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第9話
校舎を出ると、湿度の高い、生ぬるい風に包まれる。雨がきそうだ、と鼻を鳴らす。そこに、ほんのりとオメガににおいがした。もう完全下校も過ぎており、きっと俺が最後の生徒だと思っていたのに。風紀委員としての責務を全うするか、と渋々、そのにおいを辿っていく。つくづく、人より優れているということは、損なことなのかもしれないと思う。しかし、それを誰かのためにつかえる力なのだとしたら、俺はその人のために出来ることをやりたいと思ってしまうのだ。
においの先は、ちょうど、帰路にある。ベータ寮までの道のりで、小さな庭園がある。貴族が好みそうな四季折々の花が楽しめ、小さなベンチのある、知識のない人にはただの草むらにしか見えないかもしれないような、小さなものだ。街頭がほんのりとあたりを照らす。その光のもとに、二つの影があった。うちの制服だ。風紀委員の手帳が入っている胸元のポケットに手をあてながら、それに近づく。
背の高い男が、小さい男に覆いかぶさるように抱きしめていた。キスをしているらしい。こういう瞬間は、仲睦まじい恋人の逢瀬を邪魔するのは大変心苦しいのだが、致し方ない。一歩足を近づけると、強烈なフェロモンのにおいが俺を襲う。ぐ、と喉がしまり、胃が縮むような強いそれには、覚えがあった。男の影から現れたのは、美しい天使の輪を付けた金髪と、すべてを吸い込みそうなほどに透明度の高い蒼眼が遠目でも見えた。相手の男の横顔が見える。じり、と後ずさりしてしまう。ばくばく、と心臓がうるさい。
またか。
なんで、油断してしまったのか。
生徒会室が閉室していることに安堵し、こんなことになるなんて、思いもしなかった。長髪の隙間から見える高い鼻梁と、垂れ目の優しげな眼差しは目の前の天使に惜しみなく注がれていた。かつて、俺が受けていたはずの眼差しが。
固まって動けない俺に、天使は気づいたようだ。口角をあげると、目の前のアルファの唇に吸い付きながら、相手の臀部をまさぐり、股間を押し付けるように艶めかしく腰を揺らす。その瞬間に、アルファの強い催淫フェロモンがその場にあふれた。過去に嗅ぎなれた、懐かしい匂いだった。
「かいちぃ…だめだよぉ…あん」
透き通るような高い喘ぎ声に、頭の中で何かが弾けて、急いで走り出した。行き先も決めず、ただ、あの場所から遠ざかるように、とにかく走った。
なんで、先輩は、俺を捨てたんだろう。
何がいけなかったんだろう。
なんで、俺は、あんなに先輩のことが好きなんだろう。
なんで、嫌いになれないんだろう。
口の中が、血の味がして苦い。大きく咳き込むと、ぜえぜえと嫌な肺の音がする。
ちょうど、近くにあったベンチに座りこむ。こめかみが大きく揺れて、血が巡り、汗がだらだらと流れる。どさり、と足元にバックが落ちる。重力にまかせて、うなだれ、頭を抱える。
どうして、こうも俺は、脆いのだろうか。
アルファに傷つけられる人たちを、風紀委員になって多く見てきた。その度に、強く鼓舞し続けた。元気になった被害者たちに笑顔で感謝を告げられる度に、俺は強くなれたと思ってきた。
でも一番、弱く、愚かで、惨めなのは、自分じゃないか。
「…っ」
奥歯を食いしばると、鈍い音が鳴る。呼吸はいまだに乱れたままだし、苦しい。自分の感情の渦に飲まれるがばかりで、近くにあった匂いに気づかなかった。
それに気づいたときには、頭に何かがかぶさったときだった。
驚いて、それを振り払うと、渇いた音が辺りに響いた。
「え…、なん、で…」
視線を上げると、最近見慣れつつある、ピンク頭がいた。
「やっぱり、りん先輩だ」
眉尻を下げて、微笑む理央は、振り払われた手を、もう一度、俺の頭に置いた。大きな手のひらが、湿った俺の髪の毛を梳くように撫でる。理央越しに見える満月のまばゆさに目を細める。ゆっくりと、怖がらせないように理央が近づいてくる。ぼやけた思考で、何も考えることができなかった。
気づくと、大きな身体に包まれていて、鼻腔からゆったりと優しい甘い匂いが流れ込んでくる。その匂い、身体が、心が、どんどん緩んでいくようだった。
「りん先輩、俺がいるよ」
身体に見合った大きい手のひらが、頭と背中を、温かくさする。小さく息を吐くと、ひっかかっていたものが一斉に決壊するようだった。その時に、頬をずっと、涙がつたっていたことに気づく。
ピンクの毛先が、そよそよと、夏の湿った風にのって、俺の睫毛をくすぐった。
オメガを魅了する、この色男が、膝をつき、ただのベータの俺を慰めてくれている。
理央の優しさに、俺は本能のまま、すがるしかなかった。
背に手を回すと、抱きしめ直され、さらに密着度を増す。とくん、とくん、と心地の良い心音が伝わってくる。いつもの、いやらしい甘ったるいオメガのにおいは感じられなかった。ミルクのような、チョコレートのような、甘い、優しい匂いがする。もう少し、この匂いに浸っていたかった。首に腕を回し、頬を首筋に擦りつける。
「くすぐったいよ」
ふふ、と柔らかく微笑む理央は、俺の耳にしっとりとキスをした。
「俺が、りん先輩のこと、守るから」
いつになく、優しい声色で、俺にしか聞こえないように深く囁く。鼓膜への振動と、触れる吐息が心地よくて、頬が緩む。
「じゃあ、まず、ちんこ切り落とすところからな」
ず、と鼻をすすりながら伝えると、ひどい!と顔を上げて、目があった。眉間に皺を寄せた険しい顔つきの理央は、初めてみる顔で、思わず吹き出してしまう。
「同じ男でしょ?!なんて、残酷なこというの!」
声を出して笑うのなんて、いつぶりだろう。
嘘でも、理央の優しさに心から救われた。
一しきり笑うと、そのまま、もう一度、理央の肩にもたれた。今の俺は、自分が思っている以上に疲れて切っているらしい。
目をつむり、静かに呼吸をすると、ふんわりと優しい匂いが漂う。
「お前のにおい、いいにおいだな」
思わず口から漏れたつぶやきだった。すると、匂いが強くなる。不思議に思い、顔をあげようとすると、抱きしめられてしまった。
「長田?」
ぎゅう、と力強く抱きしめられる。その体温が高いように思えた。
「嫌です」
「は?」
先ほどより早い心音が、俺に伝わってくる。
「りん先輩には、理央って呼んでほしいです」
「はあ?」
冷たく返すと、しばらくの沈黙のあと、ダメですか?と小声が聞こえた。
「…おい、顔みせろ」
背中を軽く叩くが、理央は抱きしめる腕の強さをゆるめない。
「おい」
強めにばしばしと叩く。それでも理央は離さない。理央が羽織っている薄手のパーカーを引き延ばす。そうすると、しぶしぶ距離がとられる。
顔を覗くと、理央は、頬を染めて、眉を垂らした情けない顔だった。子犬のような愛らしい表情に、思わず笑ってしまう。その反応に、理央は口をへの字に曲げて、眉間に皺を寄せた。
慰めるように、頬を両手で包む。見た目より、熱い。面白くて、何度も撫でたり、押したりしてしまう。
「…先輩、わざとやってます?」
「ん~?」
むにゅ、と両頬を押し上げた情けない顔の理央に、ふふ、と笑っていると、手首を握られる。力を加えられていない理央の顔は、非常に整っていることに気づいてしまった。じ、とまっすぐで真摯な瞳が、俺をとらえた。いつものように軽くあしらうことが、瞳をそらすことが、できない。
「りん先輩…」
あ、と思っていると、理央の瞳がどんどん近づいてきた。それに合わせて、瞼が降りていく。ふ、と湿った吐息が唇をかすめたときに、急いで顔をそむけた。
お、俺…いま…。
全身が、心臓になってしまったかのように、ばくばくと鼓動がうるさい。
なんという自然な流れで…。
「りん先輩…」
攻めるような、薄暗い声が近くで聞こえる。今、視線を合わせたら、絶対にしてしまう。・・・何を…?
ぐるぐると頭の中が、同じようなことを反芻していると、ふいに、頬にちゅ、とかわいいリップ音が鳴った。
「さ、もう遅いです。送りますよ」
手首を引っ張り起こされて、立ち上がる。落ちていたカバンを理央が拾い上げて、軽く払ってくれる。当たり前のように、握りしめられた手を払う気になれず、理央は、わざわざ遠い、ベータ寮まで俺を送り届けた。俺の姿が見えなくなるまで、軒先で手を振っていた。寮の部屋に入ると、同室の生徒たちに顔が真っ赤だと心配されてしまった。
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