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第30話
実家まで送ろうか?という優しさには、丁重にお断りを入れた。別荘の最寄り駅まで送ってもらって、そこから二回、電車を乗り換えて、一時間半かけて実家の最寄り駅に着く。駅から徒歩五分という好立地の実家だが、心配性の兄がわざわざ車で迎えてにきてくれた。
電車の中で、何度も後悔した。
なぜなら、不安と焦りと、疑心で胸がいっぱいだったからだ。
やっぱり、車で送ってもらえばよかった。そうしたら、少しでも海智と一緒にいられたのに。なんで、断ってしまったんだろう。これじゃ、まるで、あのオメガに譲ったようだった。
最近、理央とも触れ合っていたせいか、妙に鼻が匂いを、より拾えるようになってしまった。だから、海智のバニラの奥に、ひっそりと、ずっと、あのオメガの甘ったるいにおいがしていた。
今頃、あいつのもとへ、あの車を飛ばしているのだろうか。もう落ち合えているのかもしれない。オメガのヒートというのは、アルファにとってはたまらないものらしい。俺を抱けなかったあの身体で、オメガを簡単に抱いてしまうのだろうか。
ずっと考えていた。海智の最後に告げられた言葉を。
―――さな…本薙くんには、気づかれないように、気を付けてね
さな、と言ってから言い直したところにも、もや、とするのだが、何より、なぜ、本薙に俺たちの関係がバレたらまずいのだろうか。なんで、好き同士で付き合っているはずなのに、固定の人間にはバレてはならないのか。
何度考えても、俺には一つの答えしか出なかった。
それは、本薙が本命で、俺が、浮気相手、ということだった。
まさか、と何度も、自分に説明を求めたが、でもその結果しか結ばれないのだ。
しかし、抱けないと気づいた海智は、きっと今頃、思い直して本命とよろしくやっているのだろう。頭がガンガンする。胃がむかむかと絞られるように痛み、眉もぴくぴくと痙攣して止まない。
海智を信じたいと思う気持ちと、信じようと決めた自分を正当化しようとしているのではないかという疑いと、もうすべてを捨てて誰かに助けてほしいという願いと…。誰か、というのは、誰でも良くはない。彼でないと嫌だ…と流れる車窓をぼんやりと見つめていると、携帯が震える。ふと手に取ると、目を見張る。
いつだって、その彼はタイミングが悪い。
なんで、俺が弱っているときに、必ず見つけてしまうんだろう。
これでは、決断が間違っていると神様に言われているようだった。
「理央」と表示されたコール画面は、数回鳴らした後、切れてしまった。そのあとすぐに、トーク画面が送られてくる。「無事帰国しました!いつでも連絡とれるので、待ってます」。そんな真摯なメッセージに大きく心臓が揺れる。ぽた、と一粒、雫が画面に落ちて、急いで目元を拭って、車窓に視線を移す。
あの頃と、また同じことをしている。
何も言えなくて、一人で涙する。傷ついた心をどうしようも出来ずに、一人でうずくまる。
やり直しているだけだ、あの苦しい過去を。
ただ一つ違うのは、理央という光が、傍でまぶしく輝いていること。
実家での暮らしは、目まぐるしかった。
心配性の兄たちを騒がせないために、元気に振る舞ったのに、結局兄たちは大騒ぎする。
「愛しの凛太郎、会いたかったよ…お前がいない毎日は苦しくて眠れなかった」
「かわいい凛太郎、凛太郎のために特注で作らせた靴だよ、お兄ちゃんだと思って毎日履いてくれ」
「こら、お兄ちゃんたち、りんちゃんが困ってるでしょ?りんちゃん、久しぶりのママに、ただいまのチューは?」
成人済みの大きな兄二人と、小柄で男なのにいくつになっても可愛らしい母に、ぎゅうぎゅう抱きしめられ、もみくちゃになりながら過ごす騒々しい毎日は、心地よくて、久しぶりに心から笑えた気がした。夜、一人になると、海智のことを考えてしまい、涙が滲んだ。それでも、寝返りを打つと、両側をガーガーと身体に見合った大きないびきをかきながら熟睡する兄の寝顔があって、安心して頬が緩んでしまう。時たま、「凛太郎~」と寝言を言いながら、抱きしめられると暑くて困ってしまう。もう、俺、高校生だから嫌だ…と言ったら、二人とも大泣きに泣き、呆れた母に頼むから一緒に寝てやってくれ、と言われてしまった。どっちが弟なのかわからないとよく言われるが、めいっぱい言葉にも態度にも出して、俺を可愛がってくれる兄二人と母のもとは、この上なく居心地よかった。
だから、その間は考えるのをやめようと、携帯の電源を切って過ごした。今、海智からどんな言葉が送られてきても、その度に、その隣にいる人物を探ってしまうだろう。今、理央からどんな言葉が送られてきても、さし伸ばされたその手に甘えてしまうだろう。俺は、俺が出した決断が間違いじゃなかったと思いたかった。
学園に戻る日に、自室でこっそりと携帯の電源を入れた。
正直に言うと、心の中で期待していた。海智からの連絡が、今までのように毎日あって、返事がこないことを心配しているのではないかと。しかし、その淡い期待は、夢と化す。十数件着ている連絡はすべて理央からだった。トーク画面を表示しても、海智からは何の連絡も来ていなかった。先日の、別荘に泊まる前の決め事の連絡で終わっていた。なんて、寂しいトーク画面なのだろう、とつい笑ってしまった。
荷物を持って階段を下りると、兄たちが車を用意して待っていた。母とハグをして、頬にキスをしあって別れる。こんな海外式の別れ方、恥ずかしくてたまらないのだが、そうしないと母の機嫌はみるみる悪くなり大変なことになる。しかし、こうすれば、るんるんの可愛い笑顔で見送ってくれるのだ。
「パパ、休みとれなかったけど、会いたがってたの。お正月には、家族で旅行でも行こうね」
母はにこりと同い年の子よりも幼く見える笑顔で見送ってくれた。きっと嘘だろうけど、笑顔で返しておく。
「かわいいかわいい凛太郎~行くな~ずっと兄さんの腕の中にいてくれ~」
「そうだぞ凛太郎~ずっと兄さんにその天使も惚れる笑顔を見せていておくれ~」
おいおい泣きながら、ホームで両側から大男に抱きしめられて、身動きがとれない。人がほとんどいないことが救いだ。さっきから、何本も電車を逃していた。
「もう!恥ずかしいからやめろ!!また正月に帰ってくるから!」
両手を左右に大きく開くと、ようやく兄さんたちが解放してくれる。
「いいか?絶対だぞ?じゃないと兄さん、もう一度、桐峰に入学するからな?」
「雄太郎兄さん、もう三十路でしょ…やめなよ…」
「約束守らないと、桐峰に就職するからな?絶対だぞ?」
「孝太郎兄さん、本当にやめて…じゃないと、帰ってこなくなるかもよ…」
じと、と両方をにらむと、そんなかわいい顔してもダメ!と両側で騒がれた。毎回のことで困ってしまう。溜め息をついていると、雄太郎がもう一度、強く抱きしめてきた。呆れていると、む、と空気が替わった。
「あ、雄太郎兄さん、フェロモンつけすぎだよ」
孝太郎が慌てたように告げる。ここにオメガがいたら、即ヒートだよ…と不穏なことも言う。
「しょうがないだろ、かわいい凛太郎を守るために、変なアルファがつかないようにしとかないと」
「そうか、それもそうだ…」
どういうこと、と聞こうとする前に、今度は孝太郎に抱きしめられて、また、む、と周囲に湿度が増す。
「む、孝太郎の方がつけすぎじゃないか?もう一回…」
そう言って、雄太郎にまた抱きしめられそうになった時、電車の到着音が流れ出す。腕がゆるんだ隙に逃げ出して、兄さんたちに手を振る。ああ…と泣きながら手を差し伸べてくるのを、またね、と笑顔で別れる。電車に乗り込み、兄たちの姿が見えなくなるまで手を振った。
ホームに残された、兄二人は見えなくなった電車をまだ見つめていた。
「凛太郎、またアルファのにおいを付けて帰ってきやがった…」
「ああ、それも二人…」
よほど凛太郎に執着しているんだな、と二人でつぶやく。
「しかし」
「凛太郎に恋人は」
「まだ早い」
二人して、うんうん、とうなずいて、それでもいつか来るであろう凛太郎が誰かのものになってしまう未来を想像してしまい、しょぼしょぼとホームを後にする。
電車に揺られながら、俺は、すんすん、と自分の匂いを嗅いだ。
でも、わからない。
うちは元来、鼻がいい遺伝子らしく、兄たちも匂いには敏感だった。ヒートのオメガといつの間にかすれ違っていて、俺は気づかずに帰宅すると、母と兄二人に消毒スプレーを全身にかけられて泣いた思い出もある。さらに、俺はベータだから匂わないけれど、優秀なアルファの兄二人の匂いはわからなかった。母さんはわかるらしいから、きちんと匂いはある。でも、俺はいくら嗅いでもわからなかった。
二人の会話から推測するに、おそらく匂いをつけられてしまったのだろう。同じ車両にネックガードをつけた、おそらくオメガであろう男性がいたため、こっそり隣の車両に移り、ドアをしっかり締めた。わからないけど、兄たちの会話が本当だとして、何かあの人に迷惑をかけたら申し訳が立たない。オメガやアルファには、俺にはわからない苦しみがある。ただ、それを知らないということを、良かったと思えないほど、その二つのバース性は俺に近しく、うらやましく見えるものだった。
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