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第47話

 目覚めは、最悪だった。  夢の中で、私は、テシィラ国の国王の腕に抱かれ、彼から受ける甘美な快楽を享受していた。私の意思に反して、テシィラ国の国王の肌を楽しみ、熱を受け容れ、私から腕を伸ばして、それを貪っていた。その、感触や、知らないはずの肌の匂いまで、まだ身体に残っているようで、生々しい。  私は―――肉の快楽を、覚えたばかりだ。まだ、それに飽くほど、経験は無かった。だから、誰でも良かったのだろうか。シンには、そういうことになれば舌をかみ切って自決すると言ったのに、私は、その舌を、テシィラ国の国王の欲望に纏わせて、彼を悦ばせた。快楽さえ、得られれば、なんでもいいのか。夢の中の出来事とは|雖《いえど》も、自分の欲望の深さにはあきれ果てたし、私自身に幻滅もした。こういう浅ましい私を、シンは見ていたのだろうか。それならば、シンが、愛を捧げるのに相応しくないと思っても、致し方のないことだった。  ともあれ、私は今日、シンの顔をまともに見る自信がなくて、一日薄紗を掛けて過ごすことにした。時折、神官はこうした|羅《うすもの》を掛けて過ごすこともあるので、不審には思われないだろう。  スティラには、「如何なさいましたか」とは聞かれたが、「夢見が悪く、邪気を受けたようですので」とだけ伝えれば、それで良かった。そのこと自体は、間違っては居ない。 「あまりお休みになれなかったのでは? であれば、少々、ご休憩のお時間をもたれたら……」 「いいえ、構いません」  動いていた方が気が紛れる。大神官として、あるまじき執務態度だ。信徒や神官たちが聞けば幻滅するだろう。愛する人に幻滅され、そして、今度は、神官たちにまで幻滅されれば、私は、どうすれば良いのか。大神官を退いて、各地を旅して回ろうか。そんな風に、思考が、やさぐれていく。  スティラのため息が、小さく聞こえた気がした。シンの態度は、表向きは変わらない。だから、私は余計に混乱する。それとも、私も割り切れば良かったのか。シンとは、ただ、熱を求め合うだけの冷え切った関係だと。それは、やはり、私が、嫌だった。  シンの部屋を、視界に入れたくなくて、私は北の離宮の客室に宿泊することにした。シンと初めて、夜を過ごした、あの時に使った部屋だった。この部屋には、思い出があるから、胸が苦しくはなるが、余計な執務も持ってくることは出来なかったため、六百年前の異世界の民・クロノの手記を翻訳する他は、やることもない。スティラに仕事を取り上げられたのだ。 『今から、寝る間もないほど忙しくなります。式典ではそうなるでしょう。ですから、大神官様は今は、体力の温存にお勤めください。その美貌を、万全に整えていてくださいましね!』  などと強い語気で念を押されてしまったため、致し方ない。スティラは過保護な嫌いがあるが、私が倒れるわけには行かないというのも厳然たる事実ではあるだろう。私には、この神殿を束ねる『大神官』として、やらなければならないことが沢山あるし、そして、それは、現時点では、私にしか出来ないことだった。  クロノの手記は、あとわずかだった。  そして、私はこの言語に長けているわけではないのに、この手記を読めていることにも、違和感があった。この手記をシンは、『難しい』と放棄したはずだった。難しいことはない。クロノは、割と簡便な言葉を使って、日々の暮らしを箇条書きにしている。シンは、ありとあらゆる言葉を、母国語のように使いこなすことが出来る。それを、異世界から来たときに、授かった力―――ではないかとシン自身が想像していたが、そういうものなのだろうと思う。クロノも、言葉で苦労をしたようなことは書かれていない。そして、それならば、この程度の手記を、シンが放棄したのが、ひっかかっていた。 『一、|兵部《ひょうぶ》|尚書《しょうしょ》殿に対面。夕食を|相伴《しょうばん》。次の戦について。|余《よ》は、西方にサリティレトゥ殿の軍にて参戦。  一、国王陛下の名代として、近侍武官殿が来訪。西征の下知ありにて、明後日の出立。』  この程度の文章を、シンが読みこなせないとは思えない。ならば、なぜ。思考が、どんどん、嫌な方向へ行く。私にたいして、彼は、恋に溺れるなと警告をした。私の心など、シンは手に取るように解っている。私が、どう行動するかも。けれど、それを、彼は、制止する。  そして、手記は、クロノが西方との戦争に参加するという段になって、出立前日の記述になった。その日が、最後だった。手記は、あと数葉のこっている。翻訳を試みるには、すこし時間が遅い気がしたが―――。  なんとなく、決まりが悪いような気がしたし、ここだけ、妙に長い記載があるのが気になって、少しだけ訳してみることにした。 『一、ソレル殿来訪。余、酒食を相伴。ソレル殿……』  ソレル殿、というのはクロノの恋人だった。戦へ出立する前に、彼は、クロノのところを訪ねたらしい。ソレル殿は文官で、戦に相伴しなかった。戦へ出れば、命を失うこともある。だからこそ、最後になるかも知れないという思いを込めて、ソレル殿は、クロノを訪ねたのだろう。そして、ソレル殿は、クロノに思わぬ言葉を告げる。その言葉を見た瞬間、私は、呼吸が、出来なくなった。 『クロノ。元に居たそなたの故郷へ、そなたを帰そう』

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