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第22話
「りんは、どう思う?」
「お、れは…」
頭の中がぐるぐるしている。本薙との、さっきの様子が頭の中をしめている。それをどう処理していいのか、わからない。海智は俺の答えが出るのを、優しく待ってくれている。わからない。どうすればいいんだ。ゴールの見えない混沌の中で、困り果てる。いっそ、ここから逃げ出せればいいのに、とすら、思ってしまう。
「…何か、聞きたいことがある?」
海智が色を失っていく俺の顔を見て、優しくつぶやいた。少しためらいながら、小さくうなずいた。
「教えてもらえると、嬉しい」
嬉しい、という言葉選びに、心がほぐれていくのを感じた。伝えても、いいのだろうか。でも、嫌われたら、どうしよう。嫌われるくらいなら、我慢すればいい。ぐ、と手を握ると、そこに結ばれていた指にも力をこめる形になってしまう。
「りん」
名前を囁かれて視線をあげると、まっすぐに真摯な瞳が射抜いてくる。その瞳が、俺の言葉を待っていた。震える唇で、俯きながらなんとか声にする。
「さっき、何してたんですか…?」
たったそれを聞くだけなのに、なんて情けないんだ、と涙もにじんできた。返事がこない、少しの間すら怖くて、やっぱり言わなければよかったと吐き出した言葉に強く後悔する。やっぱり、俺が我慢すればよかったんだ。
「すみません、やっぱり、なんでもないで…」
「さなのこと、だよね」
ぱん、とまた花火が上がる。顔をあげると、苦しそうな海智の顔があった。聞かなければよかった。今、海智の口から、あの人の名前を聞くだけでも、内臓が締め付けられて、気持ち悪いし、何より苦しい。
「たまたま会っただけだよ。何もしてない」
「…嘘」
つい、ぽろ、と口から零れてしまった。もう止められなかった。
「キス、してた…あいつの機嫌を取るために、先輩が、自分で…」
「してないよ」
海智は、きっぱりと言った。その顔は、真剣で、まっすぐだった。嘘をついているようには見えなかった。
「う、そだ…」
「嘘じゃないよ」
それでも、信じられなかった。
「だって、におう…」
「におう?」
「俺、ベータだけど、わかるんです…フェロモンの、におい…」
海智は、少しだけ眉をぴくり、と反応させたが、すぐに先ほどと変わらない表情に戻す。
「さなは、すぐにくっつくから、移っただけだよ」
「だけど…っ」
「キスはしてない。でも、キスをねだられたし、されそうになったのは事実だよ」
その言葉に、がん、と頭を殴られたような痛みが走る。ぐわん、と視界が揺れる。
「でもしてない。俺には、りんがいるから」
両手で左手を包まれて、縋るように見つめられた。
「替わりに、ピアスをあげた」
ほら、と垂れていた髪の毛を耳にかける。気づかなかったが、海智の耳には軟骨部分に一つだけ丸いシルバーのピアスがついていて、耳朶にはピアス穴だけがあった。
「姉ちゃんに入学祝いでもらった、お気に入りのブランドもの」
確かに俺がこの目で見たのは、されそうになっている場面だけだ。そのあとは、総一郎に声をかけられて、すぐにそちらに気を移してしまったからわからない。
情けなく眉毛を下げて、へら、と笑う海智が何だか痛々しく見えてきて、喉がつまる。
「マジでお気に入りだったんだから…でも、それよりも、今の俺には、りんが必要なんだ」
そ、と海智の手が顔に伸びてくる。今度は、それを避けない。恐る恐る、その手は頬に添えられて、目元を撫でる。
「りん…返事、聞いてもいいかな」
はらはらと火の粉がこぼれ日のように俺たちに降り注ぐ。
優しいその手に自分の手を重ねて、頬を擦る。
「俺も、あの時を、やり直したい…」
最後の大きな大きな花火が打ちあがり、観客を魅了する。その時、俺たちは再出発のキスをした。歓声が遠くで聞こえる。この世界には、たった二人だけのようだと陶酔していた。
花火が終わり、駅に向けての人波に乗って、俺たちは手をつないで歩いた。先を歩く先輩の揺れる毛先を見つめながら。
唇が、じん、と甘く痺れる。誓いのキスは、余韻としてずっと響いている。その痺れを誤魔化すように、下唇を柔く前歯で噛むと、余計に先ほどのキスの甘さを思い出して、足が重くなるような疼きが生まれてしまう。
先輩。
心の中でつぶやくと、つないでいる指先が撫でられる。言葉に出ていたのかと思い、口元に手をやるが、その手に唇が触れてしまい、瞼が重くなる。
そんなことをしていると、あっという間に駅についてしまう。
「りんは、寮に帰る?」
「は、はい…」
急に振り向かれた海智に驚くが、帰り道の確認で肩を落としてしまう。それが伝わってしまったのか、海智は、目を細めると、そっと俺の頬を撫でて、改札口を通る。一緒に電車に乗り込む。同じような浴衣の人がたくさん乗車し、ぎゅうぎゅうと人と人とを押しあってしまう。日頃、電車なんて滅多に乗らないし、こんな人だかりも久しぶりで困っていると、海智の腕に包まれて、身体が翻る。ドアと座席の角に身体を置き、その後ろに海智が立つ。夜闇の中のガラスに反射して海智を見える。ぎゅ、と手すりを握る。ハイトーンの長髪が似合う、高い鼻、垂れて甘い目元、ふっくらと柔らかい唇、尖った顎、引き締まった男らしい身体。周囲のカップルの女の子たちが、ちらちらと海智を見ているのに気づいてしまう。俺なんかが隣にいてすみません、という情けない気持ちと、こんなにかっこいい海智は俺のなんだと大声で自慢したい気持ちとが織り交ぜになる。こんな気持ち、四年前も抱いていたな、と小さく笑う。
がたん、と電車が大きく揺れ、海智の身体が密着される。耳元で、ちゃり、と金属音がして、少し顔を傾けると、すぐそこにシルバーのアクセサリーが見え、視線をあげると美しい横顔があった。記憶の中よりも、ずっと大人っぽく、かっこよくなったと思う。その瞳がまっすぐ向いていることを良いことに、見惚れてしまう。すると、くす、と急にその端正な顔が破顔する。何事か、と思うと、視線がこちらにやられる。
「りんりん、見すぎ」
ばれてたのかと思うと、耳まで熱くなる。顔を前に戻すと、ガラス越しに海智と目があう。これだと、そりゃバレバレじゃないか…。頭を目の前のドアにぶつける。また大きく電車が揺れて、余計に頭を、ごん、と大きくぶつけてしまう。
痛…、と心の中でつぶやくと、反対側のドアが開く音がした。その隙に、身体を簡単に反対に回されてしまう。ドアが閉まる音がするのを、海智の胸元で聞く。がたがたと電車が動き始めると、ぎゅう、と身体がさらに密着され、ドアと海智の身体に挟まれてしまう。
「ちょ、せんぱ…」
目の前は、着物の衿から見える、シルバーのネックレスとくっきりと浮き出た鎖骨でいっぱいになる。む、と強いバニラの香りに、鼓動がさらに加速する。
「満員電車って、大変だねぇ」
そう笑いながら言う海智は、俺の頭に寄せる。その甘い触れ合いに、身体が心底喜んでしまっている。
「…はい」
小さく返事をして、さらさらと心地よい浴衣を少しだけ握りしめた。
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