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第14話

「じゃあ、また明日」  いつもの帰り道、いつものクスノキの下。  一度、帰り道で遭遇してから、必ず毎日の帰り道を海智と共にあるようになった。言葉はなく、ただ手をつないで、隣を歩き、別れ際にキスをされて、彼の背中を見送る。  毎日、キスをされるとわかっていても、胸は期待でときめき、ダメだとわかっているのに、うっとりと口づけに酔いしれてしまう。  唇を離したあとの、とろけるような海智の微笑みに、求めていたものが、満たされていくような多幸感が俺を支配してしまうのだ。  ダメだとわかっている。  何度も、この気持ちを打ち消すために、空手や風紀の仕事に勤しんできた。それなのに、理由もわからない、何を考えているかもわからない、彼の気まぐれの行動を、喜んで受け入れてしまう簡単な自分が、情けなくて、嫌いだった。  明日で、一学期が終わり、夏休みとなる。  本薙に絡まれてから、あれ以降、特に目立った悪さもなく、穏やかな日常を過ごせていた。総一郎も少しずつ生気を取り戻し、一安心していた。やはり本薙早苗というオメガの力は絶大なのだと思う。たった一人の人間がこれほどまでに他人を、学園を巻き込んで、善も悪も、力を漲らせ、動かしてしまうのだから。  俺自身もあれ以降は、決められた毎日を過ごしているだけだった。よく覚えてもいない。ただ気づけば一日が終わっている。訳のわからないまま、理由を聞く勇気もないまま、海智とキスをして一日が終わる。答えを教えてほしいくせに、それを聞くと、この関係が終わってしまうようで、聞けもしない。ずるい自分。あの頃よりも、弱くなってしまったような気がする。どうしてだろうか。その答えも、誰も教えてはくれないのだ。 「新しい嵐もやってきて、桐峰学園風紀委員会始まって以来の壮絶な一学期がようやく終わる。本当に、みんな、よくやってくれた」  小ステージを借りて、風紀委員の全体会が行われた。  総勢六十名の風紀委員の代表を取り持つ総一郎が前に立ち、俺たちへねぎらいの言葉をかける。 「待ちに待った夏休みだ。それぞれ、当番を忘れずに羽目をはずし、多いに青春を謳歌してくれ」  委員長がそれ言っちゃだめだろ、と曽部の突っ込みが入り、笑いが起きる。久しぶりの全体会が和やかな雰囲気で終われたことはとても嬉しい。ステージの脇でほ、と胸を撫でおろす。そのあと、夏休みのパトロール当番表について連絡を行い、会は終了となる。久しぶりに会える総一郎のもとに、多くの風紀委員、もとい総一郎のファンが集まる。そのファンの一人に俺も入る。誰に対しても快活で大らかである総一郎はずっと憧れだ。改めて人望の厚さを目の当たりにする。 「凛太郎」  名前を呼ばれ、振り返ると曽部が穏やかな顔つきで立っていた。小走りで曽部のもとへ行く。 「曽部先輩、一学期、お疲れ様でした」  頭を下げると、曽部にわしわしと頭を撫でられてしまう。確かに俺とは二十センチ近く身長差があるが、男としては少し複雑だ。しかし、曽部はいつもこうなのだ。俺を弟か、はたまたペットか何かと間違えている節がある。 「凛太郎がフォローに入ってくれて、本当に助かった。ありがとう」  中等部時代、同じ空手部にいた憧れの曽部から珍しい礼をもらえて、顔が熱くなる。 「いえ、俺なんかまだまだで、何も…。結局、委員長や曽部先輩あってこその一人前なんだと痛感しました」  謙遜ではなく、本心だ。何をしてても、結局二人がどこかで助けてくれていた。それに情けなさも感じるが、愛情も感じて嬉しくなる。 「そろそろ俺らも引退だからな。でも、凛太郎がいてくれるから、俺らは安心して引退できる」 「もう引退できると思ってるんですか?卒業まで、みっちり働いてもらいますよ」  お互い笑いあう。こうした冗談も受け止めてくれるのが、曽部や総一郎の懐の深い愛情を感じる。 「夏休み、あいつは外で過ごすらしいから、安心して楽しんでくれ」  穏やかな微笑みと共に、頭を撫でられる。あいつとは、本薙のことだろう。  その情報に、胸を撫でおろす。ありがたい。  曽部も、総一郎や生徒会員ほどの上位ではないが、アルファだ。あのオメガは毒でしかなかっただろう。改めて、ねぎらいの言葉と感謝を伝え、別れた。  会場の片づけを後輩に任せ、先に会場を出る。本当は、俺も一緒に片付けを行いたかったが、視線の合わない理央と同じ空間にいることが息苦しくて、逃げ出してしまう。そうなってしまった事実に、喉の奥に大きな重りが詰まっているかのように苦しい。しかし、仕方ないのだ。アルファとベータでは、住む世界が違うのだから。  そう思っている俺を、目線が合わないようにしながら、理央がずっと、熱く見つめていることに気づけるはずがなかった。  学園の門を出ると、いつからそこにいたのか、どうやって俺のスケジュールを知っているのかわからないが、いつものように海智が待っていた。俺を見つけると、りんりん、とあの頃と同じ呼び名で近寄ってくる。俺も足を進め、目の前に立つと、目を細め、手を取り、指を絡めて歩きだす。 「あ」  初めて、海智が声を上げた。何事かと顔を上げると、にやにやと笑う海智が木についていたものを俺の目の前に出す。 「蝉の抜け殻?」 「そう、かわいいね」  そして、俺の頭にそれをつける。別に昆虫は苦手ではないが、いい気分はしない。 「ちょ、先輩、とってくださいよっ」 「あはは、似合ってるよ」  からからと笑う海智の笑顔を、当時以来に見た、と思った。そんなことを思っている俺に、蝉の抜け殻を髪の毛からはがした海智が気づいた。はた、と目が合う。柔らかく微笑んだ海智は、抜け殻を木に戻して、その姿勢のまま俺に尋ねた。 「ねえ、りんりん…。できれば、アドレス、もう一回教えてもらえない?」  え、と時が止まる。  教えて、どうするのだろう。と考えてしまう。 「夏祭り、行かない?二人で行った、あの」 「でも…」  昨日の昼、大きな声で本薙が会長たちとそんな話をしているのを聞いた。「みんなで行った方が楽しいだろ?」とわざとらしい大きな声で周りによく聞こえる声で。副会長が渋々、そうですね、と乗り気を見せていた。  それが伝わったのか、海智は振り返り、眉尻を下げて寂しそうに笑った。 「先約がある?」 「いや、ありませんけど、先輩は…」 「じゃあ、決まり!」  ふ、と肩口がすぐ目の前にきて、バニラの香りが強く匂い、どき、としている間に、ポケットに入っていた携帯をするりと抜け出されてしまう。それを目の前に出されて、小首をかしげた、あざとい海智に絆されてしまう。昔から、この顔に弱かったのだ。  パスコードを入力し、携帯を起動させると、海智に取れられて、操作されてしまう。 「俺の番号とアドレスは変わってないから」  はい、と返される。画面を見ると、メッセージアプリで海智のアイコンが出ている。当時と変わらない、猫のゆるキャラだ。変わらないそれにすらも、心が揺れてしまう。本当は、あの曖昧な時間に連絡をとろうと何度もした。でも勇気がでなくて、もだもだしているうちに、誤って携帯を水没させてしまい、完全機種変更と初期化、という事態になってしまった。それをいいきっかけだと思い、番号もアドレスもすべてを一新させていた。でも、海智は何も変わっていない。 「りん」  大切に名前を囁かれて、顔をあげると、ちゅ、と愛らしい音を立てて唇が触れ合った。 「楽しみにしてるね」  潤む瞳が、俺だけを映している。頬をほんのり染めた海智がすぐそばにいる。  その事実が、俺の心を強く揺さぶる。小さく、首を縦に振ると海智は、頬に軽くキスをして、離れていった。頭がもやがかったように、ぼう、とその背中を見送っていると、入れ違いにやってくる人物がいた。

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