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第53話

「先輩さ、超モテてたんだよ」  ベンチに並んで座って、理央が買ってきてくれた自販機のホットココアで指先を温めながら、つぶやいた。 「空手も超うまくて。雲の上の存在だった…」  だけど、俺なんかに気づいてくれて、稽古もつけてくれて。優しくて、いつでも笑いかけてくれた。そんな先輩が、俺を好きだって言ってくれて、夢なんだと思った。毎日、毎日毎日、手をつないだり、遅くまで電話したり、くだらないことがとっても楽しかったし、しあわせだったんだよ。 「…なんで、こうなっちゃったんだろ」  へへ、と笑うと鼻が出てくる。 「ベータが、アルファなんかに恋をしたから、神様が怒ったんだな、きっと」 「そんなことない」  ずっと黙って聞いていた理央が、はっきりと言い切った。ぎゅ、と手を握られて、その腕の持ち主を見上げると、眉を吊り上げて俺を見抜いていた。俺を守ってくれる優しいアルファに微笑んだ。 「ありがとう…理央は、優しいな」 「…俺、誰にでも優しいわけじゃありません」  視線を泳がしながら、苦し気に理央はつぶやいた。ぐ、とさらに力を込めて手を握られて、眉毛を下げて頬がゆるむ。必死になって、俺を慰めてくれている後輩が愛おしいと思う。理央が、言葉を発しようと口を開けて、息を吸った気配がしたが、顔を前に向けて、視線を下げる。 「初恋だったんだ」  恋って、こんなに楽しいんだってあの時は思った。  でもすぐに、恋ってこんなに苦しいんだって思った。  だったら、したくなかった、って思った。  それでも、好きな気持ちは止められなかった。 「初恋は実らないって、本当だったんだな」  ふふ、と笑うと、また手をぎゅっと握られて、その力強さに慰めようとする健気な気持ちが伝わってくるようだった。 「…俺、もうアルファに恋はしない」  ほろ、ともう泣き果てたと思った涙が頬を伝った。 「だって、俺は、ベータだから…」  理央に振り向いて、笑いかけると、理央は呆然と俺を見つめていた。まるで、ショックを受けてるみたいに目を見開いて、眉を落していた。するりと手の力が抜け落ちていったので、ココアのプルタブを引いて、一口飲む。ややぬるいココアだが、俺の冷え切った心を和らげるには充分だった。はあ、と息を吐くと白く、闇に溶けていく。 「それでも、俺は…」  隣で、低く小さく何かをつぶやいた理央に視線を戻すと、頭を落してうなだれていた。 「理央…?」 ようやく理央の異変に気付いた俺は、名前を囁きながら、肩に手を当てて、顔を覗き込んだ。ぴく、と身体を小さく揺らした理央は、強い力で俺を抱き寄せた。ココア缶を持ったままの右手が居場所がわからずにさまよう。 「ちょ、理央、どうした…?」 「俺、予知能力があるんです」  はあ?と突拍子もない理央の発言に顔をしかめる。 「だから、わかります。多分、先輩は…りん先輩は…、また恋をします」 「何いって…」  開いている左手で肩を押すと、その手を熱い手に包みこまれてしまう。顔を起こした理央は、眦を赤く染めて、潤んだ瞳で俺を見つめた。俺だけを、その深い瞳に浮かべて、熱い吐息で囁きかける。 「きっと、もっともっといい、本物のアルファに、恋をします」 「おい…」  悪い冗談だ。俺が、今日まで、どれほどベータという性を、アルファという性を、オメガという性を恨んだか、わかっているのか。眉間に皺が寄ってしまう。 「大丈夫です、本物のアルファは、好きになった人を絶対しあわせにしますから」  そう言って、理央は右眼から、月光が反射してきらめいた雫をこぼした。 「理央…?」  どうして、理央が泣いているんだ。わけがわからずに、抱いた怒りも飛んで行ってしまう。名前を呼んで、左手でその頬を撫でると、手首をつかんで、頬を手のひらに摺り寄せる。 「本物のアルファは、本気で好きになった相手を、絶対に諦めません」  ゆっくりと長い睫毛が持ち上がると、ぎらりと獣の色をした瞳が俺を射抜く。どき、と心臓が跳ねると、意識してしまう。  そのつややかな唇、濡れた長いまつげ、筋の通った鼻、きめ細やかな肌、形の良い眉毛、そして、力強い瞳。その瞳は、俺を狙っているのかと思うほど強い意思を持ったものだった。  理央が熱く囁いてきた言葉たちが俺の中で反芻されて、顔に熱が集まってくる。  そうだ、こいつだって、アルファなのだ。  吸い込まれそうな瞳に、まるで、口説かれてるみたいだ、と思ってしまう。  いや、ない。理央は俺のことは、仲の良い先輩だと思って慕ってくれていて、今、失恋した俺を丁寧に慰めてくれているのだ。  理央は、ようやくいつもの自信満々の笑みをこぼした。そして、柔らかい唇でしっとりと、手のひらに吸い付いて、ちゅ、と離した。そのリップ音が妙に大きく聞こえて、あたりに響いていたのではないかと思った。まるでマーキングをされたかのように、一瞬、理央の強いフェロモンの匂いを感じた。 「りん先輩が実らなかった分まで、俺の初恋は大きく実らせて、一生朽ちない実にしてみせますから」  ふわ、と甘い匂いが鼻腔いっぱいに広がったと思うと、理央が俺の耳元で甘く囁く。 「覚悟してください」  ゆったりと耳元に吸い付かれて、リップ音が脳を溶かす。頬と頬を擦り合わせながら、離れていく。どういうことだと理央の一挙一動を目を見開いて追うと、頬を染めた理央がゆるゆると微笑んだ。可愛らしい後輩の笑みなのに、どうしてこうも、胸の高鳴りが治まらないのだろう。  ありえない。こいつはアルファで俺はベータなのだから。  犬のようにじゃれついて、飼い主を喜ばせようとしているだけだ。  だから、いつもみたいに笑って、どこかしらを殴って終わりでいいんだ。  それなのに、理央に惚けた身体は、どうすることもなく、目の前の男から与えられる優しくて甘い芳醇な香りにたゆたうことしかできなかった。

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