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第8話

 事件が起きたのは、梅雨前線が抜け、夏到来を知らせる気持ちの良い青空の日だった。テストも終わり、夏休み目前の、誰もが浮かれている時期だった。  例年と違うことは、学園に嵐の種である本薙早苗がいること。それと、全国覇者であるサッカー部、バスケ部が共に初戦敗退したことだった。  その結果が、親衛隊を爆発させてしまった。  本薙早苗が、階段から突き落とされた。犯人は不明だが、おそらく親衛隊の仕業である。本薙は命に別状はなかったし、捻挫程度で済んだのだが、黙っていなかったのは、周りの囲いである。本薙は命を狙われた非力なヒロインであり、それまでその人に尽くし、都合のいいように扱われてきた親衛隊は悪役となってしまった。本当は逆なのだが、魔性のオメガに洗脳されたアルファたちにとっては、その構図が成立してしまう。 「鈴岡さんも、おわかりでしょ?」  目の前にいるのは、現生徒会会長の親衛隊長だ。オメガらしい小柄で華奢で、大きな潤んだ瞳を持っているチワワのような男子生徒である。 「あいつのせいで、生徒会の皆様のみならず、学園の根幹を成す人々が狂ってしまっている」 手を組み、恨めしく唸るその姿さえ、庇護欲をそそられる、生まれもってしてのオメガだ。  突き落とし事件の公平かつ公正な結論を導くための仕事は風紀委員の重要な仕事だ。それに際して、目ぼしい人物から事情聴取を行っている。今までに、親衛隊長に何人も聞いてきたが、全員口を閉ざしたままだった。全親衛隊を牛耳っている彼は、最後の事情聴取の相手だった。 「もうみんな、我慢の限界なんです」 「…つまり、あなたがやったということですか?」  そう尋ねると、険しい顔をしていた親衛隊長は、椅子に悠々と背もたれに寄りかかり、小首をかしげ笑んだ。 「さあ?どうでしょ」 「じゃあ、当時、何をしていましたか?」  溜め息混じりに、手元の書類に向かいながら尋ねる。 「その時は、親衛隊での定例会でした。何なら親衛隊全員に聞いていただいても問題ありませんが?」  自信満々の声色から、おそらく周りの人物たちの証言も固められてしまっているだろうことが予想された。本当に、嵐の転校生は余計なことをしてくれた。この人たちを敵に回すと、穏やかに卒業は出来ない。 「それに」  ぎ、と椅子が鳴り、影が手元に落ちる。 「彼が消えると、城戸崎先輩も帰ってくるかもしれませんよ?」  は、と顔を上げると、すぐ目の前に、手を組んでその上に小さく愛らしい顔を乗せた親衛隊長が微笑んでいた。 「じゃあ本薙くんには学園に残ってもらわないと」  笑い返すと親衛隊長は呆れたように笑った。背中に伝う冷たい汗は、誰にも気づかれていないだろう。 「鈴岡さんの、そういう気の強いところ、僕は大好きですよ」 「由愛さんに、そういっていただけて、ベータとしても男としても、大変な名誉なことです」  中等部からこの学校にいると、それなりに付き合いのある生徒は多くなる。特に、この親衛隊長は、情報通で恐ろしい。 「本当にベータにしておくのは、もったいないお方です」  鈴岡さんの親衛隊も発足しましょうか?と朗らかに提案されるが、丁重にお断りする。 「僕は、できるだけ鈴岡さんの味方でいたいです。風紀には助けていただいた御恩もありますし」  小さな身体を抱きしめるように、目の前のオメガは手を組んだ。オメガというのは、厄介なものである。いつだって、搾取される側に回されてしまうのだ。それらを守ることは、ベータの役目なのかもしれない。だから、庇護欲そそられる彼を、俺は見捨てられないのだ。 「俺も、由愛さんとは良き友でありたい」 「嬉しい。じゃあ、ぜひあの転校生の掌握に努めていただきたいものです」  にっこりと、周りに花が飛んでいるのではないかと錯覚するほど華やかな笑顔だが、目の奥は笑っていない。本当に敵には回したくない男だ。 「冗談ですよ、僕も鈴岡さんとも、良き友だと思っています。だからこそ、あいつは許されざる者なのです」  鋭い眼光には、本薙への心の奥からの嫌悪がうかがえた。  結局、この事件は未解決とされてしまう。風紀委員ができるのは、ここまでだ。  親衛隊長たちを敵に回すことは、よろしくない。聞き取った内容をすべて報告書としてまとめる。内容はすべて、不明瞭なものだが。  これからの学園を思案し、大きな溜め息が漏れる。  やはり、俺も、あの転校生の近くで見張りをするべきか…。  先日、遭遇した総一郎が、げっそりと頬がこけているように見えたのを思い出す。体力自慢でアルファらしい体躯の彼が、一回り小さく見えた。察するに、あの転校生からのフェロモンレイプに耐えているのだろう。それでも、大丈夫だと強気で笑顔を見せてくる総一郎に、頭が下がる。憧れの先輩の力になれるなら、俺のストレスなんか気にしている場合ではない。  何度も考えた。その結果、ベータの俺が、転校生の傭兵となることが良いのだという結論で終わる。本当は、五月の段階でわかっていたことだった。それでも総一郎は、それを口にしようとする俺を笑顔で制し、自らが向かったのだ。  夏休みは目の前だ。  その間だけでも、俺で学園や彼らの役に立てるなら、尽力したい。  時計を見ると、すでに七時を過ぎていた。  そういえば、前回もこのくらいの時間だった気がする。  生徒会室に報告書を提出した際に見た、あのおぞましいアルファとオメガの光景を思い出し、背筋が凍る。今回は、提出に行こうと決意する。これを乗り越えなければ、総一郎に申し出など出来るはずがないと思ったからだ。一つひとつのトラウマを乗り越えて、俺は一つずつ、成長していきたい。  風紀委員室を施錠し、足を向ける。きゅ、きゅ、と暗い廊下に俺の足音が響く。力強く、一歩一歩、前に進める。出ないと逃げ出してしまいそうだったからだ。どくん、どくん、と心臓の音が身体に重く響く。嫌な汗が全身にまとわりついている。生徒会室前で深呼吸をし、頬を叩いてから、ノックをする。  返事はなく、震える指先でドアノブを回すと、そこは固く閉ざされていた。ほ、と安堵の溜め息がでる。全身が弛緩し、強いストレスだったことを実感してしまう。仕方なしに、生徒会のポストに書類を投函し、帰路についた。

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