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宵闇の侵入者
塔の石壁に足をかけて最上階まで登った。最初塔から落下した時、この高さを自力で登る気には到底なれなかったが、早く帰らなければと思うと、気づいた時にはあっという間に殺風景な自分の部屋にいて、硬いベッドの上に身を投げ出していた。
「俺は本当に馬鹿だ……」
身を包むのは悔恨と自己嫌悪ばかりだった。
外に出たいなんて愚かな考え、やはり持つべきではなかったのだ。
シーツなんかで身を隠せる訳がなく、そして自分の姿は人々に受け入れられるものではない。外の世界への願望を持つとろくな目に合わないと知っていれば、芝居を観に外へ出るなどという選択をすることもなかっただろう。
――ハーリー候はやはり正しかった。
どれだけ時間が経過したのか、塔の昇降機が軋む音がしたが、ジェイドはベッドに突っ伏したまま動けずにいた。少しして部屋の扉が開き、誰かが入ってくる。彼はゆっくりとした足取りでベッドに近づき、ジェイドの身体の脇に無遠慮に腰掛けた。
「可哀想なジェイド」
ハーリー候の骨ばった冷たい手がジェイドの短い頭髪を撫でた。憐愍に満ちた声音が降り注ぐ。罪悪感を湛えながらジェイドが体を起こすと、腫れぼったい瞼の隙間から細い目がじっと見つめていた。目の前の異形を憐れみながらも難詰する雰囲気を感じ取り、ジェイドは喉元に苦しさを覚えた。
「お前のことは来賓席から見えていたよ。役者も演技を止めるほどに、大きな騒ぎになっていた」
「……すみません、ハーリー候。言いつけを破り外に出てしまいました」
「そうだ、お前は嘘を吐いたね。外に出ないと自ら言ったのに。私は、約束を破る者や嘘を吐く者は嫌いなんだ」
「もう二度としません。誓います。外に出たいなんて思いません」
今日一日で嫌というほど理解した。そんな望みを持つことすら間違いなのだと。自分の居場所はこの塔の中であって、外の世界ではない。塔の中にいれば、人々から謗られ痛みを感じることもない。
「今まで部屋の窓も塞がず、屋根に上るのも許していた。お前が外へ降りないと信じていたからだ。だが裏切られた」
「……」
「幸い、芝居に浮かれた愚か者の仮装だと言い聞かせたら騒ぎは静まったがね。お前にとって外の世界はとても危険なんだよ。みな、お前のことを恐れ、憎み、攻撃してくる。例外はない」
「ハーリー候の言ったことは本当でした」
「よくわかっただろう。私だけだ。お前を傷つけず、守ってやれるのは、この私だけなんだ」
乾いた掌がジェイドの硬い両頬を包み込む。
「お前の姿は醜く、恐ろしく、まるでお伽話の怪物のようだ。そんなお前を愛してやれるのは私だけなんだよ」
触れた箇所から憐れみと慈愛が伝わってくる。けれど伝播したその温もりのようなものは、ジェイドの内側の最も深い場所を柔らかく突き刺しもする。強張る唇を動かして、ジェイドはハーリー候の冷たい目を見た。
「二度と裏切るような真似はしません。外に出て、心から理解しました。町の人々は俺から離れ、攻撃してきました。なぜなら俺が醜くおぞましいから」
この弁明がハーリー候に届くように強く祈った。自分で口にしてみると、諦念と虚無感に襲われる。けれど紛れもない真実だった。主に嫌われたくない一心で、ジェイドは言葉を紡いだ。
「俺の居場所はここしかない。お願いです……この塔にいさせてください」
ハーリー候の、観察するような視線が和らぐのを待った。やがて深い皺が刻まれたハーリー候の唇が微笑みを作る。ジェイドの頬に添えた手は親指で、赤子を慈しむように赤黒い鱗片をゆっくりと愛撫した。
「お前を追い出したりなどしないよ。理解したのなら十分だ。お前がこれ以上悲しい思いをしないように、これからも守ってやろう」
「感謝します……ハーリー候。塔の中で俺が他にできることがあれば何でも仰ってください」
「いいや、お前はここにいてくれるだけでいい。見張りの務めをしてくれるだけでいいんだ」
主の柔らかい声に安堵し、ようやく身体の硬直は指先から解けていった。そして二度と主を失望させないよう、自分自身を戒める。塔の外を望んではいけない――と。
昼間の賑わいが嘘のように、その夜は静寂が広がっていた。普段であれば塔の屋根の上で町の灯りがひとつずつ消えてゆくのをを眺めたり、濃紺の夜空に浮かぶ星の数を数えたりするが、今日に限っては窓から外の様子を伺う気すら起きず、ジェイドは沐浴を済ませた後もベッドの上に伏せていた。
コツン、と閉めた窓に何かが当たる音がした。窓とは反対側の壁際のベッドで顔だけを向けると、夜間には珍しくグリーンとマーブルが止まっていた。
「気にすることないわ」
窓の外でグリーンが静かな声で囀ずる。
「町の人たちはすぐ忘れるわよ。いつの間にか別の話題にすり変わってるんだから」
マーブルの慰めの声も、今は受け入れる気にはなれなかった。窓から顔を背け、軽く手を上げると鳥たちは嘴を閉ざす。暗に放っておいてくれと頼むと、しばらくして小さな翼が羽ばたく音がした。
悲しくなんてない。最初からわかりきっていたことだ。今まで通り、この塔の一番上で暮らすだけだ。明日目が覚めたら屋根の上で日光浴をして、ハーリー候の持ってきた昼食を食べる。暇潰しにやってくる鳩の会話の相手をした後に塔の牢獄の見回りをして、夕方には彼らに食事を与え、またハーリー候の持ってくる夕飯を食べる。塔の地下から水を汲んで身体を清め、何度も読んだ本を読み返し、飽きたら眠りにつく。
何不自由ない生活にジェイドは満足している。寝床や食事、本まで与えてくれるハーリー候には感謝してもしきれないくらいだ。ハーリー候がいなければ、ジェイドは生きていなかった。だからこれ以上を望んではいけない。
カツン、カツン、とまた硬い音がした。鳩たちがまた懲りずにやってきたらしく、ジェイドは彼女たちを無視して伏せていた。気づかない振りをしていればいずれ諦めて帰るだろう。眠りにつこうと瞼を閉じた時、ガタンと大きな音がした。
あの小さな翼では窓を開けることなどできない。ジェイドは瞬時に身を起こした。
「誰かいるのか?」
自分の声ではなかった。その者の声だ。男の声だった。
外の月明かりはちょうど雲に隠れ、影を落とした男の顔は見えない。ジェイドが声を上げる前に、男は窓の縁に足をかけて塔の中に入ってきた。男は自分の膝に手を突いて、肩で息をしていた。肺から押し出された激しい呼吸の音が聞こえた。
まさか、下からここまで登ってきたのか? ジェイドでさえも一度尻込みした高さなのに?
ジェイドは息を潜め、気配を消した。心臓は壊れそうなくらい大きく、速く鼓動を打っていた。濃厚な暗闇に満たされた部屋の中は男には見えていないはずだ。
少し落ち着いたのか、人影は手探りで、ゆっくり、一歩ずつ近づく。背が高く、ジェイドと似た体格だった。
「危害を加えるつもりはない。出てきてくれないか?」
「……!」
勘づかれている。そしてどうやら、ジェイドに話しかけている。
「勝手に入り込んで、完全に変質者だよな……ごめん。だが、別に強盗とか、暴漢じゃないんだ。信じてもらえるか、わからないけど」
男は言葉の合間に息を整えながら一方的に言った。ジェイドはベッドの上で壁にぴったりを背中をつけて人影を凝視した。暗闇の中で顔はまったく見えなかったが、若い男であることはわかった。
「……何者だ」
至極低い声で問う。男がはっとして声の方向を向いた。
「! よかった、幽霊じゃなくて人だ」
喜色ばむ男が暗闇の中で一歩、ベッドの方へ近づく。
何を目的にわざわざ塔の最上階まで登ってきたのか。そもそもこの高さを登ろうと思うほどの体力の持ち主は何者だ? 尋常の人間は考えつくこともないだろう。
「出て行け」
「まさか、こんな塔の上に人がいるとは思わなかった。君はこの塔で暮らしているのか?」
警戒するジェイドの声が聞こえなかったのか、男が一歩近づく度に床の木材が軋む音を立てる。
「俺はサミュエル。今日からこの町に――」
「出て行けと言ってる!」
これ以上、男をこの場所に留まらせてはいけない。町の人間と接触したと知られてしまったら。ジェイドは声を荒げて男の影に飛びかかった。ハーリー候の言葉が蘇り、腹の底がひやりと冷たく、重くなる。胸倉を掴んで押しやり、彼の入ってきた窓枠に押しつける。
「今すぐにだ。後悔するぞ」
柔らかい喉元に爪を押し付けながら忠告する。男は焦燥の声を上げた。
「悪かった! まさか、人がいるとは思わなかった――」
男が鼻先で息を飲む音がした。
銀月を隠していた雲が晴れ、窓枠から塔の中に月光が差し込む。男の青い目が大きく見開かれ、ジェイドは男に詰め寄ったことを後悔した。
「綺麗だ」
深い色の瞳でジェイドを見つめ、男は呟いた。彼の銀光を受けて虹彩がきらきらと輝く瞳に、ジェイドも一瞬、視線を奪われた。心臓が大きく跳ねる。ジェイドは瞬時に男から飛び退いて距離を取った。
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