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猫の耳
川でレイムが言った通り家に着く頃には日が傾いていた。中に入るとレイムは再びカウンターの中に入って薬を作り始める。
フレッド以外にもこの店にやってくるお客がいるのだろうか。ノアは魚を台所に置いてレイムが仕事をしている部屋に戻ってきた。ノアはカウンターの中に入ってレイムの隣に立つ。
「あのさ! レイムさん!」
レイムは呼びかけに返事はしなかった。そのままカウンターの前で薬草を刻み始める。
ノアは釣りに出かけてとびきり幸せな気分になっていた。だからレイムに相手にされなくても隣で話を続ける。
「俺さ、大丈夫だから。信じて欲しいな」
ずっと無視を決め込んでいたレイムが手を止めてノアに向き直った。紫の瞳が面倒臭そうに細められる。
レイムが急にノアの話を聞く体勢になったので、驚きで耳と尻尾がびくんと動いた。
(根気強く話しかけたら反応はしてくれるんだよなぁ)
ノアは王都での他人とのコミュニケーションを最初から諦めていた。どんなに相手のことをノアが好きでも、獣人だと知った途端ダメになるって知っていたから。きっと今回も無視される。嫌われる。相手にされないだろう。期待をしなくなった。
けれどレイムはノアが頑張れば相手にしてくれる。だから嬉しくて、ついつい話しかけてしまう。
「何をフレッドに聞いたか知らないが、私は弟子を取らないと言っただろう」
けれどノアの期待に反して、やっぱりレイムの返事は変わらなかった。フレッドから詳しく訊けなかったけど、よっぽど前の弟子が酷い人だったのかもしれない。
「でも、俺、一週間経っても絶対ここにいるつもりだし」
自分が前の弟子と違うと示すには、根気強くレイムのそばにいればいいと思った。その人が音を上げてこの家を出て行ったのなら、ノアは最後までここにいる。答えはシンプルだった。少なくとも家に置いてくれているのだから可能性はある。なんだか少しだけ希望が見えた気がした。強い決意を込めて、じっとレイムの瞳を覗き込むと、ふいと目をそらされてしまった。
「信じる? 馬鹿馬鹿しい」
レイムは吐き捨てるように言うと小さい炉の上にガラス瓶を置き、その場を離れる。目を合わせたら絆されるからダメとか思っているんだろうか。
レイムは後ろの戸棚から乾燥させた薬草の束を選んで取り出していた。レイムがカウンターの中を動くたびに、ふんわりと薬草の香りがする。
何か手伝えることはないかとノアはカウンターテーブルの上を見渡した。レイムが炉の上に置いたガラス瓶の紫の液体からは、ふつふつと泡が出ていた。
「ねぇレイムさん。これ、この薬って混ぜたらいいの? 俺、手伝うよ」
「おい、バカ、触るな!」
ノアがガラス瓶の中に入っている薬匙に手をかけた瞬間、レイムの慌てた声が後ろから聞こえる。
「え?」
ノアが炉の前で瓶の中の薬品を一回だけくるりと混ぜたときだった。ノアの鼻腔に独特な甘い匂いが届いた。ノアの許容量を超えた匂いの情報に頭がパニックを起こす。びっくりして胃がひっくりかえりそうだった。猫の耳と尻尾が出ている状態なのを忘れていた。獣の特徴が出ているときは人間の状態よりも強く周囲の刺激を感じ取ってしまう。
「ッ、ぁ」
強烈な薬品の香りに涙で目が潤む。そのまま、ふらふらと後の棚に倒れかかり床にペタンと座り込んだ。
「おい! 大丈夫か!」
レイムに呼ばれて顔を上げると棚の一番上の白い瓶が一つぐらぐらしていた。危ない。落ちてくる。そう思ってノアはぎゅっと目を閉じた。
けれどいつまで経っても頭の上に衝撃は訪れなかった。
床の上で目を開けると、ノアはレイムに肩を抱きしめられていた。
「レイム、さん」
落ちてきた薬瓶からノアは庇われていた。
「……仕事の邪魔をするなら出ていけ」
静かな怒りの声だった。
「れ、レイムさん! 大丈夫、怪我、薬が……」
カラスみたいに真っ黒な長髪と服は、瓶の中に入っていた薬品がこぼれて濡れている。液体は床にシミを広げていた。
「別に。死ぬような薬じゃない」
「でも」
レイムの髪から落ちた雫がノアの腕に落ちた。液体がノアの服に染みて肌に当たる。
それは氷のように恐ろしく冷たい液体だった。一瞬で腕が凍るように冷たくなる。こんな液体を頭から被ったレイムの寒さはノアの比じゃないだろう。
「お、お湯沸かさないと」
ノアは慌てて立ち上がった。同じように床に座っていたレイムに向かって手を差し伸べた。けれど、ぴしゃりとノアの手は振り払われてしまった。
「いいから向こうへ行け! お前は二度とカウンターの中に入るな!」
伸ばした手、体がその場で固まってしまう。
「ごめん、なさい、俺」
ノアの謝罪の声が震えた。
薬品を頭から被ったせいで、レイムの白い肌がいつも以上に青白く不健康に見えた。
「――分かったから。ここにある薬品は危険な物が多い。だから近づくな」
レイムは床を見つめたままノアと目を合わせてくれない。
「うん。ごめんなさい、二階の部屋に行きます」
「あぁ」
さっきまで獣化していたノアの猫の耳は、いつの間にか消えて無くなっていた。
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