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第32話
「すまない、遅くなった」
がさがさの声で風紀室に入ると、今日の相方である笹野がスルメをかじったまま、大きな目をまん丸に見開いた。
「せ、せんぱ…ど、どど…え、ええ…??」
がた、と椅子を倒しながら立ち上がり、おろおろと手を動かしている。それを笑いながら、自分の席につく。泣きすぎたせいで、瞼も頭も重かった。おまけに身体も心も重い。それでも、俺は風紀委員だから。唯一救いだったのが、信頼できる後輩の笹野が今日の相棒であることだ。
「み、みず…」
しどろもどろにうめき声のように一人で焦っている笹野は小さい冷蔵庫から麦茶を出して、俺に一杯もってきてくれた。礼を告げて、受け取り、ぐう、と一杯あおる。じわ、と火照った身体に冷たい液体が染みわたっていく。
「もう一杯!」
「っ、はい!」
がん、と机にカップを置くと、すぐさま笹野が継ぎ足してくれる。それを数回行ったあと、おもむろに立ち上がった俺を笹野はびくつきながら見ていた。水道に向かい、じゃばじゃばと制服が濡れることも気にせずに顔を洗う。そして、ばんっと大きな音を立てて頬を叩く俺に、笹野は多くびくつく。
「笹野…」
「はひっ!」
シンクに、前髪から伝った水滴がぽちゃん、と落ちる。後ろの笹野は相変わらずびくつきながら、変な裏返った返事をする。
「…俺は、誰だ…」
「り、り、凛太郎、先輩、でふ…」
「俺は、誰だ」
「しゅ、鈴岡、りん、ちゃろう、先輩でしゅっ」
「俺は誰だ!」
「鈴岡凛太郎副委員長れふ!」
「そうだ!俺は!鈴岡凛太郎副委員長だ!」
「はひっ!」
振り返って声を張ると、笹野はペットボトルの麦茶をきつく抱きしめ、やや涙目になりながら、背筋を正して飛び跳ねながら返事をした。もう一度、頬を強く叩いて、近くにあったタオルでごしごし顔を拭う。
「あ、ああ…そんなに強く擦ったら、先輩のかわいいお顔が…」
笹野が横でそんなことを震える声で言っていたが聞こえない。タオルから顔をあげると、重い瞼に力を入れる。
「笹野、迷惑かけてすまなかった」
まっすぐ向き直って、頭をさげる。
「い、いえ、凛太郎先輩のためなら、なんだってしますよ!」
頭を上げてください~!と涙声で叫ぶ笹野に向き合う。
はあはあ、と息を切らしながら、俺を心配そうに見上げる笹野に心が温かくなる。こんなに良い後輩を持って、幸せものだ。
「ありがとう、笹野」
俺、頑張るから。自然と緩む頬で、微笑みかけると、笹野は、ほわ、と頬を赤らめた。二人して、照れ照れと笑い合うと、ぽかぽかと温かい気持ちになる。
「笹野といると、心が安らかになる」
「せ、先輩…っ」
ぐう、と胸元を握り締めた笹野は、振り返り、壁に額を打ちつけた。
「だめ…凛太郎先輩には、理央くんがっ…だめっ…」
何か呻きながら蹲る笹野の背中をさすると、びく、と大きく身体が跳ねて、涙目とぶつかる。大丈夫か?と声をかける。
「僕、一生、凛太郎先輩についていきましゅ…」
「あ、ああ、ありがとう?」
「これ、あげましゅ…」
そう言って、入ってきたときにかじっていたスルメの新しいものをくれた。実家の名産品らしい。有り難く受け取っておくと、それぞれ自分の席について、書類の整理と二学期に向けた準備を行う。
笹野のおかげで、その日は冷静に仕事を遂行することができた。
お詫びだ、と言って、昼飯は、夏休み中は縮小営業している購買で買ったものを全額おごる。それじゃ悪いといった笹野が、小さな紙パックのりんごジュースをくれた。よく飲むお気に入りのメーカーのもので驚いていると、「先輩はこれが好きだって、理央くんが教えてくれました」と笹野は満面の笑みで教えてくれた。ちくり、とまた心臓が痛む。
「え?僕、なんかまずいこと言いましたか…?」
「いや、なんでもない、嬉しいよ、ありがとう」
にっこり笑ってストローをすすると、笹野は頬を染めながら、はい、と答えた。
あとは僕がやっておきます!と巡回が終わった後、そういう後輩に甘えて、帰路についた。自室の机にカバンをおろし、携帯を見る。電源を消さずとも、静かな携帯には、誰からのメッセージも着信もない。勝手にショックを受けている自分のふがいなさに苦しくなる。少しでも、海智が「どうしたの?」と優しく気にかけたメッセージを送ってくれるんではないか、折り返しの電話をかけてきてくれるんじゃないか。理央が何か甘い言葉を送ってきてくれるんではないかと、自分本位な夢を抱き、砕かれ、傷ついている。いつから、自分はこんなに欲深で傲慢な人間になってしまったのだろう。苦しくて、その場に膝をついて、うずくまってしまう。俺が決めた、信じた選択は間違っていないはずだ。そうやって自分を慰めるしか、今の自分を保てる方法がなかった。海智との楽しかった日々を思い出せ。それを糧に、海智を信じよう。笑い合えた、体温を分け合った、あの瞬間を思い出そう。
すぐにシャワーを浴び、その日は夕飯も取らずに、すぐにベットに逃げ込んだ。
翌日の風紀当番は俺ではないため、寮でゆっくりと仕事を進めようと思っていたのに、一人になってしまうと何も進まない。同室のメンバーたちは、皆、部活動で出払っている。静かな部屋では、ずっと同じことを考えてしまう。仕方ない、と、制服に着替えて、風紀室へと向かう。
そして、風紀室に入った瞬間に、俺は後悔することになる。
「あれ、凛太郎じゃん」
宇津田が俺に気づき、手をかざす。彼の目の前にいる男は、見もせずに、そのまま、一学期提出分の部活動予算報告に目を通している。俺が入ってきても、何も反応を示さない理央に宇津田は訝し気な顔を向ける。俺も、痛む心臓を覆い隠して、自分の席に荷物を降ろす。
「笹野はどうした?」
今日の当番は、宇津田と笹野のはずだった。しばらく沈黙があった後、仕方なしに宇津田が口を開く。
「ああ、笹野は、熱中症?っぽいらしくて、理央と替わったんだ」
「そう、か」
「宇津田先輩、ここ、ゼロ一個多いです」
理央のよく通る声が聞こえて、どきりとしたのに、その声も、目線も、もう俺を映していない。書類を引っ張るふりして、下唇を噛み、苦しさを紛らわす。
「だーっ!なんで生徒会の仕事を俺らがやんなきゃならねえんだよ!!」
他にもいくつか細かい指摘をした理央に、宇津田が吠える。
「ふざけんな!俺は実働部隊なの!こういう数字は頭がいいやつがやることだろ!」
宇津田の言う通りだった。実際、風紀委員がこんなに書類とにらめっこすることは、一般委員であればない。生徒会が承諾した書類の最終チェックを委員長が取り締まることが常だが、今は、生徒会がためている書類を俺たちが少しずつ、せっせと消化している。なぜなら、この書類が滞ると困るのは、一般生徒たちだからだ。
以前の生徒会なら、こんな書類、一瞬で片付けられる。それだけ、能力の高いメンバーがそろっているからだ。生徒会メンバーと言われると、顔と家柄の人気投票だと思われがちだが、その実は違う。まず、そのメンバーに推薦されるためには、知力、体力、カリスマ性を備えた優秀な人材であることが絶対条件だからだ。必然的に、そういったメンバーは、顔も家柄も優秀であることが付属として付きまとっているため、いつしかそれが逆転していることになっている。特に、会計を担当している海智は、数字には強かった。こんな報告書、ちら、と見ただけで、脳内でざっと計算が終わり、間違えを見つけられる。
そんな簡単なことなのに、なぜ見てもらえないのか。
理由は、ひとつだった。
「あ~、もういっそのこと、あの転校生様、誰かと番わねえの?」
「…宇津田、不謹慎だぞ」
本薙早苗という存在の登場により、生徒会が機能していないのだ。あいつを中心に、生徒会は回るようになってしまったからだ。
しかし、宇津田の発言はオメガを侮辱するものだと思ったから止めた。
オメガがアルファと番えば、そのオメガはそのアルファにしかフェロモンを出さないし、性的な干渉も他のアルファでは強い拒否反応を示し、そのアルファ限定にしかできなくなる。だから、本薙が、どこかのアルファと番ってしまえば、海智は、解放される。
薄暗い気持ちになっていると、宇津田はお構いなしに続ける。
「そしたら、もうフェロモンも巻き散らかさないで済むし、そのアルファが全部面倒みてくれんだろ?」
アルファのオメガへの執着というものは、すさまじいらしい。遺伝子レベルで組み込まれた宿命に、アルファとオメガは逆らえない。引き合って離れられなくなるらしい。運命の番、という存在も、アルファとオメガにはあるらしい。よく、そういった恋愛創作物を耳にした。
しかし、俺たちベータにはわからない。
「なあ、理央。あいつのフェロモンってそんなすごいわけ?」
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