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第2話

 問題児のピンク頭に優秀な風紀委員をマンツーマンでつけたおかげで、数日の間、風紀委員は平和な毎日を過ごせていた。  鼻歌混じりに今日もパトロールをしていると、後ろから地響きが聞こえてくる。 「りんせんぱーいっ」 「おわっ」  背後からイノシシのように突撃されて転びそうになる。腰回りに長い腕から絡みつき、背中にぐりぐり顔を押し付けられている。せっかくの良い気分が台無しだ。 「りん先輩の嘘つきぃ~ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃん~」 「言ってねえ、張りつくな」  形の良いピンクの頭を遠慮なしに拳を落とす。涙目で大きな犬は離れたが、すぐに立ち上がり背後から抱きしめ直される。こういうときに、どうしても身体の大きさを恨んでしまう。 「なんで知らないむさくるしい男なの~りん先輩がいい~それか、りん先輩みたいなかわいい子がいい~」  ちゅ、ちゅ、とこめかみや頬に吸い付かれて、鳥肌がたつ。す、と腕の中から抜けて、顎を打ち、頬を叩く。 「最初にも言ったよな?風紀委員にこうした無礼は許されないって」  血管が切れそうなほど顔をしかめて、血が沸騰する。理央はめそめそ言いながら、まだ抱き着いてこようとするのを、足払いをして、あとは屈強な体躯の風紀委員に任せて、風紀室に戻る。まだ寒気がする、と腕をさすっていると、ふと総一郎が真剣な眼差しで手元の資料を見つめているのに気づく。どうしたんですか、と声をかけようとする前に、総一郎に名前を呼ばれる。いつになく声が低く背筋が伸びる。 「学園が荒れるぞ…」  総一郎の暗い表情に、嫌な寒気が走る。渡された資料に目を落とすと、つ、と背筋に汗が垂れた。  その総一郎の言葉は、見事に的中する。  転校生、本薙 早苗がやってきてから学園の均整が大きく崩れ始めた。  最近、妙に緊張感がある食堂でいつも通り見回りがてら昼食をすませていると事件が起きた。悲鳴や食器が割れる音が辺りをつんざき、急いで振り返ると、生徒会長が誰かにキスをしているようだ。いつものようにだらしないやつだと舌打ちをすると、すぐに乾いた音が響き、キスをされていたのは転校生であり、あろうことか生徒会長を思いっきりビンタしていた。会長を一目見ようと集っていた人物や親衛隊がショックのあまり食器を割り、悲鳴が止まない。すぐに事態を見かねた総一郎が当人たちを落ち着かせていた。すぐに他の風紀委員と共にあたりを収束させる。  次の授業のチャイムが鳴っても周りが騒然とし続けていた。割られた食器類の片づけや人払いを手分けして行いながら、これからの嫌な予感が外れることを祈っていた。  あの事件から、委員長で総一郎は転校生の護衛に付きっ切りになってしまった。二年生ながらに総一郎に頼まれていまい、今は俺が風紀委員をまとめあげているが、学園内の事態は悪化を辿る一方だった。学園トップの人気者たちを集めた生徒会役員たちを軒並み手玉にとり、おまけに総一郎までもが付きっ切りとなると、親衛隊が黙ってはいられない。最近、転校生を陥れようと不穏な動きがある。早々に風紀委員が先に立ちまわって事態は表沙汰にはなっていないが、時間の問題だろう。  転校生ばかりにも気を配っていられない。いつもの業務も当たり前のようにあるし、理央のような輩も少なくはないのだ。日に日に、報告書は増えていく一方で、とにかく俺はその面倒な書類をひたすらパソコンとにらめっこしながら潰していく。総一郎が転校生の相手をしなくてはならなくなってからの間の報告書をなんとか仕上げると、外はすっかり暗くなっていた。  だから、大丈夫だろうと思ったのだ。  この報告書は、生徒会に提出しなければならない。本当は近づきたくもないのに。  もう、下校時間も過ぎているし、転校生にうつつを抜かして日常業務がおろそかになっている生徒会だ。きっと誰も生徒会室にはいないだろう。そう自分を励まして、重い腰をあげた。  書類の束とカバンを抱きしめながら何度も引き返したくなる足を無理に動かす。憂鬱極まりない。生徒会室前についてしまい、今日何度目かもわからない溜め息を大きくつく。指先が冷たい。春も終わったのに、なんでこんなに冷たいんだ。喉の奥がつまり、苦い味が口に広がっている。とにかく、部屋に入って書類をおいて終わりだ。残念なことに、生徒会室に電気が灯っており人影があるのを来るまでに見てしまった。こめかみを指でぐるぐるとマッサージをして、よし、と気合いを入れて目線をあげる。  数回ノックするも返答がないため、がちゃ、とドアを開く。室内には空席のソファーや会長席しか見当たらなかった。ほ、とひとまず胸をなでおろし、手近にあった机の上に書類を置くと、ふわりと匂いがあることに気づいてしまった。なぜ、俺はベータなのに、鼻ばかり良いのだろう。それは総一郎に買われるまで、自分の一番嫌いなところだった。  早く、ここから立ち去りたいのに、頭の中がぼうと滲み、その匂いを辿ってしまった。どうやら奥の部屋から匂っているようで、足音は毛の密集した質の良い絨毯に吸収されていた。 「あっ…いいよ…」  きしきし、と嫌な音と共に、甘いかすれた声と荒い呼吸音が聞こえて、身体が硬直した。やっぱり、引き返そう。そう思ったときにはドアの目の前で、中の光景がありありと見えてしまった。その様子に、俺は目を見張る。  シングルのベットが数台とソファが置いてある、おそらく仮眠室のソファで、二人の姿が見えた。一人は、ほぼワイシャツと靴下が引っかかってだけのあられもない姿の、絹糸のような金髪と陶器のように白い肌を桃色に紅潮させ、煽情的に大きな青い瞳を潤ませて喘いでいる、転校生だった。一目でカツラとわかるもじゃもじゃの髪の毛と分厚い便底眼鏡をいつもはかけているが、総一郎が持っていた書類を共有していたため、彼の素顔を俺は知っていた。 「あんっ、いい…きもちぃっ」  折れてしまいそうに細い腕は、必死に腰を打ちつける目の前の男を撫でる。その男に目をやった瞬間、呼吸を忘れてしまった。ぐらりと視界が揺らぎ、何とか踏ん張ると、転校生と目が合った。ゆったりと目を細めて、彼は俺に声をかけてきた。 「ああ、風紀委員の…なんて名前だっけ…」  まるで普通の会話の口調に驚いてしまう。彼の股の間では、必死に腰を振っている男がいるのに。  俺が、一番会いたくなかったアルファが…。 「総一郎から聞いた気がするんだけどな…忘れちゃった」  ごめんね、と愛らしい舌をぺろ、と出して可愛らしく微笑む彼は天使そのものだった。それよりも俺は、必死に腰を振るアルファに意識がいってばかりだった。長い金髪をさらさらと揺らしながら、意外にも逞しい背中に玉の汗を浮かばせて、荒い呼吸でたまに喘いでいるアルファ。  瞳はぼんやりと霞んでいるように見えた。涎をだらだらこぼしながら、ひたすらに腰を振り快感を得ようとしている。  そんな俺に気づいてか、天使はまたにんまりと笑って、彼の垂れていた髪の毛を掬って、耳にかけた。俺によく見えるように。 「かわいいでしょ?こんなにいいアルファなのに、僕の前では、ただの性にまみれた獣なの」  ね、海智?とアルファに声をかけるが、それは理性を失った彼には届いていないようだ。アルファの腰使いに合わせて、転校生の小さい足先がぶらぶらと揺れる。肌のぶつかり合う音とわざとらしく舌ったらずな甘えた声がやけに耳に着く。 「君にも貸してあげようか?」  あんっ、と転校生がなまめかしく背中をしならせると、アルファはびくびく、と痙攣しだす。む、とより強くなった精のにおいに、勢いよく俺は部屋を飛び出した。  まだ冷たい夜の空気が頬をかすめる。  なんで、なんでなんで…  全力で、どのオメガ性よりも遠くにある寮に向けて走る。 「りんりん」  懐かしい彼の声が耳の中で聞こえるのに、さっきのアルファとオメガの情事の音が覆い隠してしまう。  嫌だ、いやだ…  照れて眉尻を下げて笑う顔も、拙くも愛を囁く濡れた顔も、試合で見せる真剣な顔も、全部昨日のことのように思い出せてしまう。俺だけが知っている先輩だと思ってた。  俺だけを映していた美しい瞳は淀み、たくさん愛をくれた口はだらしなく開きっぱなしで涎をたらし、言葉を失った獣のような恐ろしいアルファに、どうしてこんなに胸が痛むのか。  もう過去のことなのに。  彼がどれだけのオメガと、そういうことをしてきたか、わかっていたはずなのに。  どうして、こんなに涙が出るのだろう。  好きだったのに。  俺が、好きで好きでたまらなかった、アルファは、いつから変わってしまったのだろう。

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