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第29話

 しばらくすると、ぎぃ、とドアが軋み、海智が部屋に入ってくる音がした。  くすり、と笑う気配がしてから、ベットが沈み、シーツごと大きな身体に包み込まれた。 「りーん、朝だよ」  ぎく、と身体が強張る。  なんてない顔をしなきゃ。  何も聞いてない。  何も気づいていない。  笑顔で、夢の中にいるような自分を見せなきゃ。 「りんりん、ねぼすけだな~」  シーツの上から、頭や手を撫でる。布一枚越しに、頬にキスをされた感覚がある。  もぞもぞ、と身体を動かして、強張っていた身体を伸ばすように、わざとらしいほど大きく伸びをした。すぽ、とシーツから顔を出すと、海智の顔がすぐ目の前にあって、息を飲む。 「りんりん」  目が合うと、海智は頬をゆるゆるにして、目尻を下げて微笑んだ。そして、流れるように唇を合わせる。 「おはよ」 「おは、ようございます…」  固い俺の表情筋だが、海智は気づいていないのか、さらに笑みを深めて、キスをした。この甘い表情に、俺は気持ちを素手でぐちゃぐちゃに混ぜ侵される。  この顔、あいつにも見せてるの?  ふと浮かんだ、勝ち誇ったあのオメガの顔が脳裏をよぎって、ぞ、と体温が下がる。また顔を寄せてきた海智に気づかないふりをして、身体を起こして洗面所へと向かう。追ってこない海智にほっとして、歯磨きと洗顔を行う。クマがついて、顔色もよくない。これじゃ、兄さんたちに大騒ぎされてしまう。ぱちん、と頬を叩いて、気合いを入れる。俺は、海智を信じるって決めたんだ。この選択でいいんだ、と眉を上げて、目元からまずキリッとさせる。  リビングに入ると、朝日を浴びた湖が強く光り、目を細める。痛いほどまぶしい。昨日はあんなに優しくて美しかったのに。  香ばしい食欲のそそる匂いがする。くんくん、と振り返ると、キッチンに海智が立っていた。長い髪を後ろで一つに結び、同じ素材、同じ色のパジャマで立っている。 「何かお手伝いしましょうか」  空手部時代からの癖で駆け寄っていってしまう。それに気づいたのか海智はくすり、と笑い、じゃあそのお皿を持って行って、と目で指示を出した。  近くのテーブルに、クロスが敷かれていたので、その上に、持ってきた木材のプレートを置く。プレートには、瑞々しいレタスやにんじんのサラダ、甘そうなキウイやマスカットなどのフルーツ類と黄色いソースのかかったこんもりした丸いパンがあった。おいしそうにつやつや、とろとろしている。 「うわぁ…!」  おいしそう…。見たことのないおしゃれなプレートの朝ごはんに机から乗り出し、目が離せない。それを見過ごしたように笑いながら海智がやってくる。 「さあ、座って」  後ろに体温を感じると、こめかみの辺りに唇が吸い付く。と、とプレートの横にスープが置かれる。淡い緑色のスープに生クリームが垂らされていて食欲をそそる。  立ったままでいると、海智が椅子を引いて、どうぞ、と目配せされる。戸惑いながらも、そのリードに乗って、腰をつく。目の前に海智が座り、はらりと前髪が一束落ちる。姿勢よく、海智が微笑みながら手を合わせた。 「いただきます」  二人で声を合わせて、朝食に手を付ける。  スープをまず一口、スプーンですする。柔らかい自然の甘みと口当たりで、ほ、と身体の緊張がほぐれる。シャキシャキのサラダには、クリーミーなシーザードレッシングがかかっていた。黒コショウがパンチを出して、飽きることなくあっという間に平らげてしまう。そして、メインの不思議なパンを、さくりと齧り付く。 「ん!」  パンをかじりながら、目線をあげると、いつからかわからないが海智が手に顎をのせて、楽しそうに俺を見ていた。 「どう?エッグベネディクト」  この初めて出会うパン料理は少し難しい名前らしい。 「すっごくおいしいです、これ!」 「気に入ってもらってよかった」  頬を染めながら海智は笑うと、自分もそのパンを食べる。とろ、とソースが指から手に伝っている。それを舐めながら、海智はうなずく。 「りんは和食だろうと思ったんだけど、まだ俺には和食は難しくてね」 「す、すみません!お手伝いもせずにバクバクと…」  恋人、ということよりも、先に先輩としての海智を意識してしまうのは、やっぱり空手部の賜物だろう。申し訳なくて、パンをプレートに戻すと海智は困ったように眉尻を下げていた。 「りんには、いいとこ見せたいから頑張っただけ」  見直した?と軽くウインクをして場を和ませようとするのは、海智の優しさだ、出会った頃から知っている。それに素直に甘えようと思い、笑顔でうなずいて、パンを頬張った。  これ、あのオメガも食べたのかな…という心のつぶやきは、すぐにしまい込んで、笑顔を貼り付けた。  片付けはやらせてください、というと、海智はお願いするよ、と微笑んだ。それなのに、結局、隣になって俺が洗った食器を拭いてくれている。キッチンで二人に立つのは気恥ずかしいなと思いながらも、その温かさに甘える。 「りん、今日さ…」  濡れた食器の水を簡単にシンクで払うと、海智は口重に話し出した。 「申し訳ないけど、急用が出来ちゃって…このあと、すぐに出ないといけないんだ…」  あ、と思った。つる、と白い陶器を落としかけて慌てた。そんな気持ちを見せないように、口元は笑みをつくったまま返す。 「あ、俺も、実は用事あって、どうしようかと思ってたんです」  先輩と都合あって良かったです、と笑いながら明るく返す。上手に言えただろうか。  視線は手もとの泡塗れのスポンジを見つめる。 「…なら、良かった」  その言葉に、無意識に手を握ってしまい、くしゅ、とスポンジがさらに泡を立てた。さらりと視界にハイトーンの髪の毛がかすめ、肩に何かが乗って、びく、と身体を縮こませる。海智は気にせずに、俺の耳元に頬を摺り寄せた。 「ごめんね、今度はゆっくりしようね…」  首筋にちゅ、と吸い付かれて、さらに肩を上げてしまう。こんな所作にも、心臓が高鳴ったり、身体は体温を引いたりと忙しい。たら、と額に汗がつたう。それを、反対の肩口で拭いながら、はい、と小さく答えた。 「それと…」  スープの入っていたガラスのコップを手に持ち、スポンジを当てる。海智は、声を落として話し出す。 「さな…本薙くんには、気づかれないように、気を付けてね」  びし、と身体が固まってしまい、今度こそ、コップをシンクに落としてしまった。がしゃん、と音を立てて、それは簡単にばらばらに砕けてしまった。急いで、蛇口を止めて、拾おうとすると、手首を横からつかまれてしまう。 「危ないから、待ってて」  すぐに海智は、紙袋を持ってきて、ガラスの破片を器用にそこへ集めていった。一歩退いた俺の手から、泡が水と共に、ぽた、と床に一滴落ちる。あ、と思うと、もう一つ、ぽた、と落ちていく。泡が水に溶けていく。そのシミはどんどん増える。 「…りん?」  名前を呼ばれて、顔を上げると海智が不思議そうにこちらを見ていた。紙袋はカウンターの隅に置かれていた。 「す、すみません…俺…」  混沌とする頭で言葉を繕う。うつむいて、手元の水が垂れないように、両手を、ぐ、と握りしめる。すると、その手ごと腕の中に包まれてしまう。 「せんぱ、濡れちゃ…」  じわ、と手の水が海智のパジャマに染み込んでいく。 「大丈夫だよ」  温かい声に、身体の奥が、ほっと温度を取り戻す感覚がする。 「今度、一緒にカップを買いに行こう」  にこり、と柔らかい微笑みを零す海智に、もう一度すみませんと誤ると、優しく唇を吸われた。  本薙の話をうやむやにされた気分で、指先は冷たいままだった。  

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