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第65話

 翌日、足早に佳純の別荘へと急いだ。  理央も一緒に行きたがっていたが、リコールの準備をするぞと総一郎に首根っこを捕まれていってしまった。俺が言い出したことなので申し訳なく思っていると、総一郎は「自分の代の後始末は自分の代で済ませないとな」と眉を下げながら笑っていた。だからこそ、俺がやるべきだと思ったのだが、「阿久津のフォローは凛太郎しかできんよ」と背中を教えてくれた総一郎の優しさに甘えさせてもらった。  最寄り駅まで行って、タクシーに乗り込む。別荘に到着すると、執事が出迎えてくれる。駅までお迎えにあがりましたのに…と告げる白髪の男性は、古くから阿久津家につかえる人だ。俺も顔なじみで、挨拶をいくつか交わす。長い廊下を後をついていき、いくつもある扉を通り過ぎて、一番奥の部屋をノックした。返事が返ってきて、執事は扉を開けて、身体を避けた。礼をして、中へと踏み入れる。  大きなはめ込みの窓ガラスの前に、キングサイズのベッドがある。その上に小さな男が横たわっている。その手前に、大きな背中を丸めて項垂れる影が見えた。そっと近づく。佳純の数歩後ろから、ベッドを覗き込むと、柔らかな日差しを受けながら、安らかに眠る顔があった。一瞬、死んでいるのかと思ってしまい、腕にかけていた薄手のコートを落してしまった。そのくらい、顔は真っ白で、唇も乾燥して色味がない。少し見ていると小さく呼吸しているのがわかって、胸を撫でおろし、コートを拾った。見上げると、腕に刺さった点滴が、と、と、と落ちて行っているのがわかった。  ぽん、と肩を叩くと、びくりと大きく身体が揺れて、こちらまで驚く。その薄くなった肩に、眉を寄せてしまう。 「…佳純、大丈夫か?」  遅くなって悪い、と小さくつぶやくように話しかける。 「…俺なんかより、七海が…七海が…」  かすれた頼りない声は、どんどん喉をしぼって苦し気に呻き、さらに項垂れる。かすかに肩が震えていた。 「色々、立ち会えなくて悪かったな…」  見つかって良かった、と笑顔で言おうかと思ったが、そう言えるほど、七海にも佳純にも生気が感じられなかった。きゅ、と下唇を噛み締める。 「…いや、こちらこそ、色々とありがとう」  大きな手で顔を何度かこすった佳純は、顔をあげて礼を伝えてきた。その顔色も蒼白で、クマもひどい。頬もこけたように見える。 「凛太郎がいなかったら、七海を助けられなかった」  恩に着る、と佳純は頭を下げた。 「おいおい、らしくねえじゃん。佳純って、そういう礼儀を持ち合わせてたんだな?」  へへ、となんとか笑い飛ばすと、佳純の表情も少しほぐれたように見えた。 「…俺は、しばらくは七海の傍にいるが、リコールの件も進めてくれ」  必要なものはデータで送ってくれ、と平然とやつれた顔で言い放つ佳純に瞠目する。 「んなこといいよ。俺、そんな見返り欲しさに協力したわけじゃねえよ」 「いや、いい。七海を守るためには、学園を変えることの重要性は理解しているつもりだ」  あとからわかったことだが、シェルターの管理を務めていた男の一人が、この事件後、急に辞職した。その男の経歴を追っていると、本多の実母の家に関わりがある人間だったことがわかった。絶対に平等性をかけてはならない場所で、そのような大きな危険が潜んでいることは、許されないことだった。  他にも、色々と学園の態勢として弱いところを佳純は睨んでいるらしく、瞳だけは力強く光を放っていた。 「それに、凛太郎がいるなら、多少は安心だ」  憎まれ口を叩きだした腐れ縁の幼馴染を軽く睨むと、やつれた顔で笑っていた。 「じゃあ、よろしくな。佳純がいてくれんなら、俺も多少は暇になるだろ。…だから、」  骨ばった肩をつかんで、こちらを向かせた。両肩を握りしめて、まっすぐと見つめる。 「ちゃんとしろ!今のお前、最悪!」  髪の毛は艶をなくし、乾燥で唇もあれている。なんだか濡れた野良犬みたいなにおいもする。 「んな顔みたら、お姫様、お前のこと幻滅するぞ!」  ちゃんと風呂入って、ちゃんと飯食って、ちゃんと寝ろ。  お前が隣で唸り続けても、こんなんじゃ起き上がりにくいだろうよ。  そう強く言って肩を揺さぶると、簡単にその身体も前後に揺れてしまう。 「でも…」 「お前…どうせお姫様の前でかっこつけてきたんだろ?じゃあ、こんなんじゃ嫌われちまうぞ…?」  嫌い…とつぶやいた佳純は、目元に強い意思をよみがえらせた。 「そうだよ、このお姫様を逃したくないなら、ちゃんといい男でいろ!まずそれからだ!」  寝たきりの七海を見てから、俺を見上げた。  ふ、と笑ってから、立ち上がらせて背中を押した。 「俺がお姫様のこと見てっから、お前はまず風呂に入って、その野良犬みたいな臭いを落してこい!」  野良犬…とつぶやきながら、扉の外に佳純を追いやった。本気で足を止めようと思えばできたはずだが、佳純は言う通りに動いた。  ふう、と溜め息をついてから、佳純の座っていた椅子に腰かける。近くにいると、すう、すう、と規則正しいかすかな寝息が聞こえて、彼がちゃんと生きているのだと安心する。だから、佳純はここを離れられなかったのかもしれないと思った。  本多と大崎がやったことは、報告書であらかた理解していた。  発情期中のオメガを誘拐することは、アルファには造作もないたやすいことであっただろう。以前の三人は、非常に仲睦まじい様子だったらしい。それが、転校生の登場により、本多と大崎は部活を守るために、自分に本薙の目を向けさせた。そこには、七海との時間を犠牲にするしか方法がなかったのだろう。  しかし、やつらのやったことは許されない。  発情期中の七海を、アルファ二人で犯し続けた。発情期が終わっても、アルファの催淫フェロモンを当て続けた。二人のアルファからの熱烈な催淫フェロモンは、きっとオメガにとっては拷問に近かっただろう。交互に犯され続け、それでも飽き足らず、フェロモンに耐性ができ始めた七海を、彼らは違法のオメガの発情剤を投与して犯し続けた。  発情期中に散々、二人のアルファの濃厚な精をそのまま浴びせられたはずなのに、七海は妊娠していなかった。不幸中の唯一の幸いだと思えるが、それは、フェロモンレイプと発情剤の影響だった。そのせいで、七海のホルモンバランスに異常が起きているらしかった。  もし、佳純が助けに入らなければ、七海はどうなってしまったのだろうと思うと、背筋が凍る。  アルファのオメガへの執着は異常らしい。学園でも有名な優秀なアルファ二人が、人生を棒に振ってでも、七海を手に入れようとした。アルファの恐ろしさを痛感する。搾取されるオメガへの同情、アルファへの畏怖。そこまでお互いを縛りあうアルファとオメガの遺伝子で絡み合う呪い。  恐ろしいと思う。腹の底から冷えていくのを感じる。  しかし、同時に遺伝子で惹きあうアルファとオメガに嫉妬も覚えてしまう。それは、アルファの男を二回も愛したベータの男だからだとも思う。  こんなに恐ろしい場面に体面しても、オメガと手をとり、裏切り続けたアルファの男は、俺の心臓を食い荒らしているらしい。自分が、オメガだったら、何度も考えたことだった。自分がオメガだったら、アルファを自分だけのものに出来たのだろうと。番という、俺にはわからない未知のつながりでお互いを縛れたのだろうと。  そんな浅ましい自分が嫌いだった。ありのままの自分を愛したかった。ベータだから、なんて、そんなつまらないこと気にしたくなかった。だからこそ、本薙のオメガ性を打ち破った理央と一緒になろうと、自分は決めたのだと思い起こす。  は、と視線を上げると、顔色の悪い七海が小さく寝息をたてていた。理央に会いたい。猛烈に今、そう思った。

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