「イノ」
新しい恋人を数百年ぶりに得た彼の兄は、その言葉に紅の瞳を曇らせた。
「別に、お前を仲間はずれになんて」
「されてます」
イノツェンツィの白金の髪が、キラキラと光をまといながら純銀の色に変わる。
「さて、魚でも食べてこようかな。兄さんはゼノン殿と楽しく過ごしてください」
「イノ!」
呼び止められたイノツェンツィが、玄関の枠に指を掛けたまま、振り向かずに言った。
「父さんは毎日祈っていた。悲しい魔人たちが、いつか幸せに暮らせる日が来ればいいって。母さんにはもっと長生きして、幸せで居て欲しかったし、兄さんにも、迫害の心なんか持たない人々の姿を見せてやりたかったって……でももう、父さんの祈りは成就したのですね。兄さんは、やっと幸せになったんだと思います」
言葉を失ったアンドレイをゆっくりと振り返り、イノツェンツィは父にそっくりの優しい声で言った。
「これからは、短い道行じんせいを愛する人と共に添って往けるんです。おめでとう、兄さん……ああ、そうだ、ゼノンさん!」
「は、はい」
紅に変わった瞳で、イノツェンツィは兄の恋人を見つめる。
「兄さんの好きな薔薇、切らさないでくださいね。偏食でそれしか食べないんですから」
ゼノンは、何も尋ね返さずに頷いた。
花しか喰わぬと言い切る兄に、自在に目と髪の色を変え、魔人と人を行き来して見せる弟。そんな不思議な兄弟に対してゼノンは泰然と構えるのみだった。不思議に思うことなど何もないと言わんばかりに。
「わかりました、がんばって薔薇苗の世話します。アンドレイにお腹いっぱい、食べてもらいます」
ゼノンが頭を掻いて、恥ずかしそうに言う。
「そう……」
イノツェンツィは、その言葉に頷いた。
若くして亡くなり、彼の兄を長く苦しめてきた魂は、長い時を経てその償いに戻ってきたのだろう。イノツェンツィはようやくそう納得し、空色の瞳に微笑みかけた。
「ゼノンさん。うちの兄さんはヤキモチ焼きなので気をつけて下さい。浮気なんかしたら、間違いなく食いちぎられますからね」
「あっ、帽子!」
アンドレイは、机の上に起きっぱなしだった汚れた帽子を手に、家を飛び出す。なぜゼノンは、何度言っても忘れ物をするのか。ぼんやりしたところはまるで変わっていない、何百年経っても……。
一瞬、砂だらけの帽子に顔をうずめて滲んだ涙を隠し、表情を改めて、アンドレイは目の前の坂を駆け下りた。
その先には広がる海と、船で砂漠に発掘に向かおうとする、ゼノンの大柄な姿が見える。ふわふわした金髪は日の下に晒され、帽子をかぶっていないことなど完全に忘れている様子だった。
「ゼノさん!」
アンドレイは声を張り上げ、帽子を振った。振り返って笑顔を浮かべた恋人に、彼は大声で呼びかけた。
「帽子を忘れています。あなた、頭が焼け焦げますよ!」
ともだちにシェアしよう!