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「シュウジ、酒井先生が来てるよー」  店のほうからなまりの強いエミリーの英語が聞こえた。 「いま、行くよ」  大倉修二(おおくらしゅうじ)はエアタンクを並べていた手を止めて、声を張り上げた。 「あとはやっておくから、もう上がってくれ」  ショップオーナーのジョニーが顔を上げて言うので「ありがとう、お先に」と素直に立ち上がる。閉店時間は過ぎていたが、時間があるからと片づけを手伝っていたのだ。  店に入ると開襟シャツにカーゴパンツ姿の酒井陽斗(さかいはると)がパーテーションボードに向かって立っていた。受付スタッフのエミリーが隣りにいて笑いながら何か話している。  二人はそこに貼られた写真を眺めていた。  ダイビングショップらしく貝殻やサンゴで飾り付けられたパーテーションボードには、ラミネートされた写真がたくさん飾ってある。透き通った青い水中に浮かぶカラフルな熱帯魚やサンゴ礁は、ため息が出るくらい美しい。  リアルな水中よりも写真のほうがずっと美しく見えるわ、とエミリーは時々笑う。  ダイビングで潜る海はその日のコンディションによって見え方が変わる。  神がかり的に透明度の高い日もあれば、雨や嵐のあとで水が濁っている日もある。  自然はコントロールできないから、客がどんなコンディションの海に潜るかは運次第だ。  でも写真では一番きれいな一瞬を切り取っている。  そのベストな一枚を撮るために、何日も何度も海に潜って何百枚もの写真を撮っていることは見ている人にはわからない。  いつでもこんなに美しい海に出会えるわけではないのだ。 「あ、大倉さん。こんにちは」 「いらっしゃい、酒井先生」  振り向いた酒井は大倉を見てぺこっと会釈した。 「このマンタ、すごくかわいい顔してますね」  先週撮った二匹のマンタの写真を指差した。マンタの腹はちょうど人の笑顔に見える。  この海に引き寄せられてこの島に移住した大倉の撮った写真を、陽斗はいつも楽しそうに見ていて、その控えめな笑顔が大倉はとても好きだ。 「でしょ、ほんとに笑った顔に見えるよね」  腰から下にウェットスーツを着たままの大倉に気が付いて、あっという顔をする。 「すいません、まだお仕事中でした?」 「あら、酒井先生、いいのよ。酒井先生のキュートな顔はいつでも大歓迎よ、ね、シュウジ」  エミリーの軽口には陽斗は困った顔になる。真面目な陽斗はこういう軽いジョーク混じりの会話に、どう返事をしたらいいかいまだにわからないのだ。

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