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第20話

 目を覚ますと、朝日が不愉快に歪み、俺の瞼をこじ開けた。空は――きっと、青いのだろう。なぜか俺の目には空が灰色に映り、太陽の光に至っては狂ったテレビのように虹色に淀んでいる。  一晩中――オジサンに愛された。場所がビジネスホテルだったから、血しぶきが飛び散るような行為はされなかったが、十分に俺の体の限界は超えていた。起きてから、体がひどく重く、下半身が痛む。疲弊した精神は俺の視覚を歪めて、ろくに前が見えない。 「翼――いこうか。翼の分の新幹線のチケットもとってあるよ。一緒に東京へ帰ろう」 「……はい」  服を着ながら、俺は窓の外を眺めた。数年間すごした町が、写真のようにそこにある。何も――この町に未練などない。どこへ行こうと、俺は俺であって変わらない。永遠に飛ぶことのできない、そんな人間なのだ。 「……、」  服を着終わったとき、ちょうどスマートフォンに着信が入る。特に相手に心当たりのない俺は、思わず眉を顰めた。和泉さんではないし、ブレッザマリーナのボーイともプライベートで連絡を取るほどの仲ではない。白柳さんは着信拒否しているし――…… 「……え?」   スマートフォンを手にとって、画面に映った名前を見て、俺は思わず声をあげる。 「……梓乃くん?」  ――超一般人大学生・梓乃くん。画面に映ったのは、俺が気まぐれに仲良くしていた梓乃くんだ。しかし、俺は彼から連絡をもらう意味を全く理解できなかった。彼にとって俺は、おそらく「変な人」であり、友人とかそういったくくりには入らない。ものを借りていたとか、そういったこともないので、彼から連絡をもらう心当たりがなかったのだ。  ――まあ、梓乃くんからの電話なら、受けてもいいだろう。彼はどこまでも無害だ。俺に何一つ、影響を与えることなんてない。  丁度おじさんが洗面所へ行ったので、俺はこの世への別れのような気分で、応答ボタンをタップした。あのゆるっとした声が聞こえてくるんだろうな――そう思っていると、突然。 『――おいおまえ、払うもん払ってから出て行けよ』 「……はいっ?」 『光熱費! おまえが俺の家に居候なんてするから、今月の俺んちの光熱費やばいんだよ! 半分くらいだせ! 出ていくのはそれからにしろ!』 「――……」  ……嘘だろ。  明らかに梓乃くんではない声、口調。相手が誰なのか気付いた俺は、唖然とした。  ――白柳さんだ。 「……タイミング読めよ。俺、今、レイプされてメンタルずたずたなんですけど」 『ほう? 悪いが俺は心療内科は専門外だ。傷あるなら診てやるけど』 「そういう話じゃねえよ! 何のんきに光熱費の話してんだっての! 俺は今――」 『――だめだよーセラ。お金のことはちゃんとしないと』 「――あ? ……って梓乃くん? 急に交代しないでよ! えっ、何? ってかなんで梓乃くんと白柳さんが一緒にいるの?」 『だって白柳さんがセラに着拒されたっていうから。俺が電話貨したの』 「……、」  ……わけがわからない。俺は白柳という男の空気の読めなさに混乱していた。  着信拒否されたから梓乃くんの電話を借りて電話してきた? しかも会いたいとか言ってくれるわけじゃなくて「光熱費だせ」? 別れ際の俺の言葉聞いてるんだよね? それで第一声がそれなの? あいつ馬鹿なの? だからモテないんだよ!  呆れと驚きに俺が固まっていると、電話口からシャッターを下ろすような口調で一言、 『今日の十時までに一万持って俺の家に来い。遅れたら利息つくからな。じゃ』 「はっ? ちょっと――……」 『ま、来るか来ないかはおまえが決めろ――翼』 「……っ、白柳さん、」  ぶつ、と音がして電話が切られる。俺は衝撃のあまりしばらく動けないでいた。ぽかんとしながらスマートフォンを見つめ惚けていると、洗面所から戻ってきたオジサンが「どうした、翼」と声をかけてくる。俺はその「翼」という響きに違和感を覚えて――ふいに、思う。  白柳さんと梓乃くんの会話のせいで、また普通の世界を垣間見てしまった。二度と憧れないと思っていたのに、あの二人は強制的にそれを見せてきた。すごく残酷なことをしてくれるな、と思う。だって――また、あの世界へ行きたいと、思ってしまったから。  白柳さんの「翼」が好きだ。彼にその名を呼んでほしい。電話口の声を聴いて、そう思ったのだ。 「……翼?」 「……」  あんな風に別れたのに。そして、「レイプされた」とまで言ったのに。助けにきてくれるわけでもなく、白柳は俺に戻るか戻らないかを選ばせた。もし、俺が身動きも取れないように監禁されていて、足を引っこ抜かれるような拷問を受けていたらどうするつもりだったのだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。実際に俺は、白柳のもとに行くか行かないかを選べる状況にあるのだ。 「どうした翼、ぼーっとして」  二度と光の見えない奈落へ行く、最後のチャンス。それがここにある。翼をもがれ、一生空を仰がないでいられたのなら、俺は幸福を望むことなくいつの間にか死ぬ、そんな楽な人生を送れるだろう。俺は、そこへ堕ちたい。オジサンに、俺を人間でないようにしてほしい。そう思っている。けれど。  白柳さんが、俺に選ばせた――それが妙に眩い。あいつは――憎たらしいことに、わかっているのだ。「俺が白柳さんのもとへ行きたい」と思っていることを。そして、敢えて自ら俺を捕まえようとしない。  あいつは――俺に翼があると、知っていた。飛びたてると、信じていた。 「――翼!」  俺は走った。トランクケースは捨て置いて、手に握ったスマートフォンだけを持ってオジサンを押しのけて部屋を飛び出した。  ――なんだよ白柳! 俺は今、ひどいことをされていたんだぞ! ここは颯爽を俺を助けに来てくれる場面だろ! 色々ズレてんだよ! 俺のこと好きなんだろ! だったら俺を攫ってくれてもいいだろ!  追いかけてくるオジサンを振り切るように、走りぬいた。すれ違うサラリーマンたちの驚き顔が心地よい。肺が破裂しそうなほどに苦しいが、これが飛ぶことの苦しさだと思えば何も辛くなかった。  知っている。飛ぶことは、辛い。けれど、空を自由に駆ける鳥の美しさに憧れた。  絡みつく過去を枷に、それを引きずりながら――俺は飛ぶ。  ――白柳さん。俺の、止まり木になってください。

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