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第49話

「……国王陛下。おいででしょう?」  私の声に、程なく反応があった。慌ただしく内部の気配が動く。そして、すぐに、天幕から、国王が出てくる。しどけない、夜着のままだった。胸元が大きくはだけていて、逞しい胸の筋肉が明らかになっていた。なんとなく、目のやり場に困った。国王は、私を見て、意外そうな顔をしていた。 「なぜ?」 「|鳩《使い》をよこしたのは、陛下、あなたでしょう」 「そうだが、一日早い。それに、本当に一人で来るとも思わなかった」  国王が心底驚いているのを見て、私は、すこしだけ愉快な気分になった。 「明日でも今日でも同じことです。ところで、冷えるのですけれど……私を中へいれてはくださいませんか?」 「失礼した……。あまりに唐突な奇襲だったので、驚いた。あなたは、いつも、私を驚かせる……そのような薄着では冷えるでしょう。なにか……」  なにか、あったのですか―――という問いを、私は好まなかった。作り笑いを浮かべる。一瞬、国王が、息を飲んだのが解った。 「|猊下《げいか》、どうぞ、お手を」  差し出された手を、私はためらいなく取る。温かな手だった。今は、何でも良いから、この暖かさが欲しかった。 「こんなに、冷えて」 「あなたが、ラドゥルガなどと仰るので、この暗い中、森をさまよいましたよ。おかげで冷えました」 「……では、こちらへ……。少し、温まった方が、良いでしょう。お風邪を召されます」  返事もせずに、私は彼の誘いに乗った。天幕の中には、寝台にもなる長椅子と、その向かいに一人がけの椅子があったが、私は、彼に抱かれたまま、長椅子に向かった。暖かかった。椅子に座ったまま、彼は、黙っていた。私も、何も言葉はなかった。  天幕の中は、暖かかった。訳がわからないが、涙だけが出た。何のための涙か、解らなかった。 「……猊下は、私をどの程度お調べになりましたか」 「先々代の王の子であるということと、あなたを産んだ母上が、身分が低い方であったと言うことと、それと、あなたが、ある日突然、王に召喚されたというところまで」 「概ね。それで私の出自は当たっています……では、私の出身は?」 「それは調べが付いていませんでしたが、ここがあなたの出身の村だったのでは?」 「あたりです。ここは、小さな村でした。けれど、聖遺物があったので、神殿からは、神官が派遣されていました。その方が、神殿について語ってくれるのを聞くのが、私は、好きだった。ラーメルと言いました。私の四つほど年上の、美しい神官でした。私は、神の存在を信じていましたよ。ずっと、見守っていてくださると信じていたから、この小さな村で、裕福ではありませんでしたが、満ち足りた日々を過ごしていたのです」  国王が、私の髪の一房を手に取って、そこに口づける。敬虔な巡礼者が、神の彫像の足に口づけるような、真摯な態度だった。 「……三十年前、なにがあったのです」 「直接、私の目で見たことではありませんが……神殿の手で、ラーメルが惨殺されました。むごたらしい殺され方だった。その、死体が、私のところに送られてきました。当時、私は、首都に召喚されていたのです。王子であると言われて、ある日唐突に、恋人からも引き裂かれて。連れられたのです」  国王が、私の肩口に、顔を埋めた。  恋人、というのは―――その、神官だ。神の教えを説いたその神官が、その神の為に惨殺されたのだろう。 「……私が去った後、ラーメルが殺されました。私は、一刻も早くラドゥルガに戻りたかった。なにが起きたのか、知りたかった。けれど……なにも出来なかった。それより先に、あの聖遺物が使われました。そして、村が消えた」 「だから……一体、なぜ……」 「……聖遺物の使い方を知るためには、供物が必要でした。その条件に当てはまるのが、ラーメルだった。そして、ラーメルが捧げられ、聖遺物はその使い方を暴かれました。このあたりは、生き残った者から聞き出した話です。マーレヤの母親が、私に語りました。  そして、その聖遺物は……神の落とした兵器でしたが、その力を発揮するには、人の命を必要とした……。ラドゥルガは、ラドゥルガの民たちの命を使って、消滅したのです」  おぞましい武器だ。愛する人と、故郷を、そんなことの為に失ったのだとしたら、この国王が、神を呪うのも、仕方がなかった。私は、唇を噛む。 「……あなたも、生まれてすぐに、神殿に連れてこられて、神殿のために苦しんで来られた。神殿の為に、御身を犠牲にされた。あなたも、苦しんだから、私のところにいらしたのでしょう?」  私は、苦しかったのか? 大神官であることは、私の苦しみだっただろうか。それは、もはや、今はよく解らない。 「……猊下。私は、あの日から、なにをしてもむなしいのです。私は、あなた方、神殿に復讐することだけを夢見て生きて参りました。霊峰に、変事があるのは時間の問題だと思っておりました。六百年前も、偶然に聖遺物が使われてから、霊峰に変事があったのです。私は、その時を待ちました。異世界からの民を、私が手に入れれば、強大な力を手にすることが出来る。それは、知っておりましたから。三十年も掛かりましたが……その間に、力を蓄えた。大神官が、私を無碍に扱えぬほどの強大な力を得ましたよ」  国王の顔は見えないから、どういう表情をしているのか解らない。 「……私は、なぜ、あの時。三十年前、ラーメルをさらって首都へ行かなかったのか、彼を……、神の教えから引き剥がすことが出来なかったのか。本当に、そればかりを、考えていました」  苦々しい声をしていた。もしかしたら、国王が、許すことが出来ないのは、三十年前の、自分自身なのかも知れない。 「はじめて、あなたにお目に掛かったのは、いつだったか……五年前の、大神官の就任式であったか」 「そうでしょうね。私は、それまで、神殿外の誰かに会ったことはなかった」 「あの瞬間、私は、……運命を、神を、心の底から憎みました。なぜ、あなたはラーメルが生まれ変わったように、彼に似ているのです。あの時のまま、時が止まったように、あなたは……」  私に、執着していた理由は、こんな理由だったのか。ラーメルという、神官と、私が似ているのは多分、単なる偶然だろう。そして、私は、国王の思い出の人のような、善良な人間ではない。  耳元に、小さく、絞り出すような声が聞こえる。 「……私の側にいてください」縋り付くような、声だった。「あなたが、あの異世界の民を思っているのは知っています。けれど、私のものになってください」  それは、ラーメルという人の代わりだろう。私が、欲しいわけではない。思わず、苦笑が漏れた。誰も。誰も。……私を必要とする人は居ない。この男の、熱っぽい眼差しも、私ではなく、三十年前の恋人へ向くもの。やけを起こしていた気持ちが、すう、と冷えていく。 「離しなさい」 「……猊下、どうぞ、一晩でも私に慈悲を」  みっともなく縋り付く男が、滑稽でたまらなかった。私は、声を上げて笑った。 「はははは……っ!!」  必死で、幻に縋り付くこの男を、私は、心の底から軽蔑出来た。身体に巻き付いてくる腕を振り払う。 「……そんな……、夜着一枚で……来たんだから、あなたにも、そのつもりはあったのでしょう?」  必死さが、哀れで滑稽で。ああ、人間というのは、こういう、無様な存在なのだ、と私は理解した。この男のように、私も、シンに縋り付いて、彼からの愛を泣いてせがんでいるのだ。醜悪で、醜悪で、そして、哀れだった。この男も。そして、私も。 「もっと、うまく、誘ってくれれば、一晩くらい楽しめましたのに」  私は、笑う。顔を歪めて、あざ笑う。国王が、息を飲むのがわかった。 「お前の神殿を、私は滅ぼすぞ! お前の大事な異世界の民も、一番むごたらしい方法で……」  殺してやる、と言おうとしたのだろう。私は、笑った。ふんわりと笑った。そして、国王の唇を指で触れる。 「……それは、かつて、あなたの恋人が、神殿にされたことです。同じことをして、神殿と同じ所まで堕ちますか?」 「っ……!」 「……宣戦布告でしたら、後日受け付けます。けれど……私は、あなたの我欲で、私の大切な従者を失ったのです。それを、私は許しません」  息の掛かった者だったのかも知れない。  けれど、私にとって、マーレヤは、私の神官だ。それを、死に追いやったのは、道具として使ったのは、この男だ。私はそれを許さなければ良い。 「あなたは……なぜ、ここに来たんです。猊下っ!」 「そうですね」と私は少しためらいつつ、素直に答えることにした。「私にも、いろいろな事が起きるのです。ですから、私は……あなたに縋り付くつもりで、多分ここに来ましたが……」 「えっ……?」 「興が削がれました」  国王は呆然としていた。私は、だから、ことさら、優しく彼に微笑んだ。 「今から、一晩楽しもうという相手に……誰かの身代わりだなんて、そんな侮辱を受けるとは思いませんでした。それと、あなたは、私のことを……全く潔癖なものだとでもお思いでした?」  私の目の前で、国王は、口をぱくぱくとさせている。 「本当に、酷い侮辱を受けたものです。私は、誰かの身代わりにされるほど、安くありません。この代償は、高く付きますよ」  私は、立ち去ろうとして立ち上がり、踵を返す。後ろから、国王が抱きついて、腕の中で、私を自分の方へ向かせた。彼から受ける、欲望の眼差しも、今は気にならない。私を好かして、他の誰かに向いているものを、私が気にすることはない。急に口づけをされても、その舌をかみ切れば良かった。口の中に、鉄の味が溢れて気分が悪くなったが、それより、いい気味だとしかおもわなかった。  そして、私は、呆然とする彼をおいて、天幕を出た。

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