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第58話

 朝、早々に風紀室に向かい、寝ぼけ眼の総一郎に理央からの連絡の件を伝えた。すでに理央から、総一郎への連絡があったそうで事の内容を承知していた。しかし、総一郎の決心は固く、今日の内に理央からのいい返事がない場合は自分が交渉に行くと断じて譲らなかった。  焦燥募る中、俺は理央のミッション達成と、あいつが笑顔で変わりなく帰ってきてくれることを祈るばかりだった。  もう穴が開くほど見た、本多の生徒名簿を見ていた。顔写真に家族構成、連絡先、生年月日…。ぐるぐると見つめている中で、ふと気づいたことがあった。シャワーを浴びてきた総一郎がほかほかと湯気を立てながら、帰ってきた瞬間だった。 「先輩…、ここ見てください」  歯ブラシを加えて、俺のもとへやってきた総一郎に、家族構成の欄を指差しながら話す。 「本多の兄弟…、真一、勇二、真花、賢三…わかりやすい兄弟らしい名前だな」 「ですよね?でも、本多は秀一です。真一とかぶってます」  それに、生年月日を確認すると、四番目の賢三は本多よりも十も年上だった。 「これって、おかしくないですか?ここまでわかりやすくこだわってるのに、十年ぶりに産まれた子供に、長男の一文字を使いますか?」  我が家、鈴岡家の三人兄弟は全員に「太郎」がつく。太郎、次郎というように、太郎は長男に使われやすい名前だと思っていたから、母親に聞いた時に、「みんなが僕の一番だから、太郎なの」と温かい胸に抱きしめられた記憶がある。母親の理論は少々難解だが、親は何かしらの意図をもって、子供の名前を決めているものだ。  蛇口をひねり、うがいをする総一郎の背中を見つめる。 「まあ、久しぶりの子にそう名前をつけるのも、なくはないだろう…」  でも、と食い下がろうとすると、こちらを振り返った総一郎は、親指を立てていた。 「当たってみよう。ナイスだ凛太郎」  すぐに総一郎は電話をかけた。人脈を使って本多家の内情を探ろうとする。  生徒名簿写真の本多の顔を見つめる。す、と指先でなぞる。眼鏡をかけた切れ長の瞳は今までの人生で何を見てきたのだろうか。  辺りが夕暮れに差し掛かった時に、携帯が震えた。すぐにディスプレイを見ると、知らない番号からのメッセージだった。訝しげに開く。 『今すぐ、理科準備室においで。おもしろいものを見せてあげる』  怪しさたっぷりのそのメッセージに、なぜだか動機が激しくなる。総一郎に相談しようかと顔をあげると、険しい顔つきでずっと電話をしていた。少し待つが、その電話が終わる気配はない。隣を見ると憔悴しきった小さく見える佳純がいた。ぎゅ、と携帯を握りしめて、立ち上がる。 「ちょっと出てくるわ」  それだけ佳純に伝えて、風紀室を後にした。  予感がした。  このメッセージは、あいつだ。きっと、本薙早苗だ。  足がどんどん大股になり、理科準備室前に着くころには、息を切らし走っていた。  とにかく冷静で。冷静に。もしこれは本薙だとすれば、チャンスでもある。やつを何かしらしょっ引ければ、本多の居場所を交渉するチャンスとなり、こちらには優位に立てる。静かに理科室に身をかがめながら入る。理科準備室は外からは見えないが、理科室内とつながっている扉であれば、小さなガラス窓がありそこから中を確認できる。準備室と理科室との扉は開いていた。  理科室に入った瞬間に、俺は鼻を押さえ、急いでハンカチを口元に当てる。凄まじい強さのフェロモンの匂いだった。これは、本薙のにおいだ。一気に全身が粟立ち、汗がにじみ出す。呼吸も苦しくなるが、息を殺し、静かに開け放たれた扉に近づく。話し声がした。  身をかがめて、こっそりと中を覗くと、薬品棚を背に理央が床にへたりこんでいた。ぐ、と飛び出したくなる自分を押さえる。理央の腹の上に、シャツしか羽織っていない金髪の少年の後ろ姿が見える。  視界がぐらり、と揺れて、倒れてしまいそうになる身体を下唇を噛んで、正気でいさせる。ここまで来て、へこたれてる場合じゃない。頭を横に振り、冷静でいろ、と自分に命じる。  理央の両手はだらりと床に垂れていた。明らかに理央の様子がおかしい。それなのに、本薙は楽しそうにくすくす笑っている。両手を理央の肩に置いて、微笑んでいる。魅惑の匂いを惜しみなく巻き散らしながら。 「ねえ、理央、僕の匂い、たまんないでしょ?」  甘えるような猫なで声で腰を揺らしながら、理央にまとわりつく。ふざけるな、と今すぐやつを突き飛ばしてしまいたかった。 「そう、っすね…予想以上、ですわ…さすが、アルファを垂らしこみまくってるだけ、あります、ね…」  苦し気に呻くように返す理央は、それでも笑い飛ばそうとしていた。その気丈な理央の姿に、涙が滲む。 「すごいでしょ?みんな、はまっちゃうんだよ?それに、ナカもいいんだって」  理央の耳元に顔を近づけて、甘く囁く。ぐ、と理央が低く唸り、カラン、と何かが転がる音がする。力なく垂れていた理央の手が、ポケットから抑制剤らしき注射を腿に落ち込み、空の容器が落ちた音だった。それを見て、本薙は、ふふ、と妖艶に笑った。 「早く落ちちゃえばいいのに。僕、理央のことなら、特別かわいがってあげるよ?」  理央みたいなかわいくて、優秀なアルファ、僕、だあいすき。と本薙は理央の輪郭を、細い指でするする撫でながら、舌なめずりをする。ぐ、と理央がまた唸ると、カラン、ともう一本、空の注射器が床に落ちた。  抑制剤は、基本的に一本で一日持続するだけの効果のある強い薬だ。それを、この短時間で二本も打っている。おそらくあの顔色と異様な汗では、他にも多数打ち込んでいるはずだ。  それを見やると、本薙は理央の頬を両手でつかんで、力ない理央に覆いかぶさるように上を向かせてから唇をふさいだ。目の前の光景に、頭が殴られたように痛んだ。 「ぅ、ぐ…んう、う…っ」  理央の呻き声が聞こえるが、くちゅ、ぴちゃ、といやらしい水音が強く響き、俺の心臓をえぐりとる。勢いよく、理央が顔を背けて、口から唾を吐きだした。しかし、理央の呼吸音が明らかに変わる。不規則で深く、濁っている。それを見て、本薙は、くすくすと笑う。 「発情オメガの唾液をたっぷり飲ませてあげたからね、たまんないでしょ?」  小首をかしげる本薙は妖艶な女神のようだった。後ろに手を回して、理央の股間に触れる。そこに視線を移すと、遠目でもわかるほど、そこは盛り上がり、存在を主張していた。 「ほらあ、こんなにおっきくなってる…」  細い指で器用にベルトをかちゃかちゃといじる。 「や、めろ…」  理央が顔面蒼白で険しい顔つきのまま、低くつぶやく。 「俺、には、あの人しか、いねえ、の…」 「ふふ、じゃあ、その人、かわいそうだね」  僕に大事な理央をとられちゃって。くすくすと純粋無垢な笑い声が聞こえる。次の瞬間、どん、と鈍い音がしてから、がしゃんとガラス製の何かがいくつかぶつかり合う音がした。理央が震えながら、最後の力を振り絞って、本薙を突き飛ばし、反対側にある薬品棚にやつがぶつかった音だった。 「俺の、居場所は、先輩の、隣なんだよ…絶対に、約束、まもらない、と、いけねえん、だよ…」  胸を押さえて蹲る理央に、今すぐ抱き着きたかった。でも、それではいけない。最後のなけなしの理性をかき集めて、宇津田にメッセージを送る。一瞬で既読がつく。理央、もう少し。あと少し、我慢してくれ。手を組み、額に当てて目の前の理央に祈る。  すると、本薙は、くつくつと笑い出し、次第に声を張って笑い転げた。 「あはっ、はは…おもしろ…っ、涙出る…、くく…」  ふらり、と立ち上がった本薙は、理央の顔を蹴り上げた。簡単にごろりと、横に倒れてしまう理央の頭を、小さな素足が踏みしめた。 「ばっきばきにちんこおっ勃ってて、何いってんの?」  光のない瞳で本薙は理央を見下ろした。理央は、ふ、と笑った。 「お前のそのちんこ、誰に勃起してるかわかってんの?誰のナカに出したくて、勃起してるか、わかってんの?」  体重をかけた足に頭を押され、理央は、目を固くつむり唸る。 「アルファなんか、全員ただの獣のくせに。オメガを孕ませたくて、仕方ないんしょ?」  ねえ、とヒステリックに叫び、頭にのせていた足を大きく振りかぶり、腹に爪先がのめり込む。う、と息をつめてから、濁った咳を繰り返し、ぜえぜえと乱れた呼吸を続ける。そのまま、ごろ、と理央を仰向けに転がすと、本薙はその腹の上に、どかりと座り込んだ。 「獣は獣らしく、本能にしたがってればいいんだよ?きもちよ~くしてあげるよ?」  本薙は愛らしく、いつもの声に戻して甘く囁く。そして、細い指で理央の痛みにあえぐ唇をなぞり、顔をゆったりと近づけていく。それに対して、理央は、はは、と笑い出した。 「俺の、本能は、たった一人を、求め続けてんの…」  その言葉に、本薙は眉間に皺をきつく寄せ、見下ろす。 「俺が抱きたいと思ったのは、たった一人だけだから…お前じゃ無理」  今度は、本薙が大きく笑った。 「ひー…はは、こんなにちんこでっかくしといて、何いってんの?」 「はは…ちんこが、勃つのは、生理現象だっつーの…寝起きだって、勃つだろ?」  理央のその一言が、本薙のプライドを大きく傷つけた。目を吊り上げた本薙は、薬品棚から何か取り出し、そのキャップを簡単に外す。 「腐れアルファが。お前なんか、いらねえんだよ!」  そう怒鳴って、本薙は中身の液体を、横たわり動けない理央に、かけようと振りかぶった。  もう何も考えられなかった。理央を守りたい。その一心だった。

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