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第61話
俺たちは、こんこん、という控え目なノック音で現実に引き戻された。あれだけ俊敏な動きをできた自分をほめたい。すぐに理央を突き飛ばして、椅子に座り口元を拭った。入ってきた医師が、眼鏡越しにぱちくり、と瞬きをしていたのを、咳払いをしてごまかす。それを合図に医師は気を取り直し、理央のもとへ足を伸ばした。いくつか理央の様子を見とると、微笑んだ。
「さすがですね、元気そうで安心しました」
健康そのものです、とペンを胸元の白衣のポケットから取り出しつつ、医師は告げる。
「先生こそ、お元気そうでなによりです」
にこにこと返答する理央に、医師とは以前から知り合いだったのか、と首をひねりながら、その横顔を見た。
どれだけの時間、キスをしていたのだろうか。夢中でお互いの唇に吸い付いて、舌を絡めさせた。意識すると、唇がじん、と甘く痺れて、舐められすぎた口蓋も同じように痺れている気がする。医師と笑顔で話す理央の口元を覗くと、やっぱり赤い。その色に気づいてしまって、かあ、と顔に熱が勝手に集まってしまう。
「んで、もう退院していいですか?」
「今夜いっぱいは様子を見ましょう」
さらさらとカルテに何かを書き足して、表情の乏しい大柄の看護師に渡す。彼と医師がちら、と目配せをすると病室から静かに出て行った。医師は、理央に向き直ると、今度は俺をちらっと見やった。
あ、と思い、腰を上げる。
「理央、俺、売店いってく…」
るから、と言い切る前に、理央が俺の手をつかんで、行かないでと訴えかけるように、眉を下げて潤んだ瞳で見上げてきた。
「先生、この人、俺の特別な人なんだ」
「なっ」
「それは…」
医師は、大きな瞳をまた眼鏡越しに何度かしばたいた。失礼しました、と頭を下げられて、いや、そんな…と手を上げる。他人に堂々と宣言してしまう恋人の横顔を、熱い頬でちらりと見やった。いい加減、手を離してほしい。そう思っていることを見透かしたように、理央は俺の手を握りしめた。
「理央くん、君はフェロモンレイプを受けたよね?」
「レイプしてないけど…」
真剣な医師の声に、ぷく、と頬を膨らませて言い返す。医師は眉を下げながら笑う。なんだか、深い仲に見える。
「フェロモンを意図的に大量にあびせられることをそう言うんだよ。…それに君は被害者だよ」
その言葉に、俺をうつむいた。理央を守れなかった自分を情けなく、非力さを悔やみ下唇を噛み締めた。
「オメガのフェロモンレイプを受けたアルファは、性障害を抱えることが多い」
は、と息を飲む。目を見開いて、医師を見上げると、医師はまっすぐに理央を見つめ、真剣に低い声で語り続けた。
「受けたフェロモンはかなりの濃度だったからね。可能性は高い。おまけに君は、僕が処方した抑制剤を一か月分もかからずに使い果たす暴挙をしてしまったようだし…」
はあ、と眼鏡を押し上げて、眉根をつまんで揉む医師は険しい顔を続けた。
「アルファは医学的にも、オメガの遺伝子を欲するようにつくれられていることが最近の定説だとされている。その欲望を薬でねじ伏せて、おまけに大量のフェロモンを抑えこんだ君のアルファは、次、オメガに出会った時、不慮の事故が起こしてしまう可能性が非常に高い」
有識者からの言葉に、頭をがん、と殴られた気分だった。アルファとオメガは、遺伝子レベルで密接に絡みあっているのだ、と。
「次、ラットになったとき、君は抑制剤が効かないだろう。それに、…もう、オメガ以外を抱くことはできないかもしれない」
俺に気を使ってか、声を落して、医師は苦々しくつぶやいた。
今で握りしめている手を、空いている手で押しのけて、離させようとする。しかし、より力が込められて、離さないと言われたようだった。
「それだけ?」
え?、と理央を見上げると、いつもの笑顔で医師を見上げていた。
「も~お医者さんって本当にネガティブなことばっか言うから嫌~」
仕事だからしかたないけどさ~、と理央は笑いながら楽しそうに言い放つ。俺も医師も、目をひんむいて、こいつを見る。
「理央くん…」
「先生、知ってるでしょ?俺、アルファとかオメガとか、ベータとか、バースって大っ嫌い」
医師は理央の言葉を聞くと、視線を落した。
「本当に、バースって呪いだ…」
小さく、かすれた声でつぶやく理央は、寂しそうに笑っていた。
「でも、大丈夫。俺、健康だけは自慢だから」
子供のように表情をころころ変えながら、屈託なく笑う理央に医師は呆れたように笑っていた。
医師から、明日の退院を約束をとり、定期的な通院を告げられる。顔なじみらしい医師は、俺に微笑み頭を下げてから、病室を出て行った。
二人して、誰もいなくなったドアを見つめたまま固まっていた。何度か理央を見るが、表情は見えない。しかし、手は未だに捕まったままで、逃げることが出来ていない。重い沈黙が続く。何度か、打ち破ろうとするが、開けた口は、今しがた伝えられた事実を、理央がどう受け止めているのかを考えると、気の利く言葉は思いつかなかった。
「ねえ、りん先輩…」
声がして、顔を上げるが理央はこちらを向かずに続けた。ぎゅ、と握られた手は、しっとりと湿っている気がした。
「今更、いらないって言われたって、離してあげないからね…」
首をかしげると、理央はこちらに振り向き、真摯な眼差しで俺を見つめた。
「りん先輩が、えっちなランジェリーを付けてくれたら、簡単に勃起できるから安心してね」
何を言っているかわからずに、目を何度か瞬かせる。俺が困惑しているのがわかると、理央は、あ、と声を上げて、急いで言い足す。
「あ、えっちなコスプレでもいけますよ?」
真面目に心配した俺の心配を返せ、と「それとも、俺のシャツでえっちに彼シャ」、ツと言い切る前に、フロア中に響く渡るほど思い切りビンタした。
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