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第16話

 アンドレイは、見渡す限りの砂漠の白さに目をすがめる。かつてはオアシスの国だった場所は白砂に飲まれ、その名残すら残っていない。 「いい天気ですね、おっと、最近は日焼けにも気をつけないとダメなんでしたね」  傍に立つイノツェンツィが、麦わら帽子をかぶってひらりと船を飛び降りる。アンドレイは手すりに身を預けたまま、弟のすることを見守っていた。 「あれ、降りないんですか?」 「降りますよ、飛び降りはしませんけどね」  そう応じて、彼はゆっくりとタラップに足を掛ける。遠い昔と変わらない焼け付く日差し、かつて彼が過ごした頃と変わらぬ、雲ひとつない酷なほどの晴天。目を焼く光から逃れる為に、アンドレイはサングラスを懐から取り出して、紅の瞳を遮光硝子の下に隠した。 「もう、あの黒薔薇も残っていませんね、きっと」  イノツェンツィが明るい声で言う。アンドレイは表情を変えずに、観光用の歩道に踏み出した。  ……遠い昔、アンドレイはここで一つの恋をした。この砂漠に、オアシスの国があった頃の話だ。  彼の傍に在ったのは、砂漠に広がる空そっくりの青い瞳をした、純朴でおおらかな男だった。  時が経ち、人と違う時を生きるアンドレイの側から彼は去って行った。明日は君が食べるための新しい薔薇を植えようかな、明るい声でそう言って眠りにつき、二度と目を開けなかった。  アンドレイの心には、今もその表情が残っている。安らかな、子供の寝顔のようなゼノンの表情が。  あと三十年……いや、せめて二十年は残されているだろうと思っていた時間は無情にも断ち切られ、恐れていた孤独にアンドレイは放り出された。  『僕は、君の一番大きな悲しみになる』  心結ばれた日のゼノンの言葉は、最後の日に真実になったのだ。 「世界一周、楽しかったでしょう」  日頃、あえてアンドレイの苦しみに触れようとしないイノツェンツィが、笑顔でアンドレイを振り返る。 「そうですね。まあまあでした」 「父さんの薔薇、株分けしておいてよかった。こんなに枯死病が広がるなんて怖いですね」  イノツェンツィがそう言って、どこか無邪気なしぐさで砂漠に足を踏み入れる。かつて教王と呼ばれた威厳は、楽しげな美貌のどこにも見当たらない。……彼もまた、己がなすべきことを終えたのだろう。少なくとも、なにがしかの満足を得ての今であることは、間違いない表情だった。 「ああ、寝ていた兄さんを起こして良かった。二人で旅をするのは本当に楽しい」  アンドレイはサングラスの下でかすかに目を見開き、痛みを飲み込んだのちに優しい声で返事をした。 「うん、楽しいよ。おかげでいい気晴らしになる」 「私、教王を退く時に頂いたお金のおかげで、大富豪ですからね。次は船を買おうかな。兄さんは何を買いますか。お城?」  言いながら、イノツェンツィがザクザクと砂を漕いで進んでゆく。好奇心旺盛な彼は、離れたところにある遺跡のようなものを目指しているようだった。 「全く……」  弟の無邪気さに、アンドレイは苦笑する。  遠い昔、まだ母がいた頃、ここは広い森だった。針葉樹の森が病で枯れ、人々はそれを、呪われた紅い瞳の魔人のせいだと言い、アンドレイたちの住む家を囲んだこともあった。  ――お前が犠牲になどならなくていい、恐慌に陥った人々に囚われ、鎌で脅しつけられながらもそう言い切った義父ヴィクトルの涙が、にいさん、にいさんと自分を呼び続け、泣きさけんでいた幼いイノツェンツィの姿が蘇る。 「いろんなことが、ここでありましたね……」  アンドレイは、そっと瞑目する。この砂漠に広がる空を見れば、同じ色の瞳を思い出してしまう。痛みは、未だに変わらぬ鮮やかな痛みのままだった。  亡き母を、亡き義父を悼む心を圧して、彼の心にただ一つの恋が蘇る。  ――共に在ったころは、この手で彼の髭を剃った。この手で彼の髪を切った。変わり映えのしない穏やかな毎日の積み重ねや、大柄な男の笑顔や体温を、アンドレイは何も忘れていない。何百という年を重ねても、何ひとつ忘れられない。  痛みをやり過ごす長い眠りも、ただ一人、長き定めを分かち合う弟と過ごす幸せな日々も、この痛みを鎮める助けにはならなかったのだとアンドレイは改めて実感した。ゼノンの事が、ひたすらに恋しい……。 「兄さん!」  イノツェンツィが振り返り、ブンブン手を振った。 「そういえば、僕らの長命の定めもそろそろ終わるんでしたね!」 「ああ」  頷いて、アンドレイは手の甲を見つめる。真っ白でロウのようだった肌に、かすかな染みがひとつ浮いていた。時の流れが、ようやく己の身の上に恵みを垂れてくれたのだと、彼は思った。これからは、人と同じように老い、人と同じように、天へ帰るのだろう……。 「兄さーん」 「何?」 「やはり最近、普通の人間になってしまったせいか、僕、喉が乾いて倒れそうです」  そう言って、イノツェンツィが砂の上にパタリと倒れる。アンドレイは慌てて、気ままで頼りない弟のそばに駆け寄った。 「イノ! お前、もう倒れてるよ!」 「ゼノン君」 「はい」 「君ね、今日は間違えないでくれよ。砂礫の教会の発掘場所から古文書の貯蔵庫を発掘するんだからな。台所を掘り出したって支援金は支払われない。僕たちは過去の文化を」 「はーい!」  ゼノンは上司の言葉に生返事をして、船から飛び降りる。  この砂漠での発掘作業が、ゼノンは好きだった。暑いところの作業は人気がないが、苦手極まりない女性につきまとわれずに済むのがいい。  いや、突き詰めて考えてみると、そんなものはただの理由だった。彼はこの広い砂漠を掘り返したい。そして何かを見つけたいのだ。きっとそれが、かつてのオアシスの国の遺跡なのだろう。それ以外に何があるというのだろうか……。  大量の荷物を背負わされ、ブンブン手を振りながらゼノンは歩道を歩いた。だが途中、ふと足を止める。 「……ん? 熱射病の人かな」  痩せた二人の男が、砂漠の観光用の歩道をよろよろと歩いてくるのが見えた。  背負っている方が、ぐったりと背負われている方を叱りつけているようだ。なかなか好みの感じの男だなと思い、ゼノンは慌てて気を引き締める。 「おーい! 大丈夫ですか!」  己の声に顔を上げた男の顔を見て、ゼノンの手からスコップが転がり落ちた。  何という美しい、紅の瞳だろう。これほどに純粋な紅い色の瞳を、ゼノンは見たことが……。 「すみません、弟がはしゃぎすぎて、この暑さで引っくり返って」  氷のように美しい、紅の瞳の男が言いかけて言葉を飲み込む。太陽に熱された砂が風に巻かれ、二人の間を吹き去った。  アンドレイ、僕は君の中で、最も大きな悲しみになっちゃった。だけど傷つけたいわけじゃなかったんだ、ごめんね。

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