ハーリー候の敷地から彼の町を見下ろすように建造されたその塔は、敷地内で最も築年数が古く、牢獄として機能していた。 　領地内で罪を犯し、衛兵に捕縛された者は領主であるハーリー候と教会の前に連行され、処遇を告げられる。軽い罪であれば一定の保釈金を払うか、国の辺境軍の兵士に志願することで解放されるが、殺人や強姦などの重罪を背負った者は一切の自由が認められず、ハーリー邸の敷地の北にある塔の牢獄に収容される。 　寒々しい石の壁と錆びた鉄の扉によって幽閉された罪人はそこで余生を送ることになる。冬は強烈な冷気が襲い、罪人たちの身体の末端を壊死させる。耐えきれぬ者は静かに死んでいった。 　過酷な環境から脱するため、日に一度の食事の時、鉄の扉が開いた一瞬の隙に逃亡を図る者もいたが、かつて塔の外へ出た者はいない。看守の役目を担う者がすべて阻むからだ。領主からその役目を課せられたのが、塔の最上階に住むジェイドだった。 　ハーリー候が手ずから運ぶ昼食を食べた後、ジェイドは牢獄の巡回を行う。ひとりひとり鉄扉の小窓を覗いて罪人の存在と、生存を確認する。今、塔に収容されている罪人は二十一人いたが、今日も問題なく全員生きている。 　罪人の食事は、ジェイドが見回りを行っている間にハーリー邸の下男が塔の地上階へ運び入れる。手動の昇降機を使用して各階へ運ぶのもジェイドの仕事だが、それを行うのは夕暮れ時と決まっていた。下男は食事を塔へ届けるなり逃げるように立ち去ってしまうため、ジェイドは彼の顔を見たこともなかった。 　今日も夕刻の仕事まですることがなく、塔の天辺の屋根に寝そべって日光を浴びていると、マーブルとグリーンがやってきてジェイドの頭上で飛び回った。 「糞だけは落とすなよ」 「失礼な男ね、レディがそこら辺でする訳ないじゃない！」 「あたしたちを普通の鳥と一緒にしないでちょうだい」 　誘われるままにうたた寝をしようとしていたのに、甲高い鳩たちの声で完全に目が覚めてしまった。視界でくるくると移動する鳥を睨みつけると、ふたりは勝手にジェイドの硬い腹の上に乗り上げて腰を落ち着けた。 「重いなんて言ったら許さないわよ」 「……俺の身体で休むのはやめろ」 「上を飛んでるとあんたの鱗に反射した光が眩しいんだもの！」 「広場で芝居が始まってるわよ。ほら、あの蛇男が言ってた」 　吐き捨てるように言ったグリーンの言葉にはハーリー候への嫌悪が含まれていた。ジェイドはゆっくりと嘆息し、頭上の雲の流れを眺めた。どうやら彼女たちは逃げるように飛び去った後、戻ってきて聞き耳を立てていたらしい。 「別に興味はねえよ」 「嘘。前に演劇の話をした時、興味津々にしてたじゃない」 　マーブルが揶揄うように言って片翼でジェイドの胸を叩いた。 「観てみたいなら観に行けばいいのよ。簡単なことじゃない」 「ハーリー候が駄目って言ってるだろ」 「こっそり行けばバレないわよ。あの男も出掛けてるんでしょ？」 「マーブルの言う通り。仕事の時間までに塔に戻れば問題ないわ」 「駄目だ。外に出ないってハーリー候に約束した」 　かたくなに言い張ると、今度はふたりが深い溜め息を吐いた。彼女たちは互いの丸い顔を見合って、惰性で空を見上げるジェイドへ小さな嘴を向けた。 「蛇男の言うことを真に受ける必要なんかないわ。奴があんたをここに閉じ込める理由知ってる？　あんたが外の話をした途端、極端に問い詰める態度おかしいと思わない？」 「閉じ込めてるんじゃない。ハーリー候は俺の安全のために、塔から出るなって言ってるだけだ。心配だから、あれだけ親身になってくれてる」 「本当にそう思ってるなら大した馬鹿よ、ジェイド」 　反論したかったが、腹部に感じる重さと胸のつかえのせいで言葉を出せずにいた。 　ハーリー候には感謝している。毎日、邸宅から離れた塔へ手ずから食事を運び、ジェイドが食事をしている間は色々は話をしてくれる。昔話や彼の家族の話、少しだけ領地の話も聞いたことがあった。ジェイドが本当に幼い頃には、物語が描かれた本を読んでくれたこともある。今は部屋の隅に背丈の半分程の本棚があって、ハーリー候が持ってきてくれた書籍で埋められていた。マーブルとグリーンと出会う前までのジェイドが知る世界は、塔の上から見下ろす景色と、ハーリー候から聞く話と本の世界だけで構成されていた。 　窓から眺めるだけ、本当の外の世界を知らずに育ったが、愚かではない。時折ハーリー候から感じる、好意とは表現しがたい複雑な感情に、少なからず違和感と不信感を抱いているのも事実だった。 「じゃあ……何でハーリー候が俺を塔から出さないのか、お前たちは知ってるのか？」 　空を仰いだまま問いかけると、腹の上の温もりが居心地悪そうに身動ぎをした気配があった。グリーンが、やや間を置いて嘴を開いた。 「正確には知らない……けれど、ジェイドには塔にいてもらわないと困ると、誰かと話してるのを聞いたことがある。決して見張りの仕事のためじゃない。だって罪人の監視なんて別にあんたじゃなくてもいいもの」 「喋り方がすごく嫌な感じだったのを覚えてる」 「へえ……」 「だからあいつに義理立てをして約束を守る必要なんてないわ。少しくらい自由にしたっていいのよ」 　 　マーブルが珍しく神妙な声で語りかけるのをジェイドは黙って聞き、そして反芻した。 　自由。ならば今の自分は不自由ということだ。 「町に下りたい気持ちはある……」 「やっと認めるのね」 「だがこの姿じゃ行けない」 　ハーリー候や、町の人々とは異なる姿形。ジェイドの容姿は、自分が知る人間の姿とは離れている。それも醜い。恐ろしい。人間ではないものの血が混じっていると自分でも気づいている。 　マーブルとグリーンは何も言わなかった。彼女たちもわかっているのだ。ジェイドの容姿が人々にとって歓迎しがたいものであるということを。そしてかけるべき言葉を見つけられずにいた。 　その時、遠くから重厚な音楽が聞こえ始めた。 　楽器なんて少しも詳しくないが、聞いたことのない音がした。一定のリズムで弾かれた重低音が風に乗って運ばれ、ジェイドの鼓膜をかすかに震わせた。 「お芝居の中の演奏ね」 　ほっとしてグリーンが言った。 「演技以外に、楽器で演奏もするのか？」 「お芝居の内容や流れに合わせて音楽を鳴らすこともあるんですって」 「ふーん……」 「あんた音楽隊がどんなものかも知らないでしょ？　広場だったら上からぎりぎり見えるんじゃない？」 　マーブルがいつの間にか胸の上まで迫ってジェイドの鼻先で嘴を動かしている。知らないものを知っておくことに越したことはない。ジェイドが大きな身体の横に腕を突いて起き上がろうとすると、ふたりはぱたぱたと羽ばたいて空へ浮かんだ。 「ま、あんたに演劇とか音楽とかいう高尚なものが理解できるとは思えないけど」 「鳥頭に理解できるなら俺にも理解できるだろ」 　軽口を叩きつつ、屋根材の平石の凹凸に足をかけて上る。塔の天辺のとんがりに足の裏を乗せ、立ってみる。流れる風に浚われないように平衡感覚を保ちながらジェイドは目を凝らした。人離れした視力は数百メートル離れた先も鮮明に見ることができた。 　いつもであれば開けて地面の羊毛色の石畳が見えるはずが、今日ばかりは町の人々に覆い尽くされていた。用意された客席は端から端まで埋まり、席を確保できない者は立ち見をしていた。彼らが夢中になって見つめる先に、木や石で組み立てられた舞台があった。 　舞台の上では数人の男女が演技をしていた。舞台後方に垂らされた艶のある布は背景を演出しているのか、真っ赤な炎の色をしていた。役者たちは剣や弓などの武器を掲げ、舞台の右手に鎮座した巨大な生き物と対峙していた。 　どのように製造したのかはジェイドには想像がつかない、人ひとりの五倍近くあろう高さの生き物だった。ジェイドは幼い頃にハーリー候から聞かされたお伽話を思い出した。 ――昔々、森の奥深くに恐ろしい怪物が住んでいました。鋭い爪は人間の喉を切り裂き、鋼のように硬い鱗は矛を通さず、身体から立ち上がる炎は木々も水も人々の身体もすべてを燃やし尽くしてしまうため、人々は怪物をとても恐れていました。 　怪物の怒りに触れないよう、人々は村でひっそりと静かに暮らしていました。しかし腹が減る怪物は毎夜人間の子どもをさらって食べてしまい、我が子を取り戻そうと森へ行った母親も丸飲みにされてしまう始末でした。そこで、村の人々は怪物を倒す勇者を募りました。 　しかしみな怪物を恐れ、立ち向かおうとする者は中々現れませんでした。ついに町の子どもの数が十人を切ろうとした時、剣を持つ者が現れました。立ち上がったのは、トムス・ハーリーという勇敢な旅人でした。 　彼は彼と旅をしていた仲間たちと九日間かけて怪物と死闘を繰り広げ、ついに怪物の喉に剣を突き立てました。しかし怪物は想像以上にしぶとく、ハーリーの剣を受けても死にませんでした。そこでハーリーは弱った怪物を連れ帰り、怪物の肩の鱗を数枚剥いでから古びた塔に閉じ込めました。怪物は鱗を剥がれた痛みに苦しみ、その苦しみのあまり塔から逃げることは叶いませんでした。今もその塔に近づくと、怪物の不気味な呻き声が聞こえてくるそうです。 　ハーリー家がこの町を治めるに至った経緯を語ったお伽話だという。事実かどうかは不明だが、この話は町の人々に長く語られている。奇しくもハーリー邸の塔に住んでいるジェイドは幼い頃にこの物語を聞かされ、自分と重ねたものだった。誰かが自分を退治しに塔へ来るのではと。 「さっき近くで観てきたけど、トムス・ハーリーを演じている役者、なかなかに上手だったわ」 「母親たちを鼓舞する場面なんか感動的で、彼女たちに感情移入して泣いちゃった。あたし子どももいないのに」 「トムス・ハーリーって勇者の？　どの役者のことを言ってる」 　探そうとさらに目を凝らした時だった。塔の天辺へ一瞬の突風が吹きつけた。 　普段であれば、ジェイドにとって風は障害でなかった。しかし舞台上を注視することに集中していたジェイドの身体のバランスは崩れた。 　足を滑らせ、平石を掴む間もなく屋根の急斜面を滑り落ちた。石が当たる衝撃を感じたのも束の間、すぐにジェイドの身体は宙に投げ出された。 「ジェイド！」 　ふたりが叫ぶ声が遠ざかり、ジェイドは頭から真っ逆さまに落下していく。町の人々の家で言うと二十階相当の高さだったが、地面が近づく速度は速かった。土色が迫る直前、ジェイドは身体を反転させ、神経を背中に集中させた。小さく折り畳んだ翼が衣服を突き破り、広がった。 　風の抵抗を受けたおかげで、身体が受ける衝撃はさほど大きなものにならずに済んだ。擦りむいた腕に触れながら立ち上がったジェイドは、自らが地上に降りたことに気づいて、頭皮から冷たい汗がどっと噴き出すのがわかった。