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主人以外の人間

「お前、昼間の……役者の」  呼吸を整えようとするが、確実に動揺していた。男の顔には見覚えがあった。時計塔の台座の上から舞台を鑑賞した時に見た顔だった。主役を演じていた金髪の青年だ。  動揺したのは、彼の発した言葉にも。男は今、何と言った? 「サミュエルだ。旅芸人をしている。君も芝居を見てくれたのか」  男――サミュエルは肩の強張りを解いて、息を吐いて音もなく笑った。舞台で見た力強い表情とは異なり、柔和な雰囲気があった。碧色の目が細くなる。ハーリー候とはまったく異なる笑い方だった。ジェイドは何から問うたらいいのかわからず身構えていたが、早く彼を外に出さなければと慎重に口を開いた。 「ここへは、どうやって」  ジェイドは、主と塔の囚人以外の人間と会ってはならないのだ。屋敷の人間ですら、下男を除いて立ち寄らない。 「頑張って登ってきたんだ」 「それは、わかる。……どうやって近づいた」 「ああ、客人として領主の屋敷に世話になってるんだ。俺だけじゃなくて一座の仲間全員だ」 「ハーリー候に、ここへは近づくなと言われなかったか」  サミュエルはきょとんとした表情でジェイドを見つめていた。 「迎え入れられた時と、食事の時にそんなことを言われたよ」  ジェイドはまた胃の底がひやりと冷たくなるのを感じていた。 「なら、従えばいい」 「でも気になったから来てしまった。見張りもいなかったし」 「なぜ……」 「禁じられれば禁じられるほど、やってみたくなるだろ?」  サミュエルの言葉に同意を示すほど、ジェイドは愚かにはなれなかった。今日の自分の行動が間違いだと思い知ったばかりだった。 「この塔には囚人が収容されてる。危険だから人を入れてはいけない」 「君も囚人なのか? あまり危険そうには見えないけど」 「俺は……違う」 「塔の最上階に住んでる君は何者なんだ?」  サミュエルの純粋な瞳が肌に突き刺さる。纏った衣を強引に剥ぎ取ってしまいそうな、強い好奇心が宿っていた。自分の異形の姿が彼の視線に晒されていると思い出すと、顔の表面が発火しそうに熱くなった。頬の赤黒い鱗や、色のない瞳を隠したくて、ジェイドは一歩、後ずさった。 「領主の屋敷の使用人? 兵士か? 囚人の見張りが君の仕事?」    追い詰めるようにサミュエルが近づく。ジェイドは極力彼から距離を取りたくて、また一歩後退した。 「教える必要はない。帰ってくれ」 「教えてくれたら、今日は屋敷に戻るよ。それから俺のことも君に教えてあげる」 「知りたくない」 「俺は興味あるのにな。いつからここに住んでるんだ?」  問い詰めるサミュエルの勢いに、ジェイドは後ずさる。膝の裏がベッドの脇に当たって、もうこれ以上は下がることができないと知った。  ずい、と顔を寄せたサミュエルの碧の目が、ジェイドを捕らえて離さない。 「君の名前は何ていうんだ? ああ、俺はサミュエル」 「さっきも聞いた。……お前、俺が恐ろしくないのか」  宵闇の中で煌めく碧の目が不思議そうに瞬いた。ジェイドの心臓はずっと大きく脈打っていた。サミュエルは一瞬、悩む様子で唸り、それから静かにジェイドへ腕を伸ばした。 「恐ろしいかと聞かれて正直に答えると、そう思う。少しね」  ジェイドの銀光の視線が揺らぐのを、サミュエルはじっと見つめていた。厚みのある手が頬の鱗に触れ、肩が跳ねる。 「けれど、それ以上に美しいと思う」  咄嗟のことで、ジェイドは返す言葉が見つからなかった。恐ろしいのなら関わるなと脅すこともできたが、サミュエルの発言への正しい返答を生憎持ち合わせていなかった。だって、これまでに一度も、誰にも言われたことのない言葉だったから。 「君の顔のこれ、とても不思議だ。窓の近くだと月明かりで輝いていたけど、暗闇の中でも少し発光してるんだな。ルビーみたいだ」 「……は」 「触ってもいいか? あ、ごめん、もう触ってたね」  これ以上、下がりようもないのに反射的に後ずさりしようとしたジェイドは、尻餅をつくようにベッドへ勢いよく倒れこんだ。身体の後ろに手を突いて見上げると、サミュエルはばつが悪そうに笑みを浮かべた。 「よく人から、距離が近いって言われるんだ。一座の団員にもよく怒られて……。それで、君の名前は?」 「……ジェイド」  ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかくらいの低い声で呟く。サミュエルの勢いに押され、彼の要求に応えるしかなかった。目の前に立つ青年は白い歯を見せて、倒れこんだままのジェイドへ手を差し伸べた。 「ジェイド。教えてくれてありがとう」  おずおずと手を伸ばすと、ジェイドと同じ大きさの手が鷲掴むように強く握り、引き上げた。 「今日は押し掛けて悪かった。また来るよ」 「それは……困る」 「俺は君に一方的に興味があるんだ。見つからないように来る」  厚い掌をぱっと離し、サミュエルは身を翻した。あっという間に窓際まで行くと腰の革袋から何か布のようなものを取り出し、勝手に窓の外の出っ張りに括りつけた。上る前に、ちゃんと下りることも考えて来たらしい。 「明日の夜も来るから、できればこの布を下まで垂らしておいてくれると助かる」 「来ていいとは言ってない。やめてくれ」 「頼むよ。じゃあ、行くから。俺が下に着く前に外したりしないでくれよ」  そう一方的に告げ、サミュエルは窓枠に足をかけた。布が摩擦する音が聞こえ、するすると青年は闇の中で地上へ下っていった。窓から見下ろすと、地面に足をつけた彼がこちらを仰いで手を振った。 「勘弁してくれ……」  屋敷の方向へ走り去る後ろ姿を見つめながら、ジェイドは深く嘆息した。厄介で――不思議なものを招き入れてしまった。そして、主人以外の人間と会話をしてしまった。  彼が握った掌に視線を落とすと、まだ温もりが残っているような気がした。

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