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第27話
唇の、優しい感触。
それが、夢のように思えた。
「あ……」
「あんたはさ、簡単なことを、難しく考えすぎるんじゃないか?」
シンが言う。顔は、まだ、近い。鼻先が、触れあいそうだった。
「自分の、気持ちを自覚すると言うことでしたら……、それは、そんなに簡単なことではないと思いますが」
「難しく考えるから、解らなくなるんだろ」
そういうものだろうか、と私は思い。もう一つ、気になって、シンに問いかけた。
「私はあなたが好きですが……、あなたは、どうなんですか?」
シンが、盛大に顔を歪める。なにか、おかしなことを言っただろうか。
「あんた、それ、本気で言ってる?」
「……冗談に聞こえますか?」
「勿論、好きだ。なんで、解らないかな。鈍すぎる……好きじゃなかったら、あんたが色仕掛けをしようとしたのをあんなに怒らない」
顔が、熱かった。
「……あの、それなら、なぜ、あなたは、……お店に居たときのことを、語ろうとしたのですか?」
「いや、そこは、気になるだろう? 俺が、前に付き合っていた恋人のことと、どんな商売だったか。これは、あんたに語っておく必要があるだろう。あなたと、ちゃんと、付き合うなら。勿論、あんたが……俺の元の恋人とかに、嫌な気持ちになるとは思ったけど、あんたには、それが必要だと思って。あんたは、こういうことに慣れていないようだから」
それは、私と向き合って、付き合っていくために、必要なことなのだと、シンが思っていることなのだ。シンが、私に誠実に向き合うことを思ったときに、過去の話をしておく必要があると思ったのだろう。
「だって、さ……あんた、絶対に、そのうち勘違いし始めるから」
「勘違い? 私が?」
「そうそう。まだ、元の恋人に心があるんじゃないかとか、常連客の中に、本当は好きな人がいたんじゃないかとか」
私は返答出来なかった。まさしく、そういうことを、考えるだろう。お見通しなのが、恥ずかしくてたまらない一方で、私は、それを、理解して貰えていると言うことが、嬉しくもあった。
「そういう私は、嫌じゃないんですか?」
「度をこしたら、ちょっと辛いと思うけど……嫉妬の一つもされないよりマシかな」
「そう、なんですね?」
見苦しい嫉妬。うらやましいと思ったこと。そういう、今まで知らなかった感情を、私は持て余しているし、どう付き合って行けば良いのか解らない。ただ、シンは、私の気持ちは否定しないのだと、それだけは、確信出来た。
「そうそう。とりあえず、聞きたいことは全部答えるし、今から、ちょっと、あんたは聞きたくなかったかも知れない話をする」
私は「はい」と、答えた。シンがここへ来て、どんな苦労をしてきたのか、向き合わなければならない。
「じゃ、部屋に行くか」
そう、シンが私を誘ったときだった。ぽつん、と私の頬に、大きな雨粒が当たった。気がつけば、空は、酷く黒くて厚い雲に覆われている。雨降ってくるかも知れない。そう思っているうちに、天から落ちてくる雨粒の量は一気に増えた。
「……これじゃ、戻る間に、濡れるな……」
「少し、雨宿りを。急な雨は、大抵去るのも急です」
私は、庭園の四阿を指さした。急いで駆けていけば、それほど濡れずに済むだろう。
「そうだな、じゃあ、急ぐぞ!」
私たちは四阿へと急いで駆けた。四阿に駆け込んだ瞬間、雨脚が一気に強くなった。まるで、水の帳《とばり》が張られたようだ。私の居館は見えなかったし、あたりは、雨の音で、何も聞こえない。何かが潜んでいたらどうしようか、と一瞬思った。しかし用心に越したことはないが、誰かが潜んでいるはずもない。
「大丈夫か? 濡れていないか?」
シンはの短い髪が、少しぬれていた。肩の辺りも。それを見て、私は気がついた。さりげなく、私を雨から庇っていたのだ。私は、少しも濡れていなかった。
「ありがとうございます」
申し訳なく思うより、私は、感謝を伝えたかった。シンは、すこしそっぽを向いて「別に、このくらい」と言う。少し、照れているようだった。胸が、くすぐったいような、温かな気持ちになる。ああ。シンと出会ってから、私は、自分の心に『温度』があるのを知った。シンと一緒に居るとき、暖かかったり、柔らかな気持ちになったり、胸が熱くなったり。様々な温度を感じている。今までの私は、そんなことも知らずに生きていた。
四阿に並んで座り、私は、水の帳で隠されているのを良い事に、シンに、抱きついた。シンも、私の肩を抱き返してくれた。
「どの、話からしようかな」
「……では、あなたが、ここに来てから、娼館に入るまでの話を、詳しくお願いします。初対面の時は、事実だけを伝えてくれました。感情も混ぜずに」
「そうだった。……あの時は、神殿が面倒を見てくれるって言うから、とりあえず、三食心配しなくて良いならと思って来たけど……結果、大正解だったな」
「それならば良かったですが」
「まあ、まず、事故ったときの話は少ししたよな。アレは、帰宅ラッシュの駅だった。女の子が、貧血で落ちたんだ。線路に。それで、電車も隣の駅を出発したばかりだった。とっさに、気がついたら、線路に降りてた。そしたら、一緒に、大学生くらいの男の子と、俺と大差ないくらいの年齢のサラリーマンが、降りたんだ。それで、三人で、なんとか、女の子を助けようとしたけど、結果間に合わなかった。
それで、気がついたら、みんな、森の中だったんだ。女の子は、まだ、ぐったりしてて、サラリーマンは怪我をしてた。俺は、無事だったから、ちょっと周りを探ってくるって言い残して、その場を離れたんだ。そうしたら、三人は、黒装束の……騎士っぽい奴らに連れて行かれた。どうも、そいつらは、俺たちがそこに出現するのが解っていたらしい」
その話は、私は初耳だった。
「どこに出現するか、解っていた?」
「えっ? ああ……そう。そうなんだよ。解ってたみたいだ。それで、さらわれたんだ。でも、三人も居るのは解らなかったみたいだ。六百年前のクロノも、一人で来たみたいだったし」
私は、顔をしかめた。
大神官の交代。それを『表向きの儀式』として、神殿では『本当の儀式』が行われる。それが、異世界人の召喚だった。その内容は、私は感知することは出来ない。神殿でも、どんな立場の者が、それを執り行うのかも、私は解らない。ただ、神殿の『どこか』で行われると言うことだけが、報されているだけだ。
けれど、召喚した張本人が、異世界の民がどこに現れるのか解らなければ―――広い大陸中を一人一人捜しあるくしかなくなるだろう。それは、現実的ではない。つまり、神殿で、異世界人を召喚したものたちの中には、確実にテシィラ国に通じている者がいたと言うことだ。私は、目眩がしそうだった。
神殿に、機密情報を横流しした者が居る。そして、それは―――ここ最近のことではなかった。召喚が行われたとき。私が大神官に就任した時点からのものだったのだ。
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「……黒装束の奴らが去るのを待って、それから、日が落ちる前に移動したんだ。森っぽいところにいたから、もしかしたら、獣とかが現れたらマズイと思って。それで、なんとか、街まではたどり着いたけど、異世界の格好だから、目立つだろ? それで、なんとか、服とか手に入れないとどうしようもないと思って、道具屋に行ったんだ。
それで、会社に通うのに持ってたカバンとか、革靴とかは売れたかな。あと、時計も売れた。オヤジから、就職祝いで貰ったスイスの機械式時計で、あれは、値打ちが解ったんだと思う。それと、ユリに贈ろうと思って用意してた、指輪も、良い値段で売れた。それで、とりあえず、服と、宿はなんとかなった。酒場が旅人用に、仕事を斡旋していると聞いたんだけど、俺は、体格が良くないって、まず門前払いでね……。
そろそろ、路銀が底をつくかなっていう時になって、娼館の女主人が声を掛けてきたんだ。
金が欲しいのかって。
それなら、うちで働けって。代金は、向こうが八でこっちが二。だけど、客が取れないときでも、置いて貰ってる間は、食事と寝る場所の面倒は見て貰えるということだった。それに、客の中には、特別に、小遣いをくれる人もいるから、その分は、全部、俺の取り分だって」
売れなかったのは、スマホと、筆記帳と筆記具。それ以外のものはすべて売って、しのげた期間は、そう長くはないのだろう。この世界の相場を知らないシンは、おそらく、良いカモだったと思う。二束三文で買いたたかれたと言うこともあるだろう。
「危険だとか、そういう警戒はなかったのですか?」
「勿論警戒はしたよ。でも、俺の場合は、明日食べる飯がなくて、今日寝る場所がないんだ。だったら、売れるのは、自分だけ……正直な話、抵抗がなかったわけじゃない。男娼、って、女の人が買いに来るのかなとか思ってたから、男に買われるってのは、想像してなかったけど」
「あなたのいた世界では、男娼は珍しいのでしょうか?」
「多分ね。俺は、少なくとも、知り合いはいない……ただ、同性を好きになる人っていうのは、結構いたと思うよ。だから、男に買われる世界があるっていうのは、全く理解していなかったわけじゃなくて、自分に関係があるとは思わなかった。それだけなんだ」
「あなたには、女性の婚約者がいたのですし、当然だと思います」
ユリ。明るい微笑みの優しそうな人だった。彼女と、幸福な未来を作っていくことを夢に見ていただろう。それを思うと、胸が苦しくなる。
「自分が、身体を売る……ってなったときは、やっぱり、怖かったし、嫌だったよ。受け入れる方を……やってたんだけど、最初は、気持ちが悪かった。ずっと、暗記の文言を頭の中で繰り返してたよ。でも、だんだん、慣れてきた。というより、慣れないと、やってられなかった。
無抵抗の……、受け入れ役ってのが珍しかったみたいで、朝から晩まで、何人もの男を相手にしてきたよ。最初は、人間の男が多かったけど、獣人の男とかも、混じるようになった。ババアがさ……娼館の、女主人のこと、みんな、ババアって呼んでたんだけど。あいつがさ、本当にやり手で……。俺の客が多いって解ったら、値段をつり上げやがったんだよ。それで、まあ、身体は楽になったんだけど……」
つまり、『売れっ子』になったから、客を選べる立場になったと言うことだ。それまでの間、一日中、男たちの相手をしてきたのだろう。目頭が熱くなった。けれど、今は、絶対に泣いてはいけない。私が、同情するのは、違う。
「獣人の方が、お金を持っていたと?」
「そういうこと。……っていうか、貨幣だけじゃなくて、いろんなものが物々交換出来るような辺境だったんだ。だから、可能だった。それで、獣人の人たちは、獣の皮とか、竜の鱗だとか、貴重な宝石、他国の情報とか、とにかく、いろんなものを持ってたんだ。だから、少し位値段が上がった俺を買うのなんか、訳はなかった」
一度、シンは、言を切って、私の頭を撫でる。
「獣人の人たちは……結果、みんな、優しくていい人ばっかりだったよ。まあ、実際、仕事の時は、かなり、苦労はしたんだけど」
「苦労……」
シンが、少し言いづらそうにしてから、私の耳元に小さく囁いた。
「アレの形が、人間と違ってて」
アレ。私は、一瞬、何を言われているのか良くわからなくて、戸惑ってしまった。アレですか、と聞くのは簡単だったが、解らないで、適当なことを言うのは良くないだろう。シンが、私の手を取る。そして、そっ、シンの中央へと私の手を導いた。
「っ!!!!!」
慌てて、私は手を引っ込める。ほんの、一瞬だけ、彼に、触れてしまった。私は、恥ずかしくて、全身から火が出そうだった。ほんの一瞬だったけれど、確かな、感触があった。
「……それ、ですか」
「うん、これ、なんだけど」
先ほどから、アレとか、それとか、これ、とか。そんな言葉でぼやかして話しているのが、なにやら、おかしくなってくる。ただ、ほんの一瞬だけでも、シンが、私を触れさせてくれたのは、少し嬉しかった。性的な接触は、もう商売でうんざりしているという可能性も否定出来ないからだ。
「あ、でも……凄い、気持ちは良かったんだよ。調子が悪いと、入らないときとかもあるんだけど……それは、まあ、それで……」
「では、私から伺いたいことが」
「えっ?」
シンは、質問されるとは思っていなかったようで、意外そうな顔をした。少し、狼狽えたようにも見える。
「あなたに、読書用の魔石を下さった竜族の方」
「ああ……。えーと、あの人は、多分、俺が、獣人の人たちを相手にするようになって少ししてから通い始めて、それから、ずっと、通ってくれた人。ただ、話だけするときもあったよ。いろんな話をしてくれたと思う。竜族の話とか。あの人は、もう、竜族が滅べば良いと思ってるんだってさ。もう、獣人が生きることが出来る時代は終わるだろうって。俺のいた世界の話も少しして、俺の世界には、獣人は居なかったから、ヤッパリって顔をしてた。
それで、あの人は、奥さんを取らないことにしたんだって。そうすれば、この代で、子孫が絶えるから。でも、竜族って、凄い、飢えるんだって。その……繁殖の期間って言うのがあってね、そのタイミングになると、凄く性欲が増すっていう……。子孫は中々出来ないんだけど、繁殖可能な期間って言うのが、割と多いらしい。それで、しょっちゅう、来てくれたよ」
緩慢な滅びを望んだ竜族の人は、飢えのような性欲を満たすために、シンの所に向かったのだろう。シンは、ただ、彼らを受け入れたのだろう。そして、彼らを、癒やしていたのだと思う。今まで、娼婦のことは、金子《きんす》次第で誰とでも交わる存在―――つまり、汚らわしい存在だと認識して居たが、シンの言葉を聞く限りでは、もっと、尊いもののように思えた。
勿論、一日に何人もの客を取っているような生活では、一人一人の客に寄り添うことは出来ないだろう。だが、シンは、そうしてきたのだ。だからこそ、それが、尊い。
「あの魔石も、あんたに渡そうか?」
シンが問う。
「いえ、あなたが持っていた方が良いと思います。……その方に失礼でしょうから」
「でもさ、あんた、嫉妬はしてたと思うんだけど」
指摘されて、言葉に詰まったが、少し考えてから、正直な気持ちを口にした。
「勿論、何も思わないということは、ありません。……あなたの気持ちが、その方にあるのではないかとか、いろいろ、余計な勘ぐりはします」
「だから」
「でも、それならば、あなたが、私をもっと、信じさせてくれれば問題ないはずです。竜族の方のことも、ユリのことも」
シンが、苦笑する。
「ちゃんと、ルセルジュだけ見てろって?」
端的に言えば、私の要求はそうだ。よそ見をするな、過去を振り返るな。あなたの目の前にあるのは、現在と、いずれ現在になる未来だけだ。
「……俺は、絶対、あんた以外に目移りしないけど、あんたは、例の国王陛下とか、誘惑があるからなあ……」
「では、次、寝所にでも誘い込まれたら、舌を噛んで自決します」
第一、そんなことにならないように、私が細心の注意を払えば良いだろう。静かに言い切った私の言葉を、「じゃあ、俺もそうするよ」と言って、シンは、少し笑った。
そういえば、私は彼の笑顔を、拒絶だと思っていたことがあった。けれど、今は違う。私にだけ向く笑顔は、拒絶ではなかった。
「ではお互いに気をつけましょう? あなただって、あの神官のような、不届き者に誘惑されないとは限らないわけですから」
そして私達は顔を見合わせて、笑った。
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