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第50話

 天幕を出た時、東の空が少し白み始めていた。  私は、マーレヤから預かっていた『愛の証』を、手近な所に埋めてやった。  このまま、神殿へ戻っても良いが……、私は、少し、頭を冷やしたかった。近くの村に行くことにした。多少の装飾品があるので、それを売って、宿と、服と、それと馬を借りることにした。  テシィラ国側の村だと、あとで面倒なことになるかもしれないので、神殿領の村にした。私の格好は、酷い格好だった。旅装にはほど遠い夜着姿だったので、なにか、問われるかも知れないとは思いつつ、近くの村まで、日が高くなるまで歩いた。  村に入ったとき、人目を集めたことが恥ずかしかったが、「神殿へ行こうと思うが、旅支度が整っていないので、手持ちのものを売って、なんかとかしたい」と言うと、私が、どこかから逃げ出してきたワケアリの巡礼者だと勘違いしたらしい。 「……いろんな人が居るからね。でも、神様にお祈りしたら、全部、良くなるよ。大丈夫だよ」  村の老婆は、私にそう言ってくれた。私が手持ちしていたのは、細い指輪と、同じく細い腕輪くらいだった。それと、夜着も絹では出来ていたが……、売っても、それほど高価なものではないだろうが、一通りの旅装と、宿を用意してくれた。  その間に、怪我をした人がいるというので、私の力で、治療を行った。その人たちから、旅支度を少々譲って貰った。 「あんた、こんなことができるなんて、神官になった方が良いよ」 「本当に、大神官さんも美人だって言うけど、あんたには敵わないだろうしね……きっと、凄い神官になるんじゃないかな」 「大神官様は、美人なんですか?」 「ああ、巡礼の土産物で、姿絵を貰ったことがあるけど……、本当に、美人だったけど。なんでも、冷たい人だって聞いたよ。けが人なんか、放っておくんじゃないかな」  思わぬ評価に、耳が痛い。多分、シンと会う前の私ならば、きっと、そうだっただろう。私がすれば数秒で終わる治療も、私はしなかっただろう。それが、私だ。私は、少しは、ましな人間になっているのだろうか。シンに恋をしたことで。それならば、少しは嬉しいし、彼に恋をした甲斐もあるだろう。愛を受け入れて貰えなかったけど、私は、良い人間になることが出来た。それならば、私の失恋には、大変意味があった。 「滅多なことを言ったら、神殿兵に首をはねられるよ……」 「おお、そうだった……」 「神殿兵……?」 「ああ、そうですよ……。三十年くらい前から、このあたりは、兵隊がいてね。神殿は、兵隊を持てないんだけど、傭兵を雇っていて……それで、不都合な者は、全部殺していくのさ。いやな噂話でも流していたら、一発さ。だから、あんたも気を付けるんだよ」  神殿の兵士、といえばサジャル国の兵士だ。だが、彼らが、そんな強硬なことをしていたのは知らなかった。まだ、私には、知らないことがあるのだろう。  私は、その村で、宿を求めて一泊することにした。そこで、六百年前の手記の続きを翻訳する。  手記の、続き。  そこに、クロノの気持ちが、書かれていた。 『ソレル殿とは離れがたい。今生で、契りを交わした相手であるので、情もあるし、ここで世話になった恩もある。だが、郷里に残した妻子、|郎党《ろうとう》はどうしているのか。ソレル殿を裏切るようだが、余は、生まれ育った場所へ帰るべきである。』  クロノは、元の世界へ戻ることを選択したようだった。そして、ソレル殿は―――自ら、この話をクロノへ持っていったソレル殿は、やはり、戦で命を落とすくらいならば、郷里へ戻るように勧めたのだった。  この話を、ソレル殿が、クロノに持っていくまでの間、ソレル殿は、おそらく、大いに葛藤しただろう。そして、出征の直前になって、クロノにこの話を持っていったのだ。  私なら、どうするだろう。  おそらく、この先に、クロノを元の世界へ戻した方法が書かれているはずだ。それをしった私は、どうするだろう。シンを―――ユリの元へ戻した方が、幸せになるだろう。けれど、ユリには、もう、伴侶がいて、そして、子供もいる。シンは、あの世界では死んでいる。墓もある。あの世界へ戻っても―――シンには居場所はないのではないか。いや、それとも、或いは……事故の直後へ戻ることが出来るのか? だとしたら、シンは、ここで過ごしたことも、なにもかも、全部忘れて、そして、私のことも、全部忘れて、辛かった暮らしのことも、全部、長くて、辛い夢を見たと言うことにして、そして、予定通り、ユリに、『全財産をはたいて買った』という指輪を贈って、そして、求婚するのだ。  それが。ただしい。それが、『本来辿るはずだった』、正しい未来だ。  私達が―――神殿が、勝手な、我々の都合で、彼を呼び出して、彼の目の前にあった、豊かで幸せな生活のすべてを、一瞬で、理不尽に奪ったのだ。  その―――理不尽を、シンは、一度も、私に恨み言を言ったことはなかった。  私に、その、恨み言を訴える価値がなかったのだろう。最初の頃に見せていた、拒絶の笑顔。そのうち、心は通じたと思っていた。けれど、そう思っていたのは、私だけだろう。  クロノ自身の手で書かれた文字は最後に、一文だけあった。ただ、それは、彼の国の言葉で書かれていて、私には読めない。これを、シンは読めたのだろうか。クロノの、素直な気持ちが、この、彼とシンの母国語に詰まっているのだろう。歯がゆかった。ここにある、本当の言葉に、私は、どうしても、手が届かない。  その後、端正な文字で、少々の文章が書かれていた。ソレル殿が書き添えたものだった。ソレル殿は、この手記を、まず、神殿に送るように指示していた。クロノは、神殿によって召喚されたが、後に、一国に仕えるようになった。この手記が、その国にあってはならないというのがソレル殿の考えであった。そのおかげで、私が、今、この手記を読むことが出来て居る。 『異世界の民を元の世界へ戻すために、私は全魔力と引き換えに『神託』を得た。後世の神殿の為に、その方法を書き記しておく。私は、今から、祖国に裏切り者として粛正されるだろう。  異世界の民を元に戻すためには、異世界の民を殺せば良い。ただし、それを行うのは異世界の民が、心から愛を捧げたものに限られる。』

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