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第1話
まだ第二性が当たり前ではなかった江戸後期。普通の人たちに紛れるように第二性保持者は生まれていった。どのような経緯でこの時代に生まれたのか、医療も科学も発達していなかったこの時代では、誰にも分からなかったし、それは今のこの現代ですら解明は出来ていない。ただ分かるのは、その時には既に運命の番と呼ばれる者たちが確かにいたという事実だけであった。
時は江戸幕末。
オメガに選ぶ自由は無い。
恋焦がれる人と添い遂げる自由もない。
産んだ子の、頭をなでてやる自由も名前を呼ぶ権利も……ない。
これはそんな時代――。
αβΩ。
男女の姓とは別に、江戸初期にぽつぽつと現れ出した第二の姓という、悪魔の仕業かと思うような禍々しいものに、人々はただ翻弄されていた。
誰もがうらやむアルファに対し、忌み嫌われるオメガ。
アルファがオメガと交わえば必ずアルファが産まれるそんな時代。
だれもがこぞって金を積み、オメガを抱いた。
特に男アルファは数も少なく、優秀な人材を産む確率が高いとされ、高値で取引される花形であった。
時は江戸、幕末。
海のかなたではオメガにも幸せな未来があった中、まだ日本ではオメガは異端の象徴であった。
ここには最近買われてきた、それは見目麗しい青年がいた。本来の茶屋からは想像できないトウが立った年齢ではあったが、処女であり童貞である、つまりは誰の手あかもついていない希少価値の高いオメガだった。
表の絢爛豪華な顔とは裏腹に、裏では汚い商売で名をはせていた蒼園に売られたものは、運が人生をわけた。
鎖国の時代に流れてきたこの青年には、正々堂々生きる場所も、ただ幸せに笑える場所もなかった。
あれから季節は何度も廻った。
【自由のない幸せ】
遊郭に居れば食事の心配はいらない。
薄くはあったが、布団もある。
知らない男たちに犯され、狂ったように死んでいくこともない。
ある意味ここは天国なのかもしれない。
ここに来て日がたつごとに、それは顕著になっていった。
道端で殴られ蹴られる、そんなオメガをもう飽きるほど見てきた。
そんなものを見たって、今更……何の感情も湧かない。
ただ目の前で縋るような目でこちらを見る、その目を今は反らすこともなく見ていられる。
感情というのは無くなるものだと、生きていて知った。
そしてこの数年の後、【せつない】という感情を初めて知る事になるとは、この時の|白夜《びゃくや》はまだ知る由もなかった。
「白夜、お代官様が呼んでいるよ。今日はまだヒートじゃないから、そんなに頑張らないでいいよ。適当にあしらっておいで」
軽く頷くと白夜は黙って格子の外を眺めていた。
「ん? 何を見ているんだね」
しわがれた声は、咎めるように言った。
その声に反応するようにこの世のものとは思えないほどの綺麗な顔が弧を描いた。
「あれです」
白夜は何の感情も見えない声で言った。
「いや――――――――」
「オメガを見つけたぞ――」
「おにぃ様――」
「呼んだ所で誰もこんわ」
「許して……お願いします。何でもしますから――」
「なんでもか、そうだろそうだろ。それなら黙って俺の子を孕め!連れて帰るぞ。 アルファを産めよ――。金のなる木だ――」
「いや――――――――――――――――」
「あ――はっはっはっはっはっ」
「意味のない抵抗だ」
陰間茶屋の格子の中からその様子をひっそりと見つめ独り言ちた。
視線の先には馬乗りになり腰を振る男たちが一人二人と増えていく。
下世話な高笑いが澄み渡った青空をどす黒いものに変えていく。そばを通る町民は皆、物陰に隠れ、火の粉が降りかかるのを避けた。
ここではこういった光景も別段珍しいものではない。
逃げるように遊郭まで来て、遊女にすらなれずに慰み者に落ちていく。
「すいません。女将さん、あのオメガが一人連れていかれようとしています。かなりの見た目です。そこそこお金になりそうですよ」
その光景を女将も見ていた。
「白夜は相変わらずよく見てるねぇ。確かにいい目鼻立ちだよ。お前の目は信用している」
蛇のように絡みつく目線を見張りの男たちに向けると、「ほらあの男たちを引き剥がして、薄汚れたオメガを連れておいで。売り物に変えるよ」そう命令した。
「僕、行きますね」
そういうなり、地の薄い透けるような着物を羽織った白夜は桜の絨毯を後にした。
「オメガに生まれた自分が悪い」
「ああならないだけ、幸せか……」
桜の木に吸い込まれるように絞り出した本心は、風と共に消えた。
気まぐれだった。
自分の身を守るだけで精いっぱいだ。
他人に構っていられるほど余裕はない。
それでも、見捨てるには心が痛んだ。
女将さんの気まぐれにオメガ一人の人生をかける。死のうが生きようが自分には関係ない。
◇
町人などで80パーセント以上を占めるベータに対し、将軍、屈強な剣士などのトップ層はアルファであらかた占められており、それは人口の約一割に当たった。
殊更少ないオメガはこの時代は卑しいものの代名詞となっており、仮にわが子がオメガだったとしても、人は黙って子を匿い、日の目を見せることがないまま衰弱して死んで行くのを黙って見ているだけだった。発情期の来ないオメガはフェロモンも発さないため周囲にはわかりづらく、また医療も発達していなかったことから、発情してから、初めてオメガだったとわかるのが常であった。
オメガの特徴として、えらく細い白い肢体、綺麗な顔。そんな子供を持つ親は毎日を怯えて暮らし、何も起こらないことをただ祈り、周囲の目は哀れみと好奇に満ちていた。
綺麗なオメガは極上の遊郭に行かれる。
三園と呼ばれる遊郭。
トップは蒼園 、いわば陰間専用だ。
次点は遊女のいる梨園 、柊園 。
この三園に子を売れる親は、オメガという厄介者を身内に持った中では唯一の勝ち組だった。
一度売れれば後は金の生る木だったからだ。売値は見た目によって決められた。
それがこの時代の【美丈夫オメガ懐妊促進法】であった。
ここに売られた段階で、それはアルファである男女の、言わば【物】であり、守られる存在だった。
子を産む道具。
一人のものにはならない、それも飛び切り優秀な。
そんな高値のつく彼らにも、勿論人格は無かった。
秘密裏に売り買いが横行し、そのほとんどは闇のルートで吉原に流れた。
男女とも妊娠できる体の機能を持ち三か月に一度【陰 】と呼ばれる発情期が訪れる。メカニズムの解明がされていないこの時代、番 と言う制度も確立されてはおらず、遊郭に入れなければフェロモンに抗えないアルファに悪戯に項を噛まれ、飽きられれば捨てられる。
薬は高い。
庶民の手に入る金額ではない。
噛まれたら最後、狂って死にゆくだけだった。
酷いものになると遠くからでもフェロモンがわかり、それに充てられたアルファの悪戯は後を絶たない。
罰する法もなく、アルファに有利な世間ではオメガを守る理由は無かった。
そうならないためにもオメガに生まれたものにとって、【遊郭の格子】は命を守る盾であり、同じくらい……自分を殺す槍であった。
大金で吉原に厄介者払いする親も決して少なくはなかったし、白夜もその一人だった。
1
桜の花びらが吹雪くそんな淡い季節。
色で言うなればピンク、幸せの象徴のようなそんな色はここ吉原では地獄の色だった。
桜並木が立ち並ぶ吉原、自然の桜の花びらはこれでもかと格子の中に入り込み、遊女たちを弄ぶように積り、それは見事な絨毯となった。
そんな遊郭の外れにこれまた見事な蒼黒い建物があった。立ち並ぶ遊郭より一層重苦しい【蒼園】は、蒼黒の壁に雨でも流れないような真っ赤な血がしみこんでいた。
蒼園は極上陰間茶屋だ。
通常の陰間茶屋は歌舞伎役者の見習いが、芸で身を立てるまでの間、自分の食い扶持を稼ぐ方法として少年が自分を売る冷たい場所。オメガである必要はない。
しかしその黒い箱、蒼園は、夜な夜な嬌声と絶叫をあたりにまき散らしていた。
◇
もう何年も前になる。それなのに、昨日の事のように思い出す。
――――人がすべてを忘れる生き物ならいいのに。
◇
「あんな人、嫌です」
「はー? 誰に食わして貰ってると思ってるんだよ。お前に大金積んで買ってやったのは、お前が毛色の変わったオメガで金のなる木だからだろうが! 怜音 ! 四の五の言わずに穴ひろげな。もう水揚げの日にちは決まっているんだ。デブで不細工だが金持ちのアルファ様なんだよ。これから色んなアルファとセックスしてたくさんの子供を産むんだ。お前はただ孕んでいりゃぁいい! オメガで良かったなぁ、オメガじゃなければ妊娠なんかしたら金が稼げないからお払い箱で死ぬだけさな」
「死んだほうがましです」
「ふざけんじゃないよ。あの人買い足元見やがって、お前にいくら払ったと思ってるんだい」
女将の足が腹をけり上げた。
ゲホゲホ、不意打ちの様に蹴り上げられた勢いに口から胃液が出た。
「汚いね。いう事を聞かないからこういう事になるんだよ。まぁもう二日間何も食べさせて貰ってなければ、そりゃ胃液以外に出るもんもないわなぁ」
「お願いです、何か食べたい」
床に残飯がばら撒かれた。
「ほら、飯さね。食べたいなら誓いな、これから死ぬまで産めるだけの子供を産むんだ」
蹴られて床に転がる怜音は、ビクビクと女将を見上げた。
女将の手には煙管が握られていて、否が応でもあの苦痛を思い出してしまう。
「産みます、産みますから。許してください」
「ああ、いい子だね。最初からそういや飯にもありつけたんさね。じゃぁ約束の印だ。お前たち」
声をかけられた男たちは青年に近寄ると、足首をつかみ両サイドに大きく足を広げた。女将の前に露わになった陰部は恐怖に縮こまり、女将はペニスを握ると持ち上げ太ももの付け根を、ぎゅっと抓った。
「ここでいいかね」
何が始まるか青年は瞬時に察し、必死に逃げようともがいた。
冷たい床に舞い込んだ桜が必死によじる身体にベタベタと張り付いていく。
青年の青白い肌は透き通るようで、欠陥の浮いた白い手が何とも言えない色気を醸し出していて、まるでこの世のものとは思えないような姿に男たちは息をのんだ。
「ほら、さっさとしないとお前たちにもしてやるよ」
女将の冷淡な声に男たちは青年の股間を女将の前にさらす。付け根に押し付けられたジュっという音に、嫌な臭い、恐怖に泣き叫ぶ怜音の絶叫は、この日一番蒼園を切り裂いた。
翌日からは見世物の様に格子の前に並べられ、日々値が付けられた。
こうして笑うことを拒否した人形の様な怜音は、あまりに薄い肌の色から、白夜 と名付けられた。
◇
「白夜、明日は吉原の外に出るよ。荷物をまとめな!」
何を血迷ったのか女将が突然そう言った。
「外? どういうことですか」
「次の妊娠の為だ」
あの恐怖の日からもう3年の月日が流れ、白夜の腹からは2人の赤子が売られていった。
勿論顔を見たことも抱いたことも、名を呼んだこともない。
大きくなるお腹に愛着は湧くばかりなのに、それを口にする権利はなかった。
そのことがじわじわと心を蝕んでいく。
――また、捨てるために産むのか。
白夜は残酷なその現状に、笑うしかなかった。
「今回は少々特殊なんだ。一年間お前を先方に預けるよ。想像もできないほどの大きな金が動いている。追い返されるような真似をされたら倍返しになる。そうしたらいくら白夜でもただじゃぁおかないよ」
女将が嫌そうな声を上げた。
「わかっています、女将さん」
白夜の心臓は急激に跳ね上がり、体の中から何か熱いものが込み上げた。
これから起きる何かに、黙って固唾をのんだ。
自分にあるのは……選べない自由だけだ。
そう言い聞かせた。
翌日、連れて行かれるまま砂利道を進む。足取りは重く、まるで足が鉛の様だった。
女将の足が止まったそこに掲げられている看板。
なぜここに居るのか白夜は理解しがたかった。
「来たか」
背後から声がかけられ、白夜はゆっくりと振り向いた。
「入れ」
促されるように敷地内に足を踏み入れた。
帰れと言われた女将さんは、その威圧に恐れ慄いたのか、僕に声をかけるでもなく逃げるように走り去って行った。
僕よりはるかに大きい胸板。腰に差している刀は木のようだった。
僕を殴るためのものだろうか、そんな考えがちらりと浮かんだ。
殴られたら痛いなぁ。
もう蹴られたくないなぁ。
煙管も嫌だなぁ。
見えない場所に押し付けられる恐怖は幾度寝ても記憶からは消えてはくれなかった。
どうすれば、気に入ってもらえるのだろうか。
顔色を伺うようにおどおどとした目線でちらりとみると、その人は存外優しく笑った。
入れ。
低く響く命令口調のセリフに似つかわしくないほど、その声色は優しかった。
その人の顔に反射するように木の隙間から伸びるオレンジの光は、日に焼けた薄黒い肌色に、幾重にも重なり、僕は眩しくて目を閉じた。
僕たちを覆う様にそびえ立つ|銀杏《いちょう》の木は綺麗な黄金色の葉を揺らして、秋の風情を存分に発揮し肌寒いくらいの風が僕にまとわりついていた。足元に落ちた|銀杏《ぎんなん》を踏まないようによたよたと歩く。
外など出たことのない僕にとって、銀杏を踏まずに歩くのはなかなか至難のわざであり、うっかりと足を滑らせ地面に尻もちをついた。
「大丈夫か」
その男の人は大きな手を僕に伸ばした。
逆光に照らされたその人の顔が、心配そうに僕を見る。
ドキッとした。
ゴクンと唾を飲み込み、もう一度顔を見上げる。
きゅんと心臓が掴まれた。
こんな気持ち、初めてだと白夜は思い口をつぐむ。
ゆっくりと頭を撫でる手がじんわりと熱を伝える。
「申し訳ございません」
慌てて謝罪すると、自分で立とうと砂利に手をついた。
「ほら、手をよこしなさい」
生まれて初めての経験に、白夜は戸惑い首を振る。
「あなた様のお手が汚れてしまいます」
「構わん」
その人は大きく開かれた手を決して引くことは無かった。
目頭にじんわりと熱いものが浮かび、それを見たその人は、「俺が泣かしている気分になるじゃないか。……泣くなよ」と小さな声で困ったように言った。
「ごめんなさい。嬉しくて、……あまりに、嬉しくて……」
白夜は白く細い手を伸ばして指先を絡め、じんわり伝わる熱を感じ続けた。
何人の男の一物を後孔に受け入れ、その度になんど嬌声を上げさせられただろう。
自分勝手に抱かれることに、幾度感情を殺しただろう。
身体を開き、思うようではないと、何度も身がよじれるほど腹を殴られた。
「何をちんたら歩いているんですか」
前方か気持ちがいいほどのはきはきとした声がした。
目の前にはきれいな青年が立っていて、同じように木の棒を持ち、額に汗をかいて笑っていた。
「煩いぞ。総司。別にいつもと同じだ」
それを聞いて、はたと足元をみた。
自分の歩幅に合わせてくれていたのだと分かるまでには、大した時間はかからなかった。
ここは信じられないほど温かなお日様の匂いがした。
この腰のものは僕を傷つける類のものではないのかもしれない。
ちらりと視線をやった。
「これか? これは練習ようだ」
緊張を隠す様に俯いた。
「たたいたりせんぞ」
その人がそう言うと、
「叩くじゃないですか」
さっきの総司と呼ばれていた青年が言い返す。
「それは稽古だろ。人聞き悪い事を言うな」
耳元に僅かに染まる色は、夕焼けに援護されるように赤く映えた。
一年間だと女将は言った。
僕は、今この時が人生で一番幸せな一年になる予感がした。
「白夜……いえ、怜音 と申します。よろしくお願いいたします」
「それがお前の本当の名前か。俺は土方 、土方歳三 だ。お前のアルファだ」
土方様の真っ黒な目は僕を見つめ、そう名乗った。
くすくす笑う土方様を、総司様が呆れる眼差しで見ているのがおかしかった。
土方様に握られた手が、焼けるほどの熱を持っている。
白夜にとって、初めて感情を持つことの意味を知った瞬間だった。
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