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第57話
翌朝、早朝に寮を出て風紀室に向かうと、総一郎は顔を洗い終えたところだった。
「おはようさん、りんちゃん~」
「おはようございます…やっぱり、徹夜したんじゃないですか…」
目の下のクマを見れば、一目瞭然だった。
「ぶぶー、残念。一時間寝ました~」
「一時間は昼寝と同じで、徹夜と同じです…」
コンビニで買ってきた軽食を机の上に置く。総一郎が興味津々に近寄ってきて、嬉しそうに梅干しのおにぎりをばりばり食べ始めた。総一郎は昔から梅が好物なのだ。
「これ食べて、もう少し寝てください。俺が替わりますから」
ポットからお湯を注ぎ、インスタント味噌汁を総一郎に渡す。疲れた時は、内臓から温めると良い。それを、先日、理央に体感させて学ばされた。ふわ、と味噌汁と和風だしのいい匂いがする。最近のインスタントの技術は素晴らしい。総一郎がインスタントなんかを喜んで食べてくれる先輩で良かったと思う。こういう差し入れを困らないですむ。
ずず、と一口すすると総一郎は唸った。
「ああ~…しみるわぁ…」
ふふ、と笑みがこぼれてしまう。おにぎりを口に放り込み、味噌汁をすすりながら応接室のドアを開く。
「本薙家の物件をリストアップしといたから、確認しといてくれ。俺は、優しいできた後輩の愛に甘えて、ちょっと寝るわ」
「ええ、ええ、素晴らしい後輩を持てたことに感謝して、ゆっくりぐっすり寝てください」
ありがとな、とつぶやかれると、妙にくすぐったい。いつも助けてもらってばかりの総一郎に、何か恩返しができたのであれば、とても嬉しい。
俺も長ネギの味噌汁をつくって啜りながら、おにぎりを頬張る。こんぶだ。しょっぱさが身体にしみる。
「さ、頑張るぞ」
総一郎がリストアップした物件を見る。すでに地図に印がつけてくれてある。見ると、見事に隣接県それぞれの端っこに集まっている。これは、移動に時間がかかる。郊外は交通機関の整備が足りていない場合が多い。何より、そうした方がより静かな物件が多いからだ。ましてや、金持ちはお抱えの運転手がいるから、公共交通機関なんていらない。そんなところにバスを走らせても儲けがないことがわかっているから、バス会社も手を出さない。これは、昨日のような具合には、チェックが進まないことが容易に想像できた。それでも、一件一件当たっていくしかない。
ちゃり、と音がして、その音を立てたネックレスを制服の上から握りしめる。
理央に会いたい。
たった一日会っていないのに、なぜ不安に感じてしまうのだろうか。あいつの近くにいる、と思うからだろうか。でも、信じると決めた。理央の瞳を、言葉を、信じる。
俺、頑張るから。理央もあと少し。頑張って。待ってろ。
そうして、おにぎりを口に放り込み、味噌汁をごくごくと飲み干した。
その日、捜索隊の中でも移動手段を手に入れられる者に厳選した。半分の人数になってしまったが、奥野と佳純のバイク。さらに、総一郎が実家から一台、運転手つきで車を呼び寄せた。その三チームでそれぞれ、隣接四県の郊外に散らばった別荘宅を調べた。山道であったり、まったく使われていない別荘もあり、管理人を見つけるのにも苦労し、結局、全部の棟を調べ終えるのに、一週間ほどを要してしまった。
そして、どれも、空振りに終わってしまう。
総一郎と共に考えたものだったが、やはり勘は外れていたのか。と佳純に申し訳なくていっぱいの気持ちになるが、佳純は、あの日以来俺たちの前では、幾分か冷静を保てるようになっていた。その分、生気を失っていくのも見えていた。焦りばかりが募ってしまう。どうすれば、どうすれば。
遠方から帰ってきて落ち合った俺と総一郎はお互い暗い顔を突き合わせながら、二人きりで会議室にこもっていた。重い口で総一郎がつぶやく。
「最終手段を使うか…」
藁にも縋る気持ちで総一郎を見やると、天を仰ぎながら囁いた。
「本薙に、賭けよう」
「え…?」
耳を疑うそのつぶやきを聞き返すと、総一郎は首を回して、息を吐きながら肩を落とした。
「俺たちと本多たちとをつなぐ糸は本薙しかない。あいつからたどってもらうというのに、賭けてみる価値はあると思う」
「いや、でも…」
あいつが、そういうことをすんなり教えるやつでは、絶対にない。それなりの対価を要求してくるはずだ。それも、きっと、その人が一番差し出すことを嫌がるような…。あの色魔が一番喜びそうなのは、きっと。
「まあ、身体ひとつくらい、誰かの命が救えるなら安いもんだろ」
総一郎は、はん、と鼻で笑い飛ばした。
今まで、倒れるまで耐えてきたのに。愛する人のために、何度もオメガのフェロモンレイプに、理性で打ち勝ってきたというのに。
そんな簡単に、己を差し出してしまうのか。
「だめです、先輩…絶対、だめ…」
ふるふると首を横に振る。しかし総一郎は仕方ないさ、と笑っていた。
「減るもんじゃあないさ、俺も男だし」
大丈夫だよ、と視界が潤む俺の頭をぽんぽんと叩いた。その手のひらの温かさに、さらに鼻の奥がつんとする。
夏祭りの日、総一郎と並んで歩いていた浴衣の女神のような男性を思い出す。彼の隣にいる総一郎は、なんととろけた笑みを見せることか。
「待ってください、もう少し…もう少し、探しましょう。絶対に、手掛かりがありますから」
絶対に。もう一度、生徒情報の書類に目を通す。俺よりも、総一郎の方が、それをしらみつぶしに検討しつくしたであろう。それでも、見つめる。一つひとつの文字を丁寧に。
俺たちのようになってほしくない。俺と、海智のように。
本当の兄のように慕い、憧れる総一郎には、幸せになってほしい。心からそう祈っている。
だからこそ、俺にできることを俺はせいいっぱい頑張りたいのだ。
「よし、じゃあ、明日の朝までにもう一度検討しよう」
顔をあげると、総一郎はいつもの笑顔を浮かべる。
「でも、今日はもう休もう。かなり疲れてるはずだ」
「でも…!」
「凛太郎…引くことも英断だ」
暗い帰り道を、とぼとぼと歩く。
自信がなくなった。今まで、驕っていたつもりはないが、自分はもう少し、誰かのために動ける人間だと思っていた。それなのに、大切な人を犠牲にしたうえで、笑顔を手に入れたいとは思わない。その信念すら通せない現実に、茫然とする。
自分だけ、寮の温かい部屋に戻ることがためらわれてしまい、ベンチに座り込んだ。
そういえば、このベンチ。いつも苦しいとここに来てしまう。そして、いつも理央が、助けてくれる。
理央は何をしているだろうか。
連絡が一切来ないことも俺を不安にさせた。
全くゴールの見えない七海の行方。佳純の笑顔。総一郎の笑顔。そして、理央の笑顔。
すべてが霞んできてしまう。何も出来ない無力な自分に、せめて何かできなかと考えれば考えるほど手段がなく、非力さを痛感させられる。どうすればいいんだ。
蹲って、頭を抱えると、レンガにぽた、と雫がとうとう落ちてしまう。俺なんかが泣いてどうする。泣きたい人ももっとたくさんいるんだ。
泣くな、泣くな。
すると、携帯がぶる、と震える。手に取ってみると、メッセージの知らせだった。開くと、待ち望んだ相手の名前で、本当にタイミングのいい男だと驚く。予知能力がある、と言っていたのも、あながち嘘ではなかったのかもしれない。ありえない考えに、一人でふ、と笑ってしまう。
『そろそろ片付きそうです』
その一言と、柴犬の「会いたいわん」という愛らしいスタンプと共に目に入ってきた。
ぎゅ、と携帯を握る。なんでだよ。こっちは全然片付きそうもないぞ。むしろ、状況は悪化の一途しかたどっていない。文句を言ってやる、と言い訳をつくってから、受話器のアイコンをタップする。一度コールが鳴るとすぐに電話がつながって、笑ってしまう。
『りん先輩?!』
「お前、出るの早すぎ」
ふふ、と笑うと鼻が出てきて、ずる、と啜る。
『…泣いてるの?』
「泣いてない。ちょっと外にいて、寒いだけだ」
本当に超能力はあるのでは、とすら思ってしまう、鋭さに感嘆する。
「それより、もうすぐ片付くってどういうこと?」
む、と口をへの字に曲げて恨めし気につぶやく。
『そのまんまですよ。意外と早く済みそうです』
穏やかな口調で告げる理央は、本当に目途が立っているようだった。
「どういうこと?こっちはもう手詰まりで、委員長と最終奥義に…」
『最終奥義って何?』
口を滑らせたと思った。ん?と優しく理央は言葉を待っているようだった。
「り、理央を生贄に、本薙に教えてもらおうっていう」
なんとか苦し紛れに濁すと、何それ!と理央が電話口で笑っていた。温かい。こいつとの時間は、なんでこんなに穏やかで温かいのだろう。自然と頬がゆるむのがわかる。
『先輩、俺、頑張ってるから』
「…本当か?」
『本当だよ』
あんなやつ全然平気、と柔らかい声で笑う。だから、と理央は言葉を続ける。
『早く先輩に会いたい』
「…うん」
『先輩に、伝えたいことがあるんだ』
「…う、ん」
変わらない声色なのに、愛を囁かれているようで、むずがゆく感じてしまうのは、自意識過剰だろうか。伝えたいこと、とは、なんだろう。とくんとくん、と心音が柔らかく弾む。
『先輩、どんな反応するかな~』
「…得意の予知能力で当てて」
え~と、電話口で理央はころころ笑った。それにつられて、ふふ、と勝手に身体が笑う。
『多分、泣くと思う。鼻水だらだらで』
「さ、最後の余計だ!」
大丈夫です!嬉し泣きですからっ、と一つもフォローになっていない後輩を、今すぐ叩きたいと勝手に手が動く。
『そうだといいなって思ってます』
「…きっと外れる」
『えー!…じゃあ、当たったらご褒美くださいね』
嫌だよ、と冗談を言うと、やだやだ~と電話口なのに地団駄を踏んでわがままをこねる幼児が見えた。ひとしきり笑って、呼吸を整えて、自分でもびっくりするほど穏やかな口調になれた。
「じゃあ、この事件が片付いたら、めいっぱい欲しいものやるよ」
『…本当ですね?』
今、ご自身が言いましたからね?聞きましたね?絶対ですよ?!とすごい勢いで念を押す理央に、お、おう…とたじたじになってしまう。
『よっしゃ…俄然やる気でましたわ…』
「単純なやつ」
ふふ、と笑うと、理央は当たり前です、と自信満々に言った。
『先輩からのご褒美ですから』
あまりにも嬉しそうに言うもんで、どんだけ高価なものを強請られるのだろうと心配になってしまう。うちのお小遣いは庶民派だから、勘弁してくれよ…と付け足したくなる。
「じゃあ、そろそろ切るぞ」
時間を見るとそこそこ話していた。理央との時間は、あっという間だ。
『あ、とにかく、委員長に早まるなって言ってください』
わかったよ、と軽く笑うが、理央は念を押してきた。その真剣な声色に、信じていいんだ、と思えた。
『電話、ありがとうございました。久しぶりにりん先輩摂取できて、元気でました』
「なんだそれ、俺は栄養剤か」
『もちろん。俺の一番の稼働力です』
はは、と二人で笑う。沈黙が訪れるが、どちらとも切ろうとは言わない。もう少し、あと少し、理央との時間を過ごしていたいと思った。欲を言うなら…
『あ~話したら、元気でたけど、余計に会いたくなっちゃったな~』
同じことを思っていて、目を見張る。電話で良かった、と思う反面、今、理央はどんな顔をしているんだろう、と気になった。
「全部片付いたら会えるだろ?」
『…そうですね』
頑張ろう、理央。
俺も頑張るから。
「俺も、理央を信じて、頑張るから」
電話越しに重い溜め息が聞こえて、何かまずかっただろうかと心配していると、抱きしめたい…と苦々しくつぶやかれた声に、つい笑ってしまった。
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