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塔の上
塔の上からは町のすべてが見渡せた。葡萄の収穫時期は、城壁の外側の畑で豊かに実った濃紺の果実を人々が摘み取っている。日が昇ると同時に出掛けて、太陽が真上に到達する頃に荷車いっぱいに積んで町に戻ってくる。
甘酸っぱく、芳しい香りが風に運ばれて塔の一番上にも届いた。窓の桟に腰かけて長い脚を外に放り出し、町で最も高い場所からの眺望を眼下にして、秋の香りで鼻腔を満たす。最近のジェイドの暇潰しといえばそれに尽きた。
「あーあ、またそんな辛気臭い顔して! ようやく収穫が始まったんだから、少しは目を輝かせてみたっていいじゃない!」
「この男に言ったって無駄よ。年がら年中、退屈そうに溜め息しか吐かないんだし。ちっとも外に出ようとしない引きこもりなんだから。どうせあたしたちのことも鬱陶しいとしか思ってないわよ」
「わかってるんなら自分の巣に帰ってくれ」
月の色をした瞳を鋭くさせて、ジェイドが窓の縁で小休止してる鳥たちを視界の端で睨むと、彼女たちは威嚇するように灰色の羽を広げて「可愛くない! もっと愛想よくできないわけ?」と甲高い声で訴え始める。
「せっかく独りぼっちで可哀想な坊やに会いにきてあげてるのに、少しは感謝くらいして欲しいわ」
「頼んでないね。お前たちの井戸端会議の場所に都合いいだけだろうが。毎朝、ぴいぴい害鳥の声で無理矢理起こされる身になってみろ」
「まあこの男あたしたちのこと害鳥って言った!?」
頭部に黒い斑模様のある鳩、マーブルがふさふさの胸を膨らませて激昂し、小さな嘴に緑色のペイントがされたグリーンと顔を見合わせ、ついにはジェイドの硬い膝の上に乗り上げた。
「寝坊助のあんたを起こすために毎朝来てやってるの! あたしたちがいなかったら見張りの仕事も放り出してるわ、感謝してほしいものよ」
「あんまり興奮しないでマーブル。素直になれないだけなのよ。本当に言いたいことも言えないの。だからいつまでもこんな高い塔から外に出られないの」
「余計なお世話だ」
つり上がった目元を引き攣らせながら、ジェイドは膝の上の鳩を乱暴に手で払った。暴力男! と叫びながら、二羽の鳩は軽快な翼の音を鳴らして窓の外へ飛び出た。自由に翼を広げて飛び回る彼女たちの嬌声を聞きながら、鼻を鳴らした。
彼女たちはいつも「町に下りたらいいのに」と言う。それに対してジェイドはいつも「馬鹿なことを言うな」と返す。
ジェイドは銀光が散らばる瞳で、高い塔の天辺から町の風景を見下ろした。舗装された石畳の大通りで、人々が行き交っている。
商人が収穫されたばかりの青果や、捌いたばかりの肉、衣類に使う生地や、外国から仕入れた珍しい調度品などを広げ、客を呼び込んでいる。隣の路地では昼間から酒を引っ掻ける男たちが大声で笑い合い、また別の路地では子どもたちが走り回りと賑やかだ。その騒々しい通りからずっと奥の小路には、その日の食い扶持を得るのもやっとな人々が住んでいることを、ジェイドは知っている。そういった人々に食べ物を分け与える人々がいることも知っている。
屋敷の外の町には、人々の生活がある。彼らの日常の中に自分が下りて行ったら、一体どんな騒ぎになってしまうか。実際に町に出たことは一度もなかったが、ジェイドはわかっていた。
「行ける訳ないだろう。俺の姿を見たら、町の人たちは包丁か鍬を持ち出すに決まってる」
それはハーリー候が言ったことだろう? 実際はどうかわからないじゃないか。町に下りたことがないんだから。自分の中の声が罵倒する。臆病者、と。
しかし二十余年も自分に言い訳を続けてきたジェイドは、自分自身を納得させることに完璧に慣れていた。ハーリー候に言われたことは、きっと事実だ。自分の奇異な外見が人々に恐怖を与えるだろうことは、想像に容易い。
姦しくジェイドの誹謗中傷を続けながら目の前を飛ぶ鳩が、止まり木の代わりに再び膝の上に下りてくる。
「哀れな囚われのお姫様、いつまで不幸ぶってるつもり? あんたは毎日毎日この高い塔の上から見下ろすだけの生活に満足してる?」
「日に二回、塔の牢獄の見回りをして、囚人に食事を運んで、それ以外はぼうっと外を眺めてるだけ……ああ、塔のとんがり屋根に登ったり梁にぶら下がってトレーニングしたり、読書もしてるっけ?」
「それのどこがいけない? 町へ下りるのは危険だってハーリー候は言ってる」
「出た、ハーリー候! あの蛇みたいな顔のゲス男の言うことなんて信じる訳?」
「なんて可哀想なジェイド。あの男はね、あんたのことなんてちっとも大事に思ってないわよ」
「じゃあお前たちは俺のことを思ってありがたい助言をしてくれてると?」
「仕方なくよ! 可哀想なあんたが少しでも報われるようにね」
「友達もいないあんたが寂しくないように仕方なく来てあげてるの。あたしたちがいなかったらあんた、牢獄の中の野蛮な奴らと会話するしかないじゃない」
「囚人たちとは会話にならない。俺に怯えて声ひとつ上げないんだからな」
「ともかくあたしだったら耐えられない。こんな不自由な暮らしを続けるくらいだったら全身の羽を毟ってスープの中に飛び込んじゃうわよ」
「不味そうだから勘弁してくれよ」
「このままだと一生檻の中よ、ジェイド。薄暗くて冷たい風が吹き込む部屋で惨めな暮らしを送り、最後は孤独にひとりで死ぬの」
「お前たちは看取ってくれない訳か?」
「その頃にはあたしたちは死んでるわよ。誰か他に最期を看取ってくれる鳩を見つけなさい。あるいは――」
突然、二羽の鳩は嘴を閉ざして小さな頭を傾けた。それからジェイドを真ん丸の瞳で見つめると、羽を広げて飛び去った。察したジェイドは桟に腰かけるのをやめて部屋の中に戻る。
この塔にある窓はひとつだけ、時間帯によっては日が射し込まない部屋の中は浅い闇で満たされている。完璧に掃除してある木のテーブルの上を念入りに服の裾で払い、中央に置かれたランプのつまみを回して灯りをつける。
成人男性の歩幅で二十歩もない広さの部屋の、唯一の出入り口である歪んだ木の扉が開いた。
「話し声が聞こえたが、誰か遊びに来ていたのか?」
煤色のスーツを纏った男が、痩躯を折って入り口を潜る。昇降機で昇ってきた彼は顔を顰めて衣服についた埃を払い、テーブルの傍に立つジェイドへ歩み寄った。
「まさか。独り言です。会話ごっこでもしてないと頭がおかしくなっちまう」
ジェイドの弁解を聞いて男は細い眉尻を下げてにやつきながら、持っていたトレイをテーブルの上に置いた。乱雑に置いたものだから器に入ったスープが溢れてトレイを濡らしたが、男は気にかけることなくガタガタと椅子を引いて腰かけた。
「可哀想なジェイド……孤独のあまり、おかしな行動をしてしまうのは仕方ない」
向かいの椅子を細長い顎で指し示した男はトレイをジェイドの方へ寄せた。豆が沢山入ったスープ、蒸した芋、黒パン、炙ったチキン、数粒の葡萄がのっている。ジェイドが歪んだ椅子を引いて腰かけると、男は組んだ手の上に顎を乗せてジェイドを見つめた。
「私に心配をかけないでくれよ。君と言葉を交わすのは私ひとりで十分だ。誤解させるようなことは控えて欲しい」
「もちろんです、ハーリー候。わざわざこの塔の天辺まで俺のために訪ねてくるような人はあなた以外いません」
「それを聞いて安心したよ。さあ食べなさい」
男の許可が下り、大きい手に匙を持って昼の食事を口に運ぶ。はち切れそうに果実が詰まった葡萄を見て、今日のデザートは当たりだと思った。
ハーリー候はジェイドの後見人で、彼の敷地内の塔に住まわせてくれている。彼はこの領地の領主で、塔の天辺から見える町のすべて、領民や、葡萄畑、牧草地、そのもっと向こうまで彼の財産だった。物心がつくより幼い頃に彼に保護されて以来、ジェイドは食べ物に困ったことはない。ハーリー候が自ら面倒を見てくれているからだ。
「今日はこの後外出されるんですか?」
普段より上質なスーツを着た男を見て、ジェイドはちぎった黒パンを口に放りながら尋ねた。
「よくわかったねジェイド。午後から町に出ねばならなくてね」
「町で何かあるんですか?」
「広場で催しがあるんだよ。領主として出席する必要があるんだ」
「へえ。どんな催し?」
ジェイドが咀嚼しながら追及すると、ハーリー候の顔は強張ったように見えた。だがそう感じたのは一瞬で、彼はすぐに微笑んで問いに答える。
「旅芸人の公演だよ。私の領地のお伽噺を題材に演劇を披露するらしい。二時間も前なのに、すでに客席は満員だそうだ」
「演劇?」
「君は知らないよな。役者が他人になりきって演技をし、物語を見せる芝居だよ」
当然鑑賞したことはないが、マーブルとグリーンとの会話の中でその存在は聞いたことがあった。市井の人々の間では、そういった娯楽があると。想像してみたことはあったが、いまいちジェイドには理解が追いつかなかった。
「くだらない、演劇なんて現実逃避のための幻想だよ。好んで見る者も、芝居を生業とする者も、どちらの気も知れないね。非生産的だ」
「俺は見たことないですが……席が満員ということは、多くの領民が楽しみにしているということですよね。彼らは有名なんですか」
「私も一座の名前は聞いたことがあるよ。居住権を持たない放浪者ばかりで、物乞いだった者もいるとか。汚らわしい。……まさか興味でもあるのか?」
ハーリー候のじっとりとした視線がジェイドの肌を舐めた。彼が時折見せる、蔑むような冷たい目がジェイドは好きではなかった。ジェイドが塔の外の話をすると、口を閉じろとでも言いたげに一瞬で冷淡な雰囲気を纏うのだ。
いつもであればジェイドは即座に首を横に振った。だが、先程の友人たちの言葉を思い出してしまい、スープに差し込んだ匙を握ったまま、すぐに否定の言葉を発することができずにいた。
「おかしな考えを持つのはやめなさい」
骨に皮膚を纏っただけの細い両手が、その痩せた外見から想像できない強い力でジェイドの腕を掴んだ。唐突なものだから、手にしていた匙はスープの放物線を描きながら床に落ちた。
「決して町に下りたらいけない。一体どんな目に遭うか、想像力が乏しい君にはわからないか」
「理解しています」
「いいや、わかっちゃいない」
哀れな我が子よ、ねっとりと音を紡ぐ後見人の男は身を乗り出したまま、痩せた片手をジェイドの冷たい頬に添えて指先で撫でた。
「お前の姿は恐ろしく、醜い。その異質な肌、瞳の色、背中に生えているもの……正常な人間とは違う。人々はお前を怖がってしまうんだよ」
ハーリー候の指先が撫でる頬は、赤黒い硬質な鱗に覆われている。全顔ではなく目の下の一部分であったが、魚の鱗とも異なる、刃すら通さない鈍く光る鱗。そして目の色も月明かりに似た銀色で、無色ともとれる眼光は底知れぬ不安を煽る。極めつけは肩甲骨から伸びた蝙蝠のような羽だった。
頬以外の肌は人と同じ白色、短い頭髪も黒々とし、すっと通った鼻筋は高く男らしく、唇の色も暗い紅色でおかしなところはない。ただ身体の一部に、人ではない何か別の生き物の片鱗があった。
「人前に姿を現そうものなら、お前はたちまち民衆の暴力の的になるだろう。お前に恐怖を感じ、その目を抉り、肌を削ぎ、背中のものを切り落として……お前はきっと広場の時計塔に括りつけられて晒し者にされてしまう。そうはなりたくないだろう?」
「もちろんです」
「私もお前をそんな残忍な目に遭わせたくない。お前のためを思って言っているんだよ、ジェイド。お前が大切だからさ。お前の母親が腹を膨らませて森から帰ってきて、私の屋敷でお前を生んだ時からずっとね」
「感謝しています。あなたが俺を育ててくれたこと」
「そう、お前は私の子のようなもの。私を父と思うのなら、血迷った考えはすぐに捨てなさい。塔の中が一番安全なんだ」
白目の黄ばんだ目を見つめながらジェイドが頷くと、ハーリー候のざらついた手はするりと離れていく。
「決して塔の外には出ません。ここで暮らせるだけで俺には十分です。それ以上の望みは持ちません」
「賢い子だ、ジェイド。わかってくれるのならいいんだ」
ハーリー候は目を細めて頬を持ち上げ、その後はトレイの上の食事が消えるまで黙ってジェイドを見つめていた。ジェイドは妙な心地悪さから一刻も早く解放されたくて、普段より急いで匙を口に運んだ。奥歯で葡萄を噛み潰しながら、マーブルとグリーンのことを考えていた。
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