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第15話

「砂礫の魔人……」 「そうですよ」  アンドレイはそういって、つとゼノンから目を逸らした。紅の瞳に、壁の灯りが揺らめいて踊る。アンドレイの動揺を撃つくすように、安い灯りの芯がじり、という音を立てて焼ききれた。一段暗くなった部屋で、ゼノンは身動きもせずにアンドレイを見つめていた。 「あの、こわい魔人?」 「怖い魔人ではないんですけどね、ただの長命で、少し人と違うだけの種族ですよ……濡れ衣を着せられて、百年以上封じられてましたけどね」  アンドレイはそういって、じっと彼を見つめているゼノンに背を向けた。息苦しそうに聖職者の長衣を脱ぎすて、彼は作り声にしか聞こえない明るい声で続けた。 「だって、そうでしょう? 花しか食べない男ですよ?」 「うん……」 「そんな人間、貴方のそばに居ないでしょう?」 「いないけど……」  困ったように言いながら、ゼノンはごそごそと立ち上がった。身支度を終えてゆっくりと腕を上げ、薄着になったアンドレイのしなやかな背中に、ゼノンは鍛え上げた分厚い体を押し付けた。 「俺はいいよ?」 「え……」 「俺はいいよ、アンドレイが何者でも」  ゼノンの声は静かで、晴れやかだった。いつもの様にアンドレイの首筋に鼻を押し付け、甘くかすれた声で囁いた。 「ねえ、長生きするの?」 「ええ」 「百年くらい?」 「そうですね、もっと、でしょうね」  アンドレイが恐る恐る手を伸ばし、己を抱きしめるたくましい腕に、おずおずと触れた。 「おそらくはもっと長く生きて、ずっと変わらない若さのままだと思います。貴方と違う時間を、ずっと生きていくでしょう。今、私たちが居る場所は、ただの、時間の交差点……」 「時間の交差点? そうなんだ。格好いいね」 「ゼノ、さ……」  ゼノンの手の甲に、ぽたぽたと涙が落ちた。初めて彼の肌が知ったアンドレイの悲しみの涙。だがゼノンは、彼の顔を覗き込もうとはせず、首筋に顔をうずめて動かなかった。 「僕、絶対にアンドレイから離れないんだ」 「ゼノ、さ……」 「アンドレイがどんな人か、本当はよく分からないんだけれど……僕、離れないよ」 「駄目です、このまま居ても多分、どちらも幸せには……」  アンドレイの指に、ゼノンの腕を振り払わんと力がこもる。だがゼノンは、汗に濡れた体をますます押し付けて、恋しい人の体を離さなかった。 「じゃあ僕、これから、君の悲しみのなかで、一番大きなものになる」  砂漠の蟻地獄のようにさらさらと地の底へ吸い込まれてゆくような、底知れない静かな声でゼノンは言った。 「僕は、居なくなった後も、アンドレイにとって一生忘れられない人になるね。ああ、そういうの、嬉しいな」  そのとき、アンドレイは初めて知った。何も知ろうとしない、何も尋ねないゼノンの本当の意図を。たとえアンドレイがひとの姿をした怪物であろうとも、ゼノンは何も見ず、聞かぬまま、生涯寄り添うつもりで居たのだということを。彼の心の内にもまた、化け物と呼ぶべき恐ろしい意思が存在していたのだ。その化け物の、なんと美しく暖かく、残酷な事だろう……。 「なんということを」  アンドレイは一つしゃくりあげ、厳しい声で言った。 「甘い、ですよ……あなたは! 時の流れの重さなんて何も知ってはいないんだ」  だが、アンドレイの白い指はゼノンの腕にしがみついていた。痣を残すほどに強く、蔦のように周到に彼に絡みつこうとしていた。 「知らない」 「私は、嫌ですよ」 「知らない」  ゼノンが子供のように繰り返し、アンドレイの首筋にゆっくりを舌を這わせた。それから絹のような髪に頬ずりをし、やさしい声で囁いた。 「僕ね、どこに居ても、何をしても間違ってる人間なんだって。釘を打てないし、猫しか友達が居ない。だって男の子の友達を好きになっちゃうんだもんね。だからいつも誰からも仲間はずれなの。でも、これからも仲間はずれのまま、幸せになりたい」  アンドレイはそっと目をつぶった。母と二人、長く生きる怪しげな親子として石つぶてを投げられ、人々の悪意の下で疲弊し続けていたこと。人間たちの『仲間外れ』として、穢れた性のはけ口として生かされていたこと。あの日、『聖者ヴィクトル』が現れて、母と自分を連れ出してくれたこと……。忘れたはずの過去が彼の内から溢れだし、紅の瞳から涙となって溢れた。 「森、が……」 「え?」 「このあたりの森が枯れたのは、この地が砂漠になったのは、私のせいではありません」 「何の話?」  ゼノンの言葉に、アンドレイは震える声で告げた。 「『砂礫の魔人』などというのは、教会が人々の不満のはけ口を作るために作った嘘です。森は、木の疫病で枯れました。私はただの、無力な怪物です……」  そう言って、アンドレイはゼノンに向き直り、そのがっしりとした首筋に泣き顔を隠した。 「こんな化け物を選んでしまったこと……後悔しても知りませんから」 「うん」  嬉しそうにゼノンがいい、アンドレイの背を強く抱きしめた。 「独り占めだ、嬉しいな」 「おいしい」  美しい頬を含まらせ、長い白金の髪を無造作に縛り上げたイノツェンツィが黒い薔薇を頬張った。黒の大輪の中に、白や赤、桃色の花が混じり始めている。 「父さんは薔薇苗を植える達人でしたからね」  亡き父を偲ぶように、その父にそっくりの緑の瞳を細めて、イノツェンツィは呟いた。この薔薇は、長き魔人の眠りについた『アンドレイ』のために父がかつて植えた薔薇。  人間ではない妻が残した、血のつながらぬ息子アンドレイを守り切れなかった事を悔い、せめて目覚めたときに腹いっぱい花を食べられるようにと植えた薔薇だった。 「ああ、おいしい。私もいっそ、魔人の生を選んで花だけ食べて過ごそうかな」  イノツェンツィは、かつてこの地に暮らしていた、長命の魔人の息子だった。  人に抗う力を持たず、母子2人を残して絶えようとしていた紅の瞳の一族。  当時まだ若かった教父のヴィクトルは、迫害される彼らに何らかの強い同情を覚えたのだろう。娼婦として鎖につながれていた母子を手荒な手段で救いだし、この小さな教会に連れてきたのだという。  そして時が経ち、ヴィクトルは紅の瞳の女と夫婦になった。長く続いた虐待で余命わずかであった母親は、イノツェンツィを産んでしばらくして儚くなり、彼は父と兄に育てられた。 「ああ、花を食べ過ぎた……」  とろりとした酩酊感を感じ、イノツェンツィは濡れた砂の上に転がった。汚れて帰れば、また人々が大騒ぎをするだろうが、知った事ではない。いっそのこと教王の座など捨てて、兄とともにさすらいの旅に出も出ようかと考え、疲れたようにため息を吐く。 「……いえ、私は父さんの遺志を継いで、迫害される人外の者たちを守らねばなりません、でした……。酔っぱらっている場合ではない……のです」  森が枯れた責は、怪物の自分が取ればいいと言った、兄の消え入りそうな表情を思い出す。イノツェンツィは目をつぶり、全てのやるせなさをため息と同時に押し出した。父の書いた楽譜を胸に抱きしめ、長き眠りに就こうとする兄の悲しげな表情が彼の眼裏まなうらを過って、流れ星のような尾を引いて消えた。

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