3 / 5

塔の外

 冷たい滴が額を流れて鼻筋の脇を通った。この汗は塔からの落下という不慮の事故に際してのものではない。外に出るという禁忌を犯した自覚から、ジェイドの心臓の音は速まった。小さな羽ばたきが聞こえ、視界の中に二羽の鳩がふわふわと入り込んできた。 「さすがの身体能力ね! この高さから落ちても無事だなんて」 「……やっちまった」 「背中のそれも飾りじゃなかったのね。ちゃんとあたしたちとお揃いじゃない」 「約束を破った。塔から出ないって言ったのに」 「何ぶつぶつ言ってんのよ! 逆にラッキーじゃない。事故でもないと外に出ないでしょ」  盛り上がった肩に留まって励ますマーブルの声は、ジェイドには届いていなかった。それよりも、どうやって塔の中に戻ろうか必死に思考を巡らせていた。 「あんた馬鹿なこと考えてないでしょうね? まさか中に戻ろうなんて」 「……」  馬鹿なこと。町へ下りることこそ、馬鹿なことだとジェイドは自分に言い聞かせてきた。その馬鹿な考えが頭をもたげる度に、ハーリー候の話を反芻しては自身の行く手を阻んだ。  裸足の足裏に感じる、柔らかく濡れた土と小石の感触。庭に生い茂る、艶々とした葉や花の色は黄色に色を変えようとしている。持っている記憶の中で、初めて嗅ぐ匂いがジェイドの肺を満たす。これが草の匂い。土の匂いだ。 「塔の入り口は施錠されてて入れないわよ。その羽で飛んで一番上まで行くつもり?」 「今、生まれて初めて羽を使った。飛び上がるなんて絶対できない」 「そう。なら手で登るしかないわね」  グリーンが突き放すように言った。ジェイドは自分が先刻までいた塔の天辺の屋根を仰いだが、地上からは到底見えなかった。壁の石の凹凸をひとつずつ掴んで登って行くことは可能だが、積極的に実行しようという気持ちは薄れていった。  ど、ど、ど。心臓の鼓動と、広場から届く太鼓の音が重なり、混じり合う。決断を急かし促すように、音と音との間隔が狭まっていく。こめかみを流れる冷たい汗を感じながらジェイドは口走った。 「こっそり広場の芝居を観に行くか」    肩に留まっているマーブルが「そうでなくちゃ!」と歓声を上げたので、ジェイドは顔を顰めた。耳がキーンとする。 「……けど何か被るものが必要だ」 「なら、屋敷の庭から洗濯物を拝借しちゃえばいいわ。乾く前だからまだあるはずよ」  グリーンの声音も心なしか浮かれているように聞こえた。彼女が小さな身体を翻して先頭を切って飛んで行くので、ジェイドはその後をついて行く。ハーリー邸の庭の洗濯物の中から干してあるシーツを借りて被ると、鱗のある顔から翼のある背中まで覆うことができた。芝居が終わる前に急ぎ足で屋敷の敷地を出て、ジェイドと鳥たちは町の広場へと向かった。    飛び出したはいいが、町の人と擦れ違う度にジェイドの心拍数は瞬間的に跳ね上がった。ハーリー候と塔の罪人以外の人間に近づくのは初めてだった。大抵の人はジェイドよりも低い位置に目線があったが、時折同じくらいの位置か、ジェイドが見上げる身長の者もおり、その度に俯いて顔が見られないようにしなければならなかった。  だが緊張感と背徳感を抱えながらも、それを勝る期待と高揚が打ち消した。広場に到着する頃には不安は薄れていた。周囲の人々がジェイドの存在など気にもかけていないとわかってからは、なおさらだった。後方で立ち見をしている者はみな、遠くの舞台の様子を見ようと背伸びをしたり、噴水の周りの段に上がったり、自分のことしか頭にない様子だった。鳩たちはより近くで芝居を楽しもうと、抜け駆けをして前方へ飛んで行ってしまった。  テンポの速い音楽が流れていた。焦燥を煽る和音が、張りのある音色で掻き鳴らされる。舞台の様子が気になるジェイドは、前方に聳え立つ時計塔の柱に気がついた。人混みを縫って前へと進み、柱の台座に手をかけて上った。上るには高所のため、他には誰もいない。  市民の頭の高さにある台座に立つと視界を遮るものは何もなく、遠く舞台上が姿を現した。尋常の者であればよく目を凝らしても役者の表情など読み取れる距離ではなかったが、ジェイドには容易に見えた。  真っ赤な舞台の上で数人の若い男女が武器を手にし、上手側の装置に相対している。先頭で長剣を振るう青年の金髪が眩かったからだろう、やたら鮮烈に目に映った。  マーブルとグリーンが話していた役者は彼のことだろう。端整な横顔は鬼気迫る表情で、まさに町の存亡をかけた戦いに望む勇者と言えた。すらりとした体格の割に力強い剣捌きは、木材で組み立てられただろう装置を両断してしまいそうに思えた。  その巨大な装置は、お伽話に聞く怪物だった。塔の上からでは細部まではわからなかったが、この距離では鋭く長い爪や、大きな口から除く牙、舞台を吹き飛ばしてしまいそうな力強い翼の模様も見ることができた。どのような仕組みになっているのか、翼は役者を吹き飛ばそうと上下に動き、巨大な口は飲み込もうと開閉する。  金髪の青年以外にも舞台上には八人の役者がいたが、ジェイドの視線は金髪のハーリー役の青年に釘付けにされていた。声は聞こえなかったが、手足のように操る剣は踊るようで、ジェイド以外の市民たちもみな、彼の剣舞を見つめていた。  彼が勢いをつけ、剣を怪物に向けて投げつけた。鋭い切っ先が舞台上の熱気を裂いて怪物の喉に突き刺さった瞬間、ジェイドは思わず一歩、後ずさりした。 「!」  着地するはずだった踵はずるりと落ちた。本日二度目の浮遊感は、一度目と異なり酷く胸がざわついた。腰から地面へ落下し、人々の悲鳴が背後から聞こえた。足場が狭いことくらいわかっていたのに、どうしてか怪物の喉に刃が突き刺さる瞬間、逃げるべきだと頭の中で警報が鳴り響いた。  頑丈な身体は大して痛みを感じなかった。すぐに立ち上がらなければと地面に手をついた時、目の前に差し伸べる手があった。身体の厚い中年の男がジェイドを見下ろしていた。 「おいあんた、大丈夫かい? こんな高い場所で見てたら危ない……」  心配する男の声が中途半端に途切れ、ジェイドが見上げると男ははっきりと聞こえるくらい息を飲んだ。男の表情がみるみる強張るのを見て、ジェイドは頭部に手をやった。被っていたシーツがない。  男の足元に落ちているのに気づいたが、手遅れであることは明白だった。皺の寄った男の口元が「化け物」と形作った。 「違う、俺は……」  ジェイドが手を伸ばそうとすると、男は差し伸べていた手を庇うように瞬時に引いて後退した。彼の恐懼は、周囲の民衆の目を集めるには十分だった。ハーリー候の言葉がジェイドの脳裏を過る。  まずい。早く立ち去らなければ。ジェイドが起き上がった時、傍にいた婦人が「ひっ!」と悲鳴を上げた。 「化け物……!」  頬を覆う赤黒い鱗も、無色に見える銀色の目も、肩甲骨から伸びる黒い翼も、いずれも尋常な人のものではない。得体の知れない生き物を前にした婦人の恐怖は、瞬く間に周囲へ伝染していく。  悲鳴とさざめきが波のように押し寄せ、ジェイドを四方から包み込んだ。「怪物がいる」「人間じゃない」「誰か兵士を呼んで!」額に激痛が走り、触れると指先に血が滲んでいた。顔を上げると小石が飛んでくる。  武装した兵士が近づく金属音がして、ジェイドは踵を返して一目散に駆けた。民衆を押し退けて、背後から飛んでくる怒号に耳を塞ぎ、塔まで脇目も振らず走った。民衆の声が聞こえなくなってからも走った。早く塔に帰りたくて仕方なかった。

ともだちにシェアしよう!