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第51話

「朝、寮を出ると、急にスプレーを顔にかけられて、その場に倒れたんだ…。気づいたら、あの部屋にいて…」  本薙とのことを話すかどうか、言葉につまってしまった。  信頼できる仲間には話したい。 「それで、みんなが助けにきてくれたってわけ」  だからなんともないんだわ、と笑った。  話したかった。でも、うまく言葉にできる自信も、風紀委員として客観的な意見として話ができる自信もなかった。 「スプレーって…」 「ああ、多分、前の薬品と同じ系統だと思う」  奥野が眉間に皺を寄せて、苦々しくつぶやいた。おそらくクロロホルムと同じ系統だと思う。そういえば、匂いが似ていた。  それを、あの転校生がかけてきた…ということは、言えなかったあ。  ドアがいきおいよく開くと息を切らした総一郎が現れた。急いで立ち上がり、総一郎に向き直り頭を下げる。 「よかった…」  しかし、向けられる言葉も態度も予想とは異なり、総一郎は俺を抱きしめた。初めて触れる身体は、厚みがあって、すべてを奪っていきそうな熱を持っていた。ぎゅうぎゅうと筋肉に圧迫されそうで、怖くなる。 「い、いいんちょ…っ」 「よかった…本当によかった、凛太郎…」  強く抱きしめながら、頬ずりをされてくすぐったくなる。まるで、長期出張帰りの愛娘との再会を喜ぶ父親みたいだと思い、頬が緩む。 「ちょっと、総一郎くん」  総一郎が涙ぐみながら、俺を抱きしめていたのを見て、理央がじと目で俺たちを見ていた。すねた声色で、総一郎の動きを制した。総一郎は、悪い悪いと笑いながら、俺と距離をとる。 「とにかく、元気そうでよかった」 「すみません、二度も同じようなことを…」  うつむくと総一郎は大きな手で髪の毛をまぜるように、わしわしと頭を撫でた。 「うん、これからは理央を接着剤でどこかに着けておけ」  満面の笑みで言われて、奥野が吹き出し、理央がさっきまでの不機嫌な顔はどこへやらで、ぱあっと瞳が輝きだした。  その後、理央は嫌がったが、総一郎と別室で二人で話すことにした。 「先輩、実は…」  総一郎には、本当のことを告げようと思った。なぜなら、中等部から俺と海智のことをよく知っている人だったからだ。 「うまく話せる自信がないんですが、付き合いの長い後輩の愚痴だと思って聞いてください…」  自信なく小さく伝えると、総一郎は乱暴に頭を撫でてきた。嬉しそうに笑っていて、この笑顔は本当に人を惹きつけると、ほっと胸を撫でおろした。  それから、言葉につまりながら、ぽつぽつと話した。  あの日、本薙に襲撃されて拉致されたこと。  本薙の自作自演であり、海智を試すものであったこと。  本薙の異様なアルファへの執着のこと。  そして、先日の俺のレイプ未遂と由愛の事件に関わっているだろうこと。 「以上です…」  海智と俺の、今の関係については、話せなかった。どう説明していいか、今の俺ではわからなかったから。多分、総一郎なら聞いてくれるし、それを否定するようなことは言わない。だからこそ、言えなかった。  ぎゅ、と手の甲に爪を立てる。情けなさや憤りや恐怖が入り混じった気持ちだった。 「そうだったか」  総一郎は、低くつぶやくと、ぽんぽん、と俺の頭に手を添わせた。芯の強いしっかりした声で名前を呼ばれて目線を上げる。 「よくがんばったな」  ありがとう、と総一郎は頭を下げた。 「や、やめてください、先輩に頭を下げてもらえるようなことは何も…俺、二回も同じ手にひっかかってますし…」 「そんなことない」  は、と自然と流れていた視線を呼び戻されるように、よく通る声が俺を貫く。真摯な瞳で、総一郎はまっすぐ俺を見つめていた。 「どれだけ、怖かったか…俺には想像もできない。その中で、新しい情報をこれほど引き出して」  凛太郎は風紀の鑑だ。そういって総一郎は、並びの美しい真っ白な歯をにっかしと見せて笑った。 「ただ、また凛太郎に攻撃をしかけてくる可能性がある。だから」  理央の傍を離れるんじゃないぞ。  そう言われて、瞬きを数回して、顎に手を当てて首をかしげる。言葉を心の中でもう一度反芻してから、は?と聞き返した。今度は総一郎がきょとんとした顔で首をかしげた。 「え?お前ら、つきあって」 「ないですないです!!」 「え?!」 「え!?」  お互い目を見開いて顔を見合わせる。 「じょ、冗談…?」 「せ、先輩こそ、冗談ですよ、ね?」  あは、ははは…とぎこちなく二人で笑う。そして総一郎は腕組みをして瞼を閉じた。うーん、と唸る。 「昨日、凛太郎のことをお姫様だっこして、すごい形相で連れ去ったから、てっきりもう…」 「はい!?」  俺の欠落した記憶の部分でそんなことが行われていたのかと耳を疑う。みるみる内に顔に全身の熱が集まってくるのがわかる。 「それに、あれだけわかりやすくアピールしてて、風紀全員がもうてっきり付き合ってるもんだと思ってたが…」  曽部すらそう思ってたし。  俗世間のそういった色恋の噂にまったく興味がないで有名な曽部先輩も?!と信じられない事態に、開いた口が塞がらない。思わず総一郎の肩を両手で押さえつけてしまう。 「あ、ありえません!!俺と理央は、先輩後輩で、それ以上でもそれ以下でもないです!本当に!それに…」  アルファと恋なんて、ありえない。  そう言いそうになるが、声にできなかった。  急に勢いをなくして、しゅんとなってしまった後輩を、総一郎は、仕方がないやつだと笑った。それから、あの理央が苦戦を強いられているという現状に驚くと共に、哀れ…生殺しなんだな…と同じアルファながらに同情した。  ごほん、と咳払いをして総一郎が場を取り直す。 「とにかく、冗談じゃなくて、理央とは一緒に行動しろ。あいつの優秀さは、凛太郎が一番わかってるだろ?」  優しくなだめるように言われると、素直に認めるしかなかった。小さくうなずくと、くすりと総一郎は笑った。そして、手のひらを拳をつくった手で叩いた。 「そうだ、丁度いい」  声をひそめて、総一郎は続けた。 「リコールの件だか、教員の承諾は得た」  は、と見合わせて、手に汗がじんわりとかかれる。ついに、本当に動き出してしまった。しかしだな、と眉根を押さえて総一郎は渋い顔をした。 「メンバー選出が難航している…会長が決まらんことには…」 「…会長は、目途が立ってます」  なんとか、佳純を口説き落とすしかない。これは、リコールを言い出して、俺の仕事だ。ぎゅ、と拳を握る。 「それと、俺からひとつ提案があるんだ」  なんでしょう、と次の言葉をまっすぐ見つめて待つ。  そして、総一郎から出された提案に、俺は瞠目し、何も言えなくなってしまった。

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