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第60話
とろとろとした意識の中に揺蕩う。
ふわふわ、と何かが頭をかすめている。大きな、安心するなにか。
ずっと、待っていたものだ。
だんだん覚醒していく意識で、頭を大きな何かが撫でているのがわかる。顔を反対に寝直すと、ぼやけた視界に頭を撫でている何かが見える。それを辿っていくと、腕があって、水色の病院着が見えて、目を見張る。
「おはよ、りん先輩」
ふんわりと笑う理央と目が合って、急いで身体を起こす。
「り、お…」
夢かと思い、理央の腕を握るが、ちゃんと温かい。
「りん先輩」
戸惑う俺を見て、さらに笑みを深めて、大きな手のひらで手を包まれる。今まで寝ていたベッドの淵に乗り上げて、首に腕を回して抱き着く。
「理央、理央っ」
ぎゅう、と目をつむると、勝手に涙がぽろぽろ溢れる。温かい。理央の身体が温かい。
「りん先輩」
待ち焦がれた、大きくて熱い身体が俺を包み込むように抱きしめた。何度も名前を呼んで、そこにいるのを確認する。嬉しさを分かち合うように、強く抱きしめ合った。
「…例の件、どうなりました?」
そう切り出したのは理央からだった。名残惜しく、腕を緩めると、俺の顔を覗き込んだ理央は、頬を染めながら笑った。長い指で溢れる涙を撫でるように拭ってくれた。
「理央のおかげで、一条は無事に保護されたよ」
「よかったぁ…!」
肩を落として、笑顔を深める理央に、俺も同じ反応したよ、と思って笑ってしまった。それより、と理央の頬を両手で挟み、顔色や瞳、唇の色や、その他を目視で確認する。
「理央は?どっか変なところない?」
両頬を包む手のひらを握りしめられて、視線を戻すと理央は眦を下げて嬉しそうに笑っていた。
「全然大丈夫」
額をこつん、とつけられて、ぐりぐりと擦りつくように甘えられる。高い鼻梁がたまにぶつかって、くすぐったい。よかった、と、くすくす笑いながら伝える。
でも、と考えをめぐらす。今は命に別状はないとわかっていたから、待つだけだったけれど、事件当初のあの時は、本当に、このまま理央が目覚めないのではないか、死んでしまうのではないかと、本当に苦しかった。あの時を思い出して、ぼろぼろと涙が後からあとからあふれて止まらなくなる。ぎゅう、と少し薄くなった胸板に抱き着く。
「本当に、無茶して…」
頬を胸にこすりつけながら、死んじゃうかと思った…と本音をつぶやいた。病院のにおいの中から、ふ、と理央の甘い匂いがした。久しぶりのそれに、身体の動きを止める。理央の身体から、とくとくと少し早い心音が聞こえて、なお身体から緊張が抜けていく。
俺も…と小さくて聞き落としそうなほどの言葉に気づいて、顔をあげると理央がまっすぐに俺を見下ろしていた。頭を、ゆっくりと撫でられた。
「俺も、先輩が無事かどうか、死ぬほど心配で、毎日つらかった」
眉を寄せて、苦し気につぶやく理央に、心臓が鷲掴みされたように痛んだ。胸板に置いた左手を理央の大きな両手に包まれてしまう。
「ねえ、俺、ずっと聞いてほしかったことがあるんだ」
眦を染めて、理央は前のめりになって言葉をつむぐ。その瞳の熱に、じり、と心の奥が焦げ付く。
「待って!」
唇を開けて息を吸い込んだ理央の言葉を遮るように、声を荒げる。
「俺から、言いたい」
困った顔をした理央に、お願いと見上げながらもう一度乞うと、頬を染めた理央は、唇を平行に結んだ。そのままの勢いで、理央の瞳を見つめながら伝える。
「俺、理央が死んじゃうかもって思ったら、勝手に身体が動いた」
何かはわらかないが、怒りに任せた本薙が薬品を叩きつけようとした瞬間を思い出すと今でも鳥肌が立って、恐ろしくてたまらなくなる。
「俺…、理央が隣にいないと、やだ…ずっと、俺の隣にいてほしい…」
先輩後輩じゃなくて…。
そう告げると、理央がみるみる目を見開いて、大きな瞳が落ちそうなほどになる。両手で手を強い力で握りしめながら、ずい、と顔を寄せた。
「ねえ、りん先輩っ、それってどういうこと?」
病人とは思えないパワーのみなぎった瞳で聞いてくる。そんなまじまじと聞かれてしまうと、どう答えれば良いのかわからない。視線を泳がしてためらっていると、理央が隙をついて頬に吸い付いてきた。それに誘われるように、仕方なしに目線を戻す。
「もっとはっきり言ってくれないとわかんないよっ、つまり、どういうこと?」
「だから、それは…」
この感情をどう言い表せばいいのだろう。
ずっと、答えがわからなかった。ただの先輩後輩だ、とそれに考えをとらわれて、他のことは見えないようにしてきた。
ずっと一緒にいたい。隣で笑っていたい。
理央が泣いてたら、俺が抱きしめてやりたい。
理央が苦しんでたら、一緒に苦しみを分かち合いたい。
その分、一緒に幸せになりたい。
この感情を、なんと言うのだろう。
「すき…」
そうだ、これ、好きって感情だ。
海智の時よりも、より深い感情で気づかなかった。
ようやく、わかった。
俺、ずっと、理央のことが好きだったんだ。
そう自覚して、言葉に出してしまってから、どんどん身体が熱くなっていく。顔に熱がこもり、耳の先まで真っ赤になるのが自分でもわかった。理央は、茫然と俺を見ている。その沈黙が、一瞬だったのか一時間だったのかわからないほど、長く感じられた。口をぱくぱくと開閉させて、何かこの沈黙を打ち破らないと、と頭を回すが、人生で初めての告白が、こんなベッドの上になるなんて思わなくて…、などいろいろな無駄なことまでぐちゃぐちゃと混乱してしまう。
「んぅっ」
目が回る…と一人で大混乱していると、両手で顔を引き寄せられる。どんどん理央が近づいてくると思ったら、唇がふさがれてしまった。熱く湿った吐息が唇をかすめながら、ゆっくりと離れていく。顔を赤く染めた理央が、瞳を潤ませながら、俺を射抜いた。声をかけようとするが、理央の顔が今度は反対側に倒されて、すぐに近づき、唇に吸い付く。ちゅ、とリップ音が静かな個室に響き、ぴくん、と身体が小さく反応してしまう。
でも、拒否することなんかできなくて、理央の顔に手を添えて、甘いキスをうっとりと受け入れる。触れた顔や耳は驚くほど熱くて、その体温の上昇に、自分もつられて熱くなってしまう。
嬉しい。
こうやって求めてもらえることが。全身が粟立つほど喜んでいる。ずっとこうしていたい、と思えるほど、浮遊感があり、現実味がない。
しかし、唇を、ぬる、と熱い舌がなぞったときに、は、と現実に戻る。そして、理央の口元を両手で塞いで押し返す。
「しぇんぱい…」
じと、と理央が俺を睨んでいる。無意識に、そのまま理央の唇をごしごしと拭う。
「なにしてんの…」
「だ、だって…」
理央は俺を睨みつけたまま、俺の手首を捕まえる。理央の唇がやや赤くなっている。攻めるような瞳に、視線を泳がす。
「理央の話、まだ聞いていないし、それに…」
「それに?」
理央は小首をかしげながら、わざと視線が合うように顔を動かして俺を追いかける。あまりにもしつこくて、観念して、その瞳に間近で見つめられながら答える。
「お前、あいつと、キス、してたろ…」
そういうの、やだ…。
消え入りたいほど恥ずかしさに震え、見られたくなくて、目をつむったまま言い放つ。また沈黙があって、おそるおそる、瞼を持ち上げると理央の顔は変わらずそこにあった。瞳がぶつかると、すぐに抱きすくめられてしまう。
どっどっ、と力強く早い心音が身体を伝って、流れ込んでくる。病院着の男の心音としては、心配になってしまう。それを言おうとすると、絞り出すような身体の奥底からの声で理央は囁いた。
「俺…りん先輩のこと…すっげえ、好き…」
え、と驚いて、声を漏らして目を見張る。
「っすげえ、すげえ、好き。本当に好き。すっごく好き」
諦めなくて良かったぁ…と、肩口に当てられた声はくぐもっていたが、俺には聞こえていた。
顔を見たい。胸元に手を指しこんで、力をこめるが、身体は離れてくれない。
「理央、顔、見たい」
「…だめ」
「なんでっ!俺のは見たじゃん!」
ぽかぽか、と軽く肩を叩く。まだ病院着だからな。しかし、余計に身体をきつく抱きしめられてしまい、離れることが困難になってしまう。
「好きな人の前では、かっこよくいたいの」
本当は、もっとかっこいいこと言う予定だったのに。
目の前の大きな身体が、はー、と長く深い溜め息をつき、背中がしずむ。その息に襟足がそよぎ、むずがゆい。それに誘われて、顔がにやけると、くす、と笑ってしまう。
「なあ、理央の顔見たい。…だめ?」
背中をとんとん、と叩くと、ゆっくりと身体が起き上がってきた。すり、と頬を擦りつけられた。その熱さも愛おしく思える。
眉を下げて、目元も真っ赤にして潤んだ瞳に微笑んでしまう。
「俺、理央のこういうとこが好き」
頬に手を添えて、目元を優しく撫でる。
かっこつけたいのに、つかなくて、必死で、あほで、かわいくて、かっこいいところ。
その手に唇が吸い付いて、理央も微笑んだ。
「俺も、先輩のそういうとこ、大好き」
じいん、と指先が痺れる。嬉しくて、涙がにじんだ。こぼれないように俯こうとすると、その前に、首を伸ばした理央が唇をあわせる。
「っ、だから、お前…」
「先輩が、消毒してよ」
俺の両手をつかんで、自分の頬を包むように宛がう。長い睫毛を持ち上げて、ね?とおねだりする後輩兼恋人に、俺は逆らうことができずに、甘やかすように、首を伸ばした。
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