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第5話

 しとしとと続いた長雨はいつの間にか消え去り、蝉の声がより体感気温を増す季節に移り替わっていた。  あれから、海智の言葉の続きを聞けぬまま、大会を終えてしまった。  あまりにも、それからも海智は変わらぬ様子と勢いで接してくるので、自分の勘違いかと恥ずかしくなる夜もあった。しかし、ふとした瞬間に、熱っぽい海智の視線とぶつかることがあった。じりつく眼差しに、俺は気づかぬふりをして目をそらすことしかできなかった。  大会を終え、出場したレギュラーメンバーは現地解散となり、俺たちサポートメンバーは道具類を学校に片付けてからの解散となる。 「海智~、メシ行くべ~」 「いや、俺はこれを学校に片付けて帰ります」  主将のかすれた声にそう答えるのは、伸びの良いテノールの彼の声だった。  気づかれないように、ちらりと目をやると、大きなトロフィーを抱えた海智が、俺たち1年と同じ道を歩いてくる。周りには、愛らしい少年たちが頬を染め、今日の大会の彼の功績を讃えていた。大会で優勝した海智に何を告げられるのかということで頭がいっぱいで、ずっしりと重いスポーツバッグを二つ抱えているはずなのに、浮遊感を得ていた。  片付けと部室の清掃を終えて、いつものように一番最後の戸締りを終えて、帰路についた。日が傾き、長い影をつくる。遠くでひぐらしが鳴いていた。木陰が続く道にあるポールに、海智が腰掛けていた。俺を見つけると、すっと立ち上がる。長い手足。半袖のワイシャツ越しにわかる、引き締まった身体。柔らかい甘い顔立ちなのに、試合だと勇ましく冷たくも見える眦。  ぎゅ、と強くスポーツバックの紐を握りしめた。たら、と背中を汗がつたう。その気持ち悪さを認める余裕はない。全身が心臓になってしまったのかと思うほど、どっくんどっくんとうるさい。視界もその音に合わせて揺れているように感じる。 「りんりん」  気づくと彼は、俺の目の前に立っていた。出会ってから数か月しかたっていないのに、ぐっと身長が伸びて、目線は高くなってしまった。ぎゅ、と唇を引き締めてしまう。 「りんりん」  甘く、優しく俺の名前を囁く海智の湿度に、ぐらりと脳が揺れる。差し出された手 に、目を固くつむり、頬に触れられた瞬間に大きく身体が跳ねてしまう。心音がどんどん速さを増す。  こめかみをつたった汗を、海智の長い指が掬うと、そっと離れていった。  そろそろ、と瞼を上げると、海智は眉尻を下げて、微笑んでいた。 「せんぱ…」  やっとの思いで、唇を開くと、情けないほどに声がかすれていた。  真っ赤に固まった俺に、海智は柔らかく微笑み、帰ろう、と手をとった。いつも使う、細い歩道の暑さに喜ぶ木々の隙間に隠れながら、俺たちは少し遠回りをして、お互いに湿った手を握り合いながら、言葉なく歩いた。  次の週にあった数駅先の大きな花火大会の日に、俺たちは花火の光を浴びながら、神社の影で、はじめてのキスをした。海智の唇は、意外とかさついていた。  その日から、部室で、帰り道で、寮の裏で、時には部活動中に隠れて、毎日、キスをした。海智の瞳に、じり、と灯を感じると、それがキスの合図だった。ただ、唇を触れ合わせるだけなのに、こんなにも幸せになれるのかと、海智と一緒にいる毎日は、多幸感に満ち溢れていた。  全国大会も終え、先輩たちが引退をした秋。すっかり夜は冷えてしまうようになった。自主練を終えた海智と落ち合い、帰路につく。  握られた指先は冷えていた。 「もう、冬みたいですね」  冷たい指先を親指で撫でる。ぴくり、と動いたと思い、顔をあげると、あのじりついた瞳で海智は俺を見下ろしていた。俺だって、成長期に入り、身長は少しずつ伸びた。それなのに、海智の視線は、さらに高くなるばかりだった。ずっと追っている男の身体に、すっかり身体を熱くさせてしまうようになっていた。  木々の隙間に身体を押し込まれ、吐息が唇をかすめる。睫毛を震わせながら、瞼を降ろす。ゆったりと柔らかい湿った唇が合わさる。ちゅ、と小さく吸われて離れた。そのリップ音に、さらに顔の温度があがるのがわかった。最近、少しだけ、海智からのキスの湿度があがってきているのを感じていた。温度が離れるのと一緒に、瞼を持ち上げると、彼の長い睫毛と俺の睫毛が重なりあう感覚があった。 「りん…」  かすれた、俺にしか聞こえない、あの頃より低くなって甘さの増した海智の声。ぴく、と肩が揺れてしまった。海智の冷たい指先が、襟足をくすぐり、うなじを撫でた。濃厚な溶けるような甘い匂いが俺を包む。  角度を変えて、もう一度、柔らかく唇を吸われる。一度くっつくと、離れていく唇が、何度も触れ合う、初めての快感に、膝が笑ってしまいそうになる。なんとか足に力を入れるも、自然と内股になっていく。海智の練習着を、ぎゅと握りしめる。  何度目かのキスで、上唇を熱い舌が舐めた。 「んぁ…っ」  自分から出た、初めて聞く声に驚いて、海智の肩を押す。ようやく、唇は解放され、俺は自分の口元を手で隠す。かっか、と頬や耳が火照っているのを自覚できる。じんわりと汗ばんでいることにも気づいた。  しかし、海智も同じように、頬を赤く染め、汗をかいていた。お互い、目を見張ると、海智は、とろけるような笑みを見せた。 「りんりん」  大きな身体に包み込まれてしまう。バニラのような甘い、海智の匂いで身体がいっぱいになるのがわかる。 「かわいい、俺のりんりん」  つむじのあたりにキスをして、頬ずりされてしまう。その甘い空気には、いまだに慣れない。俺は、たくましい胸元に頬を摺り寄せ、控え目に背中に手を回すことしかできなかった。  大好き。  大好き、海智先輩。  心の中では、ずっと、ずっとずっと、叫び続けている。  その言葉を、恋愛初心者の俺は、なかなか言葉にすることができなかった。

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