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第31話
まだ静かな早朝に俺は、風紀室の扉を開けた。久しぶりに人がやってきた部屋は、少し埃っぽく、窓をあけて換気をした。ひそやかに蝉が鳴いているだけの静かな森が気持ち良い。
しばらく、空気を楽しむが、もたもたしていられない。急いで、必要な書類やパソコンをカバンに詰め込む。施錠をしっかりとして、ベータ寮へとさっき歩いたばかりの道を、重いカバンを下げながら足早に戻る。
携帯を開き、宇津田とのトーク画面を開く。昨晩、見回りの当番を替わってもらう連絡は取ったのを今一度確認する。しかし、俺にしか出来ない仕事もある。そのために必要なものを早朝にわざわざ取りに行った。それには理由がある。足を止めた俺は、大きく溜め息をついた。
今日から、学校は再開となり動き出す。再開、といっても、学校が解放されるだけであって、一般生徒の登校日は九月からだ。部活動や委員の生徒たちは動き始める日が今日だ。つまり、また、あの風紀室で俺は、理央と毎日のように顔を合わさなければならない。
理央は一時期連絡は減ったものの、また最近、多くなってきた。電話も日に何度もかかってくる。しかし、一回も出たことはない。自信がなかった。
寮の中にいれば、他のバース性の生徒と顔を合わせることは不可能だった。アルファとオメガが規制されているのはわかるが、ベータまで、と最初は思っていた。その話をしたら先輩から、昔、ベータの生徒が後天変異でアルファだかオメガだかになったことがあったらしい。という話を聞いた。そんなこともあるのか、と初めて知ったが、都市伝説的なものかもしれないと言われたのをよく覚えている。それはそうだ。国が運営しているバース性の判定は、確実なものだ。今後の人生を左右させる可能性がある検査がいい加減なものであってはならない。
噂の真偽はわからないが、どんな事情があれ、侵入が禁止されている寮の仕組みに、今は感謝していた。
「おい、凛太郎…聞いてねえぞ…」
寮の食堂で夕飯をとっていると、目の前にどかっと宇津田が倒れるように座り込んだ。
「今日は急に悪かったな、助かった」
「そうじゃない…おい、お前…自分の犬くらい、自分で面倒みてくれよ…」
げっそりとした顔で宇津田は俺をにらみつけた。え?と首をかしげると、既視感を感じる。この悲壮な顔、前も別の人物で見た気がする。
「お前の大型犬、ずっと纏わりついてきて、なんでりん先輩いないんですか?俺もベータ寮に連れてってください!って、キャンキャンキャンキャン…」
理央のセリフをわざと裏声できらきらさせて物まねする様子がおかしてく、笑ったら、宇津田はさらに肩を落としながら文句を続けた。
「痴話喧嘩は虎も食わねえっていうだろ…」
「それを言うなら、犬も食わない、だ」
スプーンでカレーを掬って一口頬張る。
「んなこたぁ、どうだっていい!とにかく、俺の平穏無事なスクールライフのためになんとかしろ!」
目を見開いた宇津田は、俺のとっておいたクリームコロッケをつまんで、一口で平らげてしまった。その事実に眉根をきつく寄せてにらみつける。ふん、と鼻を鳴らして宇津田はふんぞり返る。
「いいか、人間な、思ってることは口にしなきゃ伝わんねえんだよ」
的を得たことを言われて、身体が固まる。
「凛太郎はもとから抱えすぎなんだよ…周りにぶつけまくれよ、じゃねえと変わらねえぞ」
びし、と指を指されて、その指先を見つめてしまう。宇津田は非常に下半身に忠実な男だが、やはり人生の酸いも甘いもある程度経験があるようで、彼の真剣に言うことが外れた試しがないのは付き合いの中で知っていた。
「特にあのわんこは、凛太郎の良いサンドバックだろうよ」
にやりと笑った宇津田は、何をためらうんだ、と肩をすくめた。
「自分の嫌なとこさらして、それでも好きだって言ってくれるやつが本物だぞ」
大事にしろよ、と額を小突かれて、宇津田は去っていった。珍しく宇津田をかっこいいと思い、その後ろ姿を見ていると、急に振り返り走って戻ってきた。
「この貸しはでかいぞ?食堂一週間…いや、二週間分でチャラにしてやるから!」
それか凛太郎の兄さんがやってる会社の美人セクシー秘書か清楚系かわいい受付嬢の紹介があるなら次も替わってやるよ、と鼻息荒く言われて、げんなりしてしまう。
部屋に戻り、理央からの着信がうるさくて電源を落としていた携帯を起動させる。予想通り何十件も着信、メッセージがあり、溜め息が漏れる。
明日も宇津田に頼む予定だったのだが、あの様子だと申し訳なくなる。きっと宇津田のことだ、渋々ながらも了承してくれるだろうことが予想される。しかし、理央のせいで埋もれたメッセージの中に、総一郎からの安否を気遣う連絡がきていた。今日、再開初日もあって、総一郎は風紀室に顔を出してくれたのだろう。罪悪感にちくり、と心が痛む。
副風紀委員長としての仕事を放棄してはならない。たった一人の後輩から逃げようとずるいことをしている自分が恥ずかしく情けなくなる。おまけに、笹野や宇津田といった気のいい仲間に迷惑もかけている。
決心しなければ。
すい、と画面をスクロールすると、思わず息を飲んでしまう。まさか、と思い、震える指でトーク履歴をタップする。あの日以来ぶりに、海智からのメッセージが届いていた。
『今日から学校だよね?がんばってね』
海智からの温かい言葉に、簡単に心臓が躍り出してしまう。朝に着ていたそれに急いで、礼のメッセージと頑張る旨を書いて送る。数分見つめるが、返信も既読もない。
このタイミングで送られてきたメッセージに、やっぱり決心しようと前を向く。室内は空調が効いていて心地よいはずなのに、額から汗が落ちてきた。
ぎゅ、と目をつむってから、ゆっくりと深呼吸する。理央とのトーク画面を開き、明日の朝、会いたい旨を送った。どきどきしながら、送信ボタンを叩くと、すぐに既読がついて、かわいい柴犬がOKと丸をつくっているスタンプが送られてきた。
『早く会いたいです』
すぐさま送られてきたメッセージに、どくんどくんと心臓が跳ねる。
なんで、理央はすぐに俺に気づいてくれるんだろう。
なんで、理央は、俺が欲しい言葉を知っているのだろう。
でも、決めたんだ。俺は、自分の選択を信じるんだ。
時間と場所を送って、すぐに携帯の電源を落とした。
よく眠れなかった霞がかった頭のまま、待ち合わせの場所へと向かった。ぎらぎらと朝日が俺と突き立てるように降り注ぐ。いつもは季節らしい気候だと思うのに、今日は、攻め立てられている気がした。太陽すら、理央の味方なのか、と。
重い足取りを何度も叱咤し、公園へと向かう。夜、海智と本薙のことがショックで泣き腫らしたところに、理央が通りがかって慰めてくれた、あの思い出のベンチに。
木陰のかかったベンチには、もう理央が座っていた。待たせないように早めに出たはずだが、理央は風に毛先を揺らしながら、そこにいる。髪の毛が少し短くなった。でも、顔つきはより男らしく凛々しいものになった気がする。こんなに、魅力的な男だっただろうか。遠目に、つい見惚れてしまう。すると、急にこちらを振り向き、立ち上がった。何かセンサーでもついているのか、と驚く。
「りん先輩っ」
俺を見つけると全速力で走ってきて、涙目で抱き着いてきた。しっとりと汗ばんだ身体が気持ち悪いはずなのに、理央のものは不思議と嫌ではない。ふわりと香る、理央の甘い匂いも心地よい。
でも、俺は、今日、これらと決別しなくてはならない。ぐ、と目元に力を入れる。
会いたかった、とぎゅうぎゅう抱きしめる身体を引き離す。
「りん先輩…?」
尋ねるように理央が俺を呼ぶが、喉がはりついて声がうまくでない。そんな俺を理央は、じっと待ってくれる。情けなくて、視界が滲んでくる。する、と手を大きな手に掬われると、理央はベンチへと導いた。そこに腰を下ろすと、暴力的な日差しをさわさわと揺れる木々が守ってくれる。
「何かあったんでしょ?」
待っていた理央は、話しやすいように俺にふってくれた。ずっと膝にある自分の手を見つめていると、大きな両手がそっとそれを包む。大切なもののように、優しく。
「俺はずっとりん先輩の味方だよ、力になる」
柔らかい声色と力強い言葉に、さらに心臓が締め付けられる。思わず理央の顔を見上げてしまう。眦を下げて、微笑む理央の笑顔は温かい。瞳の奥では、俺を心配しているのが伝わってくる。こんなに優しい男を、俺は裏切ってしまったのか。そう思うと、口の中が苦くなってきて、奥歯を食いしばる。
「…ごめん、理央」
ぴく、と手を握っていた理央の指先が揺れるを感じた。
「俺、恋人が、できた」
昨日の夜、何度も考えた。
こう伝えたら、理央はどんな反応をするだろうかって。
以前のように強い威嚇フェロモンを出しながら怒るだろうか。
それとも、呆れたように蔑んだ目で俺を見下すだろうか。
尻軽な汚らわしい男として俺を罵倒するだろうか。
しかし、長い沈黙のあと、理央から聞こえた言葉は、予想されたものではなかった。
「そっか…おめでとう」
予想だにしなかった言葉に、沈んでいた顔を思わず上げてしまう。理央は、笑っていた。
「そっか~、そっか…そうだよね、うん…」
つないでいた手を離し、理央はベンチに深々と座って、前を向いた。前には同じような空席のベンチが街灯のもとにただずんでいて、朝日を受けているだけで面白いものは何もない。
「いや~、先輩が好きな人と結ばれるって、嬉しいことですよね?」
ね?と合わない視線で同意を求められて、うん…と苦々しくつぶやくことしかできなかった。
「だから、先輩、俺に気を使って連絡も、昨日の当番もやめたんですね?」
先輩たちに悪いことしちゃったな、と乾いた笑い声をあげた。
「り、お…」
「でも先輩、気を付けないと」
理央は俺を見ずに立ち上がった。その後ろ姿を見上げる。
「先輩、いろんなアルファのにおいがついてます。それじゃ、本命さんに怒られちゃいますよ」
振り返った理央は、変わらずに笑っていた。
「りお…」
何のことだ、と聞こうとするが、理央は俺の言葉を待たずに続ける。
「もう、先輩にまとわりつくの、やめますね」
正面から、笑顔の理央に告げられる言葉に、頭がぐらりと揺れる。殴られたのかと思うほど、どくどく、と血流が大きく聞こえて痛みを感じる。
「でも、風紀のみんなに迷惑かけたくないから、距離とったり当番変えたりするのは、出来るだけやめましょ?」
ね?と首をかしげて、俺の返事を促す。
「そ、うだな…ごめん…」
視線を落とした俺のつむじを、理央は苦虫を噛み潰したような顔で見つめていたことを知らなかった。
「…俺は今日、当番じゃないんで、帰りますね」
理央、と思わず呼び止めそうになってしまうのを、ぐ、と唇を噛み締めて堪える。
「先輩は頑張ってください」
じゃあ、と言われて、顔を上げると、理央は長い脚でずんずん歩いていってしまい、遠くに背中があった。
今すぐ呼び止めて、抱き着いてしまいたかった。
もっと、怒ってほしかった。
罵ってほしかった。
泣いてほしかった。
それでも、好きだと、すがってほしかった。
そう思っている自分に気づかないふりをする。だって、俺が自分で選んだのだから。
理央は笑顔で、俺に祝福を告げた。笑顔、だった。もう俺のことなんか、微塵も気にかけていないという言わんばかりに。
それが、答えだ。
「暑い…」
手の甲で顔を拭うと、ぐっしょりと濡れた。なぜ、と思って顔に触れると、とめどなく涙が溢れていることに気づいた。
「嘘…いつから…」
自分でも驚くほど涙が自然とこぼれていた。最後に理央には、こんな顔を見せなくてすんだだろうか。少しでも、理央に後悔させるような姿を見せたくなかった。
「はは、そんなわけ、ないか…」
理央が俺に後悔なんて、あるはずない。
俺が理央に恋人が出来たら、おめでとうなんて、笑顔を向けることなんて、きっと出来ない。
そんな発想をしている自分に疑問を持ち、あほらしいと笑い飛ばす。ばらばらと涙は止まらない。
携帯をポケットから取り出す。
ディスプレイに番号を表示して、コールを鳴らす。
俺の選択が間違ってないと、背中を押してほしい。
ただ、声が聴きたいだけ。そしたら、俺は笑顔で話しをして、電話を切って、またいつも通りの自分で頑張れる。
しかし、いくらコールを鳴らしても鳴らしても、海智は電話に出ることはなかった。
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